廃村を告げる活字に桃の皮
ふれればにじみゆくばかり 来て
東 直子『春原さんのリコーダー』
ふれればにじみゆくばかり 来て
東 直子『春原さんのリコーダー』
東直子の短歌は「しみこみ系短歌」である。本人が「しみこみ系の歌が好きだ」と公言している。では「しみこみ系」短歌とは何か。東自身の定義によると、「具体的なことはあまり書かれていなくても、しかしゲル状になってひたひたと心に「しみこんで」くるような歌のことです」(穂村弘・東直子『短歌はプロに訊け』本の雑誌社)ということなのだが、当人があまりよく説明できていないのがおもしろいところである。ふつう読者の立場から見た短歌は、「読む」(刺激の受容)→「理解する」(内容の把握)→「咀嚼する」(把握した内容を自分の経験などと照らし合わせる)→「共感」(内容が心に届く)というプロセスをたどると考えることができる。東のいう「しみこみ系短歌」とは、このプロセスのなかの「理解する」と「咀嚼する」の部分をすっとばして、「読む」がいきなり「共感」へと回路を開くような短歌ということになる。
掲載歌の「廃村を告げる活字」は、おそらく新聞が廃村を記事にしているのだろう。「桃の皮」とあるのは、その新聞紙の上で桃をむいているにちがいない。桃の汁が新聞紙に滲んで行く。ここまではわかるのだが、最後にいきなり「来て」とあるのは、いったい誰に呼びかけているのだろうか。ある意味で理解を前提としない作り方なのだが、全体としてみると、廃村と桃の組み合わせは、人のいなくなった村に桃がなっているという牧歌的情景を成立させ、廃村という淋しい現実と並べてあると、最後の「来て」という呼びかけが、ある種の切実さを感じさせることに成功している。
現代短歌は前衛短歌を経て、ますます多様性を深めた。その結果、ならべて読んだとき、果たして同じ「短歌」というジャンルに属するのかという疑問すら湧くほど、表現の振幅は大きい。
さくら花畿春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり 馬場あき子
あひ逢わば告げむことばの数々をめぐらして夜半の心冴えまる 藤井常世
一読して、短歌というより和歌だと感じる。調べはあくまで流麗かつたおやかで、古語・雅語を駆使して定型にきちんと収まっている。これも現代短歌である。
ゆく水の飛沫き渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱く 佐佐木幸綱
現代には珍しい男歌の担い手である佐佐木の歌は、格調高くて大きな声で朗唱するのに向いている感じがする。どこか直立不動で筋肉に力が入っている印象を受ける。空手の型が決まった時の感じといったらいいだろうか。
東直子の歌は、これらの短歌のいずれからも対極にあると言ってよい。古典に連なる和歌の伝統からは完全に切れており、かつまた前衛短歌の内包する思想性からもほど遠い。その本質は自己の体内の奥深く生暖かいあたりから、体感的に感得される名付け得ないものを汲み上げコトバにする能力である。
駅長の頬そめたあと遠ざかるハロゲン・ランプは海を知らない
神様の選びし少女ほのぼのと春のひかりに鞦韆(しゅうせん)ゆらす
好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ
鳩は首から海こぼしつつ歩みゆくみんな忘れてしまう眼をして
もういくの、もういくのってきいている縮んだ海に椅子を浮かべて
水かきを失くした指をたまさかに組み交わすとき沁み合うものを
「理解する」と「咀嚼する」の部分をすっとばすというこの作歌傾向が極端になると、次のような歌になる。
みずのなかてっぺんまでひたひた すーんとするママンあたしはとかげ 本名陽子
いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どうしたかという、5つのWとひとつのHが全部抜け落ちていて、オノマトペがかもしだす体感だけが残る。澤田康彦の主催するFAX短歌会「猫又」で、評者の穂村弘はこのような傾向の短歌を評して、「フレームのない脳で作るとこういう歌になる」と言い、もうひとりの評者である東に、「東さんはそっちの達人ですね」と続けている(「短歌があるじゃないか」『本の旅人』2003年2月号、角川書店)。もちろん親しみとユーモアを込めての評だが、言い得て妙である。
これをもう少し難しい言葉でいうと、「言語の身体性」ということになるのだろう。言葉が観念を指示するのではなく、言葉が記憶のなかに呼び起こす状況のなかで私の身体が感じた感覚の方が浮上することによって、読者の側にある種の共感が生まれる、そのような場所に東の短歌は成立しているように思う。
つっと走る痛みのような稲妻が遠ざかったらぬるめのお茶を
駅前のゆうぐれまつり ふくらはぎに小さいひとのぬくもりがある
「そら豆って」いいかけたままそのまんまさよならしたの さよならしたの
ゆうだちの生まれ損ねた空は抱くうっすらすいかの匂いのシャツを
掲載歌の「廃村を告げる活字」は、おそらく新聞が廃村を記事にしているのだろう。「桃の皮」とあるのは、その新聞紙の上で桃をむいているにちがいない。桃の汁が新聞紙に滲んで行く。ここまではわかるのだが、最後にいきなり「来て」とあるのは、いったい誰に呼びかけているのだろうか。ある意味で理解を前提としない作り方なのだが、全体としてみると、廃村と桃の組み合わせは、人のいなくなった村に桃がなっているという牧歌的情景を成立させ、廃村という淋しい現実と並べてあると、最後の「来て」という呼びかけが、ある種の切実さを感じさせることに成功している。
現代短歌は前衛短歌を経て、ますます多様性を深めた。その結果、ならべて読んだとき、果たして同じ「短歌」というジャンルに属するのかという疑問すら湧くほど、表現の振幅は大きい。
さくら花畿春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり 馬場あき子
あひ逢わば告げむことばの数々をめぐらして夜半の心冴えまる 藤井常世
一読して、短歌というより和歌だと感じる。調べはあくまで流麗かつたおやかで、古語・雅語を駆使して定型にきちんと収まっている。これも現代短歌である。
ゆく水の飛沫き渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱く 佐佐木幸綱
現代には珍しい男歌の担い手である佐佐木の歌は、格調高くて大きな声で朗唱するのに向いている感じがする。どこか直立不動で筋肉に力が入っている印象を受ける。空手の型が決まった時の感じといったらいいだろうか。
東直子の歌は、これらの短歌のいずれからも対極にあると言ってよい。古典に連なる和歌の伝統からは完全に切れており、かつまた前衛短歌の内包する思想性からもほど遠い。その本質は自己の体内の奥深く生暖かいあたりから、体感的に感得される名付け得ないものを汲み上げコトバにする能力である。
駅長の頬そめたあと遠ざかるハロゲン・ランプは海を知らない
神様の選びし少女ほのぼのと春のひかりに鞦韆(しゅうせん)ゆらす
好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ
鳩は首から海こぼしつつ歩みゆくみんな忘れてしまう眼をして
もういくの、もういくのってきいている縮んだ海に椅子を浮かべて
水かきを失くした指をたまさかに組み交わすとき沁み合うものを
「理解する」と「咀嚼する」の部分をすっとばすというこの作歌傾向が極端になると、次のような歌になる。
みずのなかてっぺんまでひたひた すーんとするママンあたしはとかげ 本名陽子
いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どうしたかという、5つのWとひとつのHが全部抜け落ちていて、オノマトペがかもしだす体感だけが残る。澤田康彦の主催するFAX短歌会「猫又」で、評者の穂村弘はこのような傾向の短歌を評して、「フレームのない脳で作るとこういう歌になる」と言い、もうひとりの評者である東に、「東さんはそっちの達人ですね」と続けている(「短歌があるじゃないか」『本の旅人』2003年2月号、角川書店)。もちろん親しみとユーモアを込めての評だが、言い得て妙である。
これをもう少し難しい言葉でいうと、「言語の身体性」ということになるのだろう。言葉が観念を指示するのではなく、言葉が記憶のなかに呼び起こす状況のなかで私の身体が感じた感覚の方が浮上することによって、読者の側にある種の共感が生まれる、そのような場所に東の短歌は成立しているように思う。
つっと走る痛みのような稲妻が遠ざかったらぬるめのお茶を
駅前のゆうぐれまつり ふくらはぎに小さいひとのぬくもりがある
「そら豆って」いいかけたままそのまんまさよならしたの さよならしたの
ゆうだちの生まれ損ねた空は抱くうっすらすいかの匂いのシャツを