第65回 柴田千晶『セラフィタ氏』と俳句作品

 藤原龍一郎さんから『セラフィタ氏』という本が送られて来たのは、ずいぶん前のことになる。柴田千晶の現代詩と藤原の短歌のコラボレーションという珍しい企画で、黄色く巨大な花芯と赤い花弁を持つ花が描かれた表紙のどぎつさと、「派遣OL、東京漂流」という帯文の惹句にいささかたじろいで、パラパラと中身を見ただけで、書架に配していた。ずいぶん前のことである。
 邑書林から出版されたU40の若手俳人のアンソロジー『新撰21』が大評判となり、シンポジウムまで開かれたのを受けて、このたびU50の俳人を集めた『超新撰21』が上梓された。収録された俳人を眺めていると、何と柴田千晶の名があるではないか。がぜん興味を惹かれて収録された柴田の俳句を読み、その勢いで書架から『セラフィタ氏』を引っ張り出して読んだ。俳人柴田、恐るべし。柴田は現代詩人でありながら、マンガの原作や映画脚本も書き、俳句も作る人だったのである。
 『超新撰21』のプロフィールによると、柴田は1960年横須賀生まれ。この横須賀が大きな意味を持つ。1988年に現代詩ラ・メール新人賞を受賞。97年に「街」に入会して、今井聖に師事している。句集に『赤き毛皮』、詩集に『空室1991-2000』がある。『セラフィタ氏』で横浜詩人会賞受賞。
 今井聖は加藤楸邨門下で、人生探求派の伝統を継ぐ俳人だが、その麾下には北大路翼のような自由律俳句の影響色濃い無頼派の俳人がいる。柴田は自由律ではないものの、独自の切り口から人生探究派に入る俳人のようだ。俳句作品から見てみよう。
夜の梅鋏のごとくひらく足
片栗の花大腿は真昼なり
快楽はオートマティック紫荊
からつぽの子宮明るし水母踏む
まはされて銀漢となる軀かな 
円山町に飛雪私はモンスター
機関車の突き刺さりたる春障子
色情霊憑いていますと青葉木菟
 柴田の俳句作品と現代詩に共通するテーマは、現代の性愛と肉体の不毛である。そのような傾向の強い句を選んであげてみたが、『超新撰21』巻末の座談会で小澤實が述べているように、「何もここまで言わなくても」という拒否感を感じる人も多いだろう。一句目の「夜の梅」は伝統俳句の季題で始まるかと思えば、「鋏のごとくひらく足」は性行為の場面であり、その描き方の突き放した無機的なところに特徴がある。三句目のように快楽をオートマティックと捉えるのが、肉体と快楽とが乖離した作者の心を表していよう。四句目は「水母踏む」のぐにゃりとした皮膚感覚がポイント。五句目の「まはされて」は輪姦されるという意味だが、それによって身体が天の川になるという見方も尋常ではない。肉体と意識の乖離が甚だしい。六句目の「円山町」は渋谷のラブホテル街で、『空室1991-2000』はこの町で起きた東電OL殺人事件に想を得た詩集だというから、作者には馴染みの深い土地である。七句目については『超新撰21』巻末の座談会で、高山れおなが卓抜な読みを披露している。障子に突き刺さっている「機関車」が男根の比喩であるのは、石原慎太郎の『太陽の季節』に由来するが、ここではあさっての方向を向いて突き刺さっていることが、家族における世代の更新という機能を失った性を暗示するという。またこの機関車は横須賀線の比喩でもあるというのが高山の読みだ。横須賀線は行き止まりの支線であるにもかかわらず、帝都東京と軍港横須賀を結んでいたため特別扱いされたという。そういえば柴田には、「臨界工業地帯の虚空夜光虫」や「瘡蓋のやうな横須賀花曇」のように、横須賀を暗く詠んだ句があり、高山の読みには深く納得させられる。
 俳句でここまで性愛を前面に押し出した作家が北大路翼以外にいるのかどうかよく知らないが、短歌の世界では林あまりと川上史津子の例が頭に浮かぶ。
夕焼けが濃くなってゆく生理前
 ゆるされるなにもつけないSEX  林あまり『ナナコの匂い』
このいまのあなたの匂い
 くんくんとただくんくんとこのいまのため

聴きたいの我慢出来ずに洩らす声もっといっぱいなめてあげるね
                川上史津子『恋する肉体』 
両脚を縛られ吊られさるぐつわ敢えて志願の人工人魚
 しかしこれは柴田とはまったく異なる世界であることに注意しよう。林には男の対立項としての女という意識が強くあり、また性愛は快楽をもたらすものである。川上の短歌には暴力的な性の場面が描かれてはいるものの、それほど背徳的な匂いもせず、どこかコミック的で可愛くすらある。しかし柴田が描く性愛の世界では、主体=〈私〉と快楽とが完全に切断されていて、主体=〈私〉は醒めた目で快楽を眺めているだけである。これが「円山町に飛雪私はモンスター」との自己認識を生むのであり、描かれた性の不毛性を際だたせている。その即物性には慄然とせざるをえない。神戸の少年Aこと酒鬼薔薇事件以来、マスコミがこぞって使う便利な言葉に「心の闇」というのがあるが、柴田の乾いた即物的性愛の表現の背後には、何かの闇が横たわっているように感じられる。
 しかし他の素材による柴田の俳句では、これとは別の相貌をも見せていて興味深い。
冬川のごとし繋がれ眠る父
春の蝿父の背骨をのぼりゆく
臨終の男根浄む桜かな
曼珠沙華私の骨の中に父
雪の漁港「花火あります」と玻璃に
今は死後と告げられさうな梅雨夕焼け
銀漢や髪洗ふ手の一つ増ゆ
馬跳びの一人は死霊大枯野
 四句までは病床にあった父親が亡くなるまでを詠んだものである。写実を超えて言葉が肉に喰い入るような鬼気迫るものがある。五句目の人気のない漁港にそぐわない花火の張り紙の侘びしさといい、六句目の死後を思わせるような夕焼けといい、柴田の句は私たちをふとこの世を超えた別の世界に連れて行ってくれるような味わいがある。七句目や八句目のシュールな世界もまた同様であり、どこかこの世を突き抜けた感がある。
 さて、『セラフィタ氏』の方だが、こちらは東京で派遣社員として働く女性に、ある日、セラフィタと名乗る男から謎のメールが来て、それをきっかけに現実とも妄想ともつかぬ世界に引き込まれてゆくという内容の散文詩で、随所に藤原龍一郎の短歌が挟まれている。女性は『空室1991-2000』の作者ということになっているので、柴田自身かその分身であり、セラフィタ氏は『空室1991-2000』の中の一篇のある場面に通り過ぎた男らしく、詩の世界と現実と妄想とが分かちがたく通底しているあたり、柴田の俳句の世界と通じるものがあるかもしれない。現代詩の批評は私の手に余るもので控えることにして、藤原の短歌をいくつか引いておこう。
雨降ればオフィスの午後は沈鬱に沈み深海魚として前世
センサーのIDかざし読み取られたるすべてこそ、愛こそすべて
都市という巨人の昏き静脈は病みて風水乱れ乱れて
脱出と逃亡とその曖昧な差異こそ日々のうたかた、されど
白黒のニュース映画の雨が降る画面に男女 深き淵より
 一貫して都市生活者の慚愧と抒情を詠み続けて来た藤原の短歌は、都市の荒涼と幻想をくぐもった声で奏でる柴田の散文詩に実によくマッチする。藤原の短歌でよく雨が降るのは、藤原の基調がハードボイルドだからである。「深き淵より」De profundisは神を失った現代人の霊歌である。「ああ主よ、われ深き淵より汝を呼べり」は、柴田の詩と俳句のなかに、風の音に混じって切れ切れに聞こえる叫びのようでもある。