第180回 森井マスミ『まるで世界の終りみたいな』

(くが)しづみ国土ちひさくなる夏のをはりても咲きみだるる朝顔
            森井マスミ『まるで世界の終りみたいな』
 第一歌集『ちろりに過ぐる』に続く森井マスミの第二歌集『まるで世界の終りみたいな』は問題歌集である。問題歌集というのは、その意図・手法・成果に関して、世間の賛否が大きく分かれるだろうという意味においてである。まず歌集題名が目を引く。「~みたいな」というのはしばしば批判の的となる若者言葉で、それをわざわざ題名にしたのは、森井の意図してのポストモダン的シミュラークルだろう。表紙カバーは白地にオレンジ色で題名が印刷されているが、カバーを取ると一面のオレンジに白で同じ題名が印刷されていて、その図と地の反転がまるで網膜に残る残像のような効果を生む。栞文は第一歌集にも文書を寄せていた藤原龍一郎。
 次に歌集の構成だが3部に分かれた本体と、本体に入れなかった歌を集めた附録があり、巻末に制作年月と関連事項が置かれている異色の構成となっている。なかでも「制作年月」が本歌集の鍵となる重要な情報である。本歌集に収録された短歌は、2011年3月11日の東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原発の事故をまたぐ期間に制作されているからだ。つまり、「あの日の前」と「あの日の後」とが、まるで深いクレバスのように時間をふたつに分断しているのだ。本歌集には、その分断された時間の狭間で苦しみに身を捩る作者の声が充満しており、読んでいて胸が苦しくなることしばしばであった。
 森井は評論集『不可解な殺意』のなかで、無差別殺人事件に象徴される現代日本社会の病根について論じ、このような社会状況のなかで文学はいかに可能かを真摯に考え続けている。そして次のように述べている。
「ところで、ポストモダンにおける物語の消滅は、一方では近代的な規範を内面化した『私』の消滅と平行している。そしてその後にやってくるものは、データベース的な想像力によって生成される、キャラクターとしての『私』であり、純文学からライトノベルへの移行が、不可逆的な流れであることは、先に述べた通りである」(p.89)
 論旨の妥当性についてはひとまず措くとして、この引用が示すように森井が文学(短歌)を取り巻く社会状況に極めて敏感であることに留意しておこう。だからこそ『まるで世界の終りみたいな』なのである。国内では震災被害と原発事故や幼児虐待、国外では戦争とテロという現実が森井をしてこの書を書かせたのであり、本書は森井が綴る現代の黙示録であると言ってよい。ポストモダン世代のアポカリプスといった観を呈している。
名も知らぬ花揺れてをり詩と歌と廃れてのちの危険区域に
kibouのキーがこはれてカーソルが点滅したまま二年が経った
悪夢なら覚めればよいが 現実と夢の境を漏れ出す汚染水
衛るべき国ほろぶれど 日本といふ棺にあまる紅白の布
「戦後」といふことばはるけしタワーマンション並びゐる卒塔婆のごとくに
 想いが溢れる余りに定型の枠をはみ出して韻律さえ失った歌も多い。
国家予算を費やせどももはや取り戻せぬ現実といふあのしるきもの
「想定範囲」外の危機など避けられぬ邦 民主主義が麻原を生んだ
踏みしめることのできない土地でなぜひとは戦ひ続けようとするのか
 その一方で、『ちろりに過ぐる』でも試みられていた過去の文学作品の換骨奪胎という手法による歌もある。次はカミュの『異邦人』に想を得た L’Etrangerという連作である。
けふ、ママンが死んだ ひとはいつ死ぬかわからぬ、いつ死んだかさへ
泥水の眠り中でけんめいに子を産み落とすママンのかはりの
棺の長すぎる釘 打つために渡された小石、彼岸に転げ た
 歌集の構成と内容の紹介はこれくらいにして、通読して感じたことを書き留めたい。ひとつは「大きな言葉で語ることの危うさ」である。「大きな言葉」とはすなわち「遠景を語る言葉」だ。
 〈私〉を取り巻く世界の構造は「近景」「中景」「遠景」に分けられる。「近景」は日々を暮らす〈私〉のごく身近な世界で、それを構成しているのは家族・友人・職場などであり、そこに流れる時間の単位は「一日」である。たとえば次の歌に描かれた空間と時間は典型的な近景と言ってよい。近代短歌は自我の詩であり同時に生活の歌であったので、近代短歌が最もよく描いた世界である。
校正室のわれに幾度も来る電話かかる忽忙をいつよりか愛す 大西民子
 「中景」は近景よりもう少し大きな空間と長い時間を持つ位相で、暮らしている地域、故郷、あるいは国がそれに含まれる。時間は数十年の単位で、家族や友人以外の見知らぬ人々を含む一人称複数の「われら」がそこに関わる。中景を描くのは例えば次のような歌である。
碓井嶺を過ぎて雪やま濃きあはき縁曳きゆくちちははのくに  島田修二
 これに対して「遠景」は、イデオロギーと世界情勢の領域であり、空間は地球規模で時間は数世紀という単位となる。SFの世界ならば、規模はさらに拡大して宇宙全体、さらにはパラレルワールドにまで広がるだろう。
 『まるで世界の終りみたいな』所収の「創世記2013」という連作に次のような歌がある。
あのひとはノアに命じて箱船を造らせるべきだつたあの時
まさかあの大事な時にあのひとがモバゲーやつてゐたなんて信じられない
ドバイ、クウェート聳えたつビル 洪水を神を呪ひて建てし塔あり
鳩はまだオリーブをくはえ帰り来ず 水がひいても線量が高い
 これらの歌の下敷きにF1苛酷事故があるのは確かだが、手法そのものは「セカイ系」である。「セカイ系」とは、アニメ「機動戦士ガンダム」に典型的に見られるように、主人公である〈私〉がひょんなことから戦闘に巻き込まれ世界の命運を背負わされるというようなストーリーで、〈私〉が近景や中景をすっ飛ばしていきなり遠景へと接続する世界観を指す。
 短歌においては、景の遠近に応じて〈私〉の大きさと言葉の大きさが反比例の関係に立つ。近景では〈私〉が大きく言葉が小さい。「言葉が小さい」というのは、身近で卑近な出来事やちょっとした感情の揺れを表す語彙だということである。一方、遠景においては言葉が大きくなり〈私〉が小さくなる。大きな言葉とは、「民主主義」とか「大衆消費社会」とか「グローバル化」のように、政治的もしくは経済学的な「概念」を表す言葉を言う。概念とはそもそも一般化であり、その前では〈私〉は小さくならざるをえない。一般化されれば〈私〉は消滅する。一般化とは私とあなたの差を捨象することであり、〈私〉とは他と交換のきかない存在論的「例外」だからである。
 よく言われることだが、短歌はその短詩型としての制約から、小さなものをすくうのに適した器である。小さなことばが歌のなかで〈私〉を押し上げる。『ちろりに過ぐる』の評において、私は森井の短歌における〈私〉の位相の危うさに触れたのだが、『まるで世界の終りみたいな』においても、異なる経路からではあるが、同じことを指摘せざるを得ない。「大きな言葉で語る」ことには常に危うさがつきまとう。そのことに留意するべきだろう。
 その意味でも本歌集で気になるのは、巻末におまけのように置かれた附録である。ここには主に3.11以前に作られた歌が配されている。「ゴーギャンあるいはParadise Lost」、「火だるま槐多」、「俊徳丸」、「凍る」、「おとうと」といった連作は、展覧会や演劇に足を運び、それらの作品に触発されて作られた歌である。あとがきのなかで森井は、「『附録』は全くの蛇足になってしまったかもしれない」と書いている。つまり森井は一首の歌の価値ではなく、歌を作るに至った背景・状況という外的要因に基づいてこれらの歌をほとんど無価値と判断したのだ。
 これらの歌の中にも小さな言葉がすくい上げたものがあるはずだ。そういうものを大事にしなければ、短歌という短詩型は存在意義をなくしてしまう。そう思えてしかたがないのである。

第47回 森井マスミ『ちろりに過ぐる』

『ちろりに過ぐる』と〈私〉の四つの位相
 以前にこのコラムで取り上げた評論集『不可解な殺意』の著者森井マスミの第一歌集『ちろりに過ぐる』が今回の歌集である。著者の紹介は重複するので省く。最近では珍しいクロス貼りの重厚な造本で、表紙には黒を背景として悠然と泳ぐ鯉の絵がある。栞文は藤原龍一郎・尾崎まゆみ・吉川宏志・加藤治郎。帯文には藤原の栞文の一節が引かれている。後記・奥付から裏表紙の価格表示に至るまで旧字で統一されており、高い美意識を感じさせる。本コラムではパソコンの制約上、旧漢字をすべて再現できないことをご海容いただきたい。
 歌集題名は集中の「(世間よのなかはちろりに過ぐる)待つといふ長すぎる時間さへも、ちろりに」にあるが、「ちろりに過ぐる」は室町時代の小歌を集めた閑吟集から取られている。「瞬く間に過ぎてしまう」の意だが、「ちろり」には「短い時間」の他に、酒の燗をつける金属製の容器の意味もあり、「燗をつけるくらいの短い時間」でもある。題名が閑吟集から取られていることは、「引用」が森井の方法論の根幹にあることを雄弁に示している。
 本歌集は結社誌『玲瓏』と詩歌文芸誌『GANYMEDE』に発表された作品を収録しているが、巻末に付せられた初出一覧からわかるように、歌集の構成は編年体でも逆編年体でもなく、意志的かつ演劇的に構成されている。この事実も森井の姿勢をよく表していることに留意しておこう。また内容を一読して驚かされるのは、表現形式の多様さである。通常の短歌に加えて、俳句作品と河内音頭まである。どう見ても栞文で吉川が述べているように、「非常に異色な問題作」なのである。どこがどう問題なのだろう。
 第III部に収録された初期作品を引いてみよう。
黒海の塩ひとつまみアーティチョーク嘘ふつふつと鍋底にゆれ
ゆくへ知らざる夢くくるとき 沈丁の花散りやまぬ黙の坩堝に
いくたびかいのち澄む夜のちりつばき にほふうつつに夢の縦傷
かへりみざれば乳白の過去なべて死を喚びさます潮の紺青
 いかにも師の塚本好みの語彙と美意識によって紡ぎ出された歌である。栞文で玲瓏の先輩である尾崎が書いているように、森井は「塚本の言語感覚を完璧に受け取り、完璧に制御している」のである。おそらくは完璧すぎるほどに。しかし、塚本短歌の語彙の強度と強靱な美意識を支えているのは、塚本の強烈な個性と戦争体験である。師が持つものを弟子は持たない。また背景となる時代も異なる。塚本の時代に成立した〈私〉は、現代では同じ文脈では成立しがたい。ならばどうするか。森井は新しい〈私〉を探しに出発するのである。そのとき演劇研究者である森井が採用したのは、本歌取りを超えた引用と換骨奪胎という手法なのだ。
 第I部に収録された「白桃の芯」は三島由紀夫『近代能楽集』の「班女」を下敷きにした自由な変奏である。また『死の棘』日記は島尾敏雄、「ひかりごけ」は武田泰淳を下敷きにしている。おまけに「白桃の芯」冒頭の歌「約束は秋、といふのに手にならす扇の骨はきしきし冷えて」は、後京極藤原良経の「手にならす夏の扇とおもへどもたゞ秋かぜのすみかなりけり」の本歌取りである。三島の「班女」がそもそも能の古典演目を元に作られた戯曲であることを考えると、まるでマトリョーショカのように幾重にも入れ子にテクスト関係が結び合わされていて、クリステヴァの言う「間テクスト性」intertextualityに満ちた言語空間を構成していることがわかる。さて、このような言語空間に置かれた次のような歌を読むとき、読者はいったい誰の声を聴くのだろうか。
ガラス窓鎖して夜から逃げ出して舟なき島にひとを思ひぬ
置いてきたビニール傘の白銀にだれかの指がふれた気がする
 「白桃の芯」はいちおう「班女」の主人公花子に成り代わって詠むという設定になっているのだが、思考動詞「思ひぬ」感覚動詞「気がする」の主語=主体を確定することは難しい。三島の『近代能楽集』自体が古典空間と現代とを往還する構造になっており、森井の歌における主体の〈私〉は幾重にも折重ねられた言語空間の中で反射し反響し、それを求めようとしても幻のように逃げ去ってしまう。
 栞文「シミュラークルの挑発」でこのことを問題としたのが吉川である。吉川は森井の方法論の根底には、短歌で従来言われてきた〈私〉が本当に存在するのか疑わしいという挑発が込められていることを認めた上で、本歌集を読む読者は困惑し、共感することが難しいと批判的に述べ、これに対抗する立場から次のように書いている。
 森井マスミは、作者の経歴(年齢・性別・生活環境など)を超越した〈私〉を仮構的に作りだそうとするのだが、短歌の〈私〉には、もう一つ別の面があって、作品の韻律や視点が生み出す〈私〉も存在するのである。
 
 最新歌集に『西行の肺』というタイトルを付けたことからわかるように、最近の吉川は歌の中に響く声や息づかいという身体性に重きを置く立場を採っている。その吉川から見れば森井の作り上げた言語空間はシミュラークルとしか思えないのであり、そこに本当の短歌の〈私〉は立ち上がることがないと考えている。
 吉川の発言をもう少し広い文脈に置いて考えるために、いささか図式的になることを恐れずに言うと、短歌の〈私〉にはざっと見回して少なくとも四つの位相があるように思われる。
 第一は歌中に直接的に〈私〉が登場する場合である。「我のみが初日にこだわる獄庭に太陽サンなど拝む者あらずして」(郷隼人)では、〈私〉は人称代名詞「我」と明示的に表現され、また「あらずして」と判断する主体としても働いているわかりやすい〈私〉である。一人称歌のほとんどがこれに当たる。
 第二は言語表現における視点が作り出す〈私〉である。『短歌ヴァーサス』11号に斉藤斎藤が書いた「生きるは人生とちがう」が論じているのは、このタイプのいささか手のこんだヴァージョンだが、これをなぞる形で言うと、「私」には「私は身長178cmである」というときの客体用法と、「私は歯が痛い」と言うときの主体用法の二種類の用法があり、現代短歌の〈私〉はこの複合体だと斉藤は言う。その上で、「飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆくいま紛れなき男のこころ」(岡井隆)の上句は主体用法の〈私〉で、下句は客体用法の「岡井隆」であり、全体として一首は「岡井のわたし」になっていると結論している。この場合、上句の「飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆく」が視点を含む言語表現になっているのだが、視点の置き方には無限と言ってよいほど様々なヴァリエーションがある。たとえば「もちあげたりもどされたりするふとももがみえる/せんぷうき/強でまわってる」(今橋愛)は性愛の場面を詠んだ歌で、仰臥する女性側に固定された固定カメラのような視点である。このように視点を固定するとよりシャープな〈私〉が形成されるかというと実は逆で、斉藤の言う「ななめ後ろから私を写すアングル」が少なくとも近代短歌には必要なようだ。なぜそうなのかという問に十分に答える用意が今の私にはない。ただ、考えられるのは、〈私〉とは関係概念であり、その擁立には他者を必要とするのではないかということである。「私」は他者を孕むことで初めて〈私〉としてくきやかに輪郭を獲得するのではないか。逆説的ながら、純度100%の私は〈私〉として立ち上がることができないのではないだろうか。
 第三は永田和宏の有名な「問と答の合わせ鏡」の反照力学によって浮上する力動的な〈私〉である。「退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり」(志垣澄幸)を引きながら、上句の問の拡散性と下句の答の求心力がはらむ緊張関係が一首を成立させると永田は論じた。これを斉藤風にアレンジすると、「退くことももはやならざる」が客体用法の私で、「風の中鳥ながされて森越えゆけり」が主体用法の〈私〉の反映ということになろう。しかし永田はここでは、問をできるだけ遠くに飛ばし、それを答によって再び回収する作者の力仕事の強度に焦点を当てて、それを「緊張関係の中に懸垂された一回性の発見」という張り詰めた言葉で表現している。
 最後の四番目は今までのように歌の中に構造的に作り出される〈私〉ではなく、吉川流に言うと「ふと感じられる」〈私〉である。ある言い回し、ある比喩、ある韻律の背後に生々しい人の存在を感じることがあり、その有り様は一様ではなく、また予測もできない。吉川が「身体性」という概念でくくろうとしている〈私〉である。たとえば、「つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる」(安永蕗子)という歌では、四句の「燃え殻のごとき」の八音が作り出す急かされるようなリズムに生々しい声を聞く思いがする。
 さて、では森井の歌集に話を戻すと、多様なテクストの換骨奪胎を重層的に組み合わせた森井の言語空間に見いだされる〈私〉があるとするならば、それは今まで述べてきた四つの類型のどれにも該当しないことは明らかである。森井のテクストには演劇性が濃厚に感じられるが、同じ演劇性でも寺山修司が短歌で駆使した「〈私〉の犯罪性」とも異なる。森井の〈私〉はテクストの重層性の燦めきのなかに反射し拡散するかのようでもある。
 森井は評論集『不可解な殺意』のなかで次のように述べており、自らの試行の解説と取れる。
 そして、文学を支える基盤である「私」自体が、近代的な「私」からボストモダン的な「キャラクター」へと移行していく中で、こうした状況を食い止める可能性を探るとすれば、前者を機能として構造的に回復していくか、後者に方法としての批判性を見い出すか、そのいずれかによるほか方法はないであろう。文学を成立させていた基盤そのものが、すでに瓦解している現状を、もうそろそろわれわれは、現実として受け止めるべきである。(「文学の残骸 ─ オタク・通り魔・ライトノベル」)
 江田浩司万来舎のホームページに書いた評論で森井の歌集を取り上げ、上に引用した箇所を引き、「規範的な短歌批評」に対抗して森井の試みを擁護する論陣を張っている。森井は「玲瓏」で江田は「未来」という結社のちがいはあるものの、江田もジャンルを横断する試みを続けていて、森井と立ち位置は近い。しかし、その江田も森井のテクストの孕む危険性を認めない訳にはいかないと言う。森井の試みがポストモダン的なシミュラークルの戯れ、表層の遊戯と見なされてしまう危険性である。それは森井の意図からは最も遠い受け取り方だろう。
 そう断った上で、さて、森井は本歌集で行った試みによって、新しい〈私〉を立ち上げることに成功しただろうか。この問に即答することは難しい。栞文を書いた歌人たちの受け止め方も様々である。劇という方法で新しい〈私〉を発見したと評価する尾崎を除いて、藤原も加藤も言い回しは異なれども、「その意欲と試みを高く評価し、今後を見守りたい」という意味の、栞文的な結び方で終わっている。確かに今の段階ではそれ以上のことを言うのは難しいだろうと私も感じる。このコラムを書いていて最も腐心するのは結びの文だが、今回に限ってはうまく結べない。森井の試みがそれだけ重みを持つものだという証左と見なしておきたい。

第34回 森井マスミ『不可解な殺意』

森井マスミ『不可解な殺意』(ながらみ書房)
 昨年四月の短歌コラム「橄欖追放」の再開の弁では、「歌集だけでなく歌書・歌論なども取り上げてみたい」と偉そうに書いたものの、その成果が上がっていない。今までに取り上げた歌書は大辻隆弘氏の『子規への溯行』ただ一冊である。その理由はかんたんで、歌集と比較して歌書は読むのに時間がかかり労力を要するからである。つまりは筆者が怠惰だということに尽きる。しかし短歌批評の不在が叫ばれる昨今、歌集にも増して歌書の出版は注目されてしかるべきだろう。というわけで今回は森井マスミ『不可解な殺意』(2008年12月刊行)を取り上げることにする。
 森井は昭和43年生まれ。現在、愛知淑徳大学教員で日本近代文学・演劇の研究者であると同時に、かつて近畿大学で教鞭を執っていた塚本邦雄に師事し傾倒した歌人であり、「玲瓏」編集委員。2004年に「インターネットからの叫び 『文学』の延長線上に」で現代短歌評論賞を受賞。『不可解な殺意』はこの論文を含めて、『短歌研究』などの短歌総合誌に掲載された評論に、書き下ろし論文を加えた構成になっている。帯文は佐佐木幸綱。まずは気鋭の論者による短歌評論集が世に出たことを喜びたい。
 最初に注意を引かれるのが本書のタイトルである。歌書に『不可解な殺意』というタイトルは異例だろう。副題に「短歌定型という可能性」とあるが、それがなければまるでミステリー小説の題名と言われてもおかしくない。この点に注目したい。他の歌書のタイトルはと傍らの書架を見れば、岡部隆志『言葉の重力』、三枝昂之『気象の帯、夢の地殻』、小笠原賢二『拡張される視野』、永田和宏『表現の吃水』などが並んでいる。タイトルに勝手に注釈を加えると、(短歌における)言葉の重力であり、(短歌によって)拡張される視野であり、(短歌の)表現の吃水だから、これらのタイトルの文言はすべて隠された冠のように(短歌)を戴いている。いずれもタイトルは短歌の〈内部〉にかかっている。同じ操作を森井の本に施すと、(短歌における)不可解な殺意となるので、まるで歌人が殺意を抱いているかのようである。しかしもちろんそれはちがう。「不可解な殺意」とは、記憶に新しい秋葉原無差別殺人事件のように、犯行後の「誰でもよかった」という犯人の自供に象徴される、現代社会に漂っている殺意をさす。だから「不可解な殺意」は短歌の内側ではなく、外側に存在するものだ。類書と違って短歌の〈外部〉をタイトルに据えたところに、現在の短歌状況に対する著者の認識が象徴的に示されている。この選択が本書の評価を左右するだろう。
 本書は四部構成になっている。第一部は書き下ろしの「文学の残骸 オタク・通り魔・ライトノベル」に代表される短歌を取り巻く状況論、第二部は筆者の傾倒する塚本邦雄と菱川善夫についての論考、第三部と第四部は歌人論と短歌鑑賞に当てられている。本書のどの部分を読んでおもしろいと感じるかで、読者ははっきりと分かれるにちがいない。伝統的な近代短歌派の人は、第三部と第四部の歌人論・短歌鑑賞を評価するだろう。ニューウェーブ短歌以降の若い歌人は、第一部の状況論を切実な思いで読むことだろう。本書に問題ありとすれば、それは塚本邦雄と菱川善夫をめぐる論考が手放しの讃辞に終始している点だが、そのことは不問に付す。著者が本書に『不可解な殺意』というタイトルを付けたということは、歌の〈外部〉を著者が重視していることを意味する。だから著者の力瘤がいちばん入っている第一部の状況論を中心に見てみたい。
 森井の考察は広汎に及ぶが敢えて要約すると、村上龍や高橋源一郎ら小説家の論考を引用して森井が確認するのは、大きく分けて次の2点である。第一は現代社会が共同体のシステムを崩壊させたため、個が孤立して剥き出しになっているという社会状況で、第二は近代文学のコード(高橋や穂村弘のようにOSと呼んでもよい)の耐用年数が切れたという文学状況である。森井はこのような認識の下で、インターネット上の「書きっぱなし」の言葉とそれへの共感に終始するレスに見られる物語を享受する力の低下と想像力の弱体化、その反作用として現れた感情の前景化とそれに起因する短歌の読みの困難さ、さらには短歌定型の弛みと韻律の崩壊などを論じている。教えられることも多く、なるほどと納得させられる箇所もたくさんある。それを認めた上での話だが、気になる点もいくつかある。
 まず森井の論はある意味で新たな「短歌滅亡論」として読めるという点である。滅亡論という用語が刺激的に過ぎるなら、短歌の危機に警鐘を鳴らす短歌危機論と言い換えてもよい。篠弘によれば今までに四つの大きな滅亡論があったという。明治43年の尾上柴舟の「短歌滅亡私論」、大正15年の釈迢空の「歌の円寂する時」、昭和初期の斎藤清衛・藤巻景次郎らによる滅亡論、そして戦後の第二芸術論である。篠の言うように「近代短歌は滅亡論との戦い」だったのは歴史的事実である。だから滅亡論自体は珍しいものではなく、近現代短歌は逆に滅亡論を糧として生きのびて来たとする逆説も成り立つ。さらに小笠原賢二は『終焉からの問い』の中で、「昭和三十年代以降の高度経済成長期の “平和と繁栄の時代”は、短歌の存立基盤を着々と侵蝕し揺るがし続けていた」と1992年に指摘している。したがって森井の短歌危機論は目新しいものではなく、小笠原がすでに着目した歴史的変化の着地点と見なすことができる。その上で明治以来の短歌滅亡論から小笠原までの論者の主張と森井の論を比較して、どこが同じでどこが異なっているかを知りたいものだ。というのも私たちはよく過去を忘却して現在を発見したと思い込みがちだからである。「あまが下、新しきものなし」などと賢しらに言うつもりはないが、人間のすることはそう変わらないものである。
 さらに気になるのは、作品はどこまで社会的状況によって規定されるのかという点である。極端な決定論の立場なら「芸術作品は社会状況の関数である」となろうが、さすがにイポリット・テーヌを思わせるこのようなテーゼを頭から信じる人はいるまい。かといって「芸術作品と社会状況の間に相関はない」と言い切る人もいないだろう。この両極端の立場の間に無数の中間的立場がありうる。森井の論法は、「現代社会に不可解な殺意が蔓延しているのはXのせいであり、現代短歌の現状もXのせいである」という推論を基盤としている。Xに代入されるのが「日本的共同体システムの崩壊」の場合、推論の前段「現代社会に不可解な殺意が蔓延しているのはXのせいだ」には馴染むが、後段「現代短歌の現状もXのせいだ」には少なからぬ違和感を覚える。社会状況と作品をあまりに直結しているからである。ここには隠された決定論がある。そしてあらゆる決定論と同じく、これは媚薬のように危険な香りがする。
 このことは森井の次のような文体にも感じられるのである。
「ところで、ポストモダンにおける物語の消滅は、一方では近代的な規範を内面化した『私』の消滅と平行している。そしてその後にやってくるものは、データベース的な想像力によって生成される、キャラクターとしての『私』であり、純文学からライトノベルへの移行が、不可逆的な流れであることは、先に述べた通りである」(p.89)
 この文の内容が東浩紀の分析に依拠していることは措くとして、連続する滝のような文から文への跳躍に目の眩む思いがする。文と文の間を隔てる論理的な隙間をもっと細かく刻むべきではないのか。そしてその作業は、現代の短歌作品の内奥に分け入るていねいな読みと分析によって支えられるべきではないのだろうか。第三部と第四部の歌人論・短歌鑑賞ではきちんと行われている読みと分析が、第一部において同じ精度でなされているとは思えないのである。上の引用部分の主張を読むと、私もたぶんそうなのだろうなと思う。それは私が東浩紀や大塚英志の本を読んでいるからである。しかしこのような言挙げは短歌の〈外部〉の変容によって〈内部〉の現況を説明しようとする試みであり、〈内部〉の細やかな読みに支えられて生まれた美しい抽象ではない。その間に大きな距離を感じてしまう読者がいることが問題点と言えないだろうか。
見えぬものを遠くのぞみて歩むとき人の両腕しづかなるかな
                    横山未来子『花の線描』
逃れられぬわが輪郭の見ゆる日を影もろともに動かむとせり
神の息のごとくに風の鳴れる朝しんしんとひとは行き交ふ四方よも
 横山の歌を読むと作品世界に入り込んだその瞬間、私の脳の中に銀河の輝く広大な宇宙が広がるような気がする。私は思わず「ああ」とため息を漏らす。極小の形式の中に極大の世界を宿す、これが言葉の力だ。ここには消滅などしていない〈私〉があり、ポストモダンの遊技性から遠く離れた静かな祈りの言葉がある。言葉の力の回復はこのような作品をひとつひとつ積み上げて、一人一人の中で行なうことによってしか達成されることはないのではないか。