第354回 澤本佳步『カインの祈り』

患いて街を離れたわたくしをやさしく照らすヤコブの梯子

澤本佳步『カインの祈り』

 本歌集の巻頭歌である。ヤコブの梯子とは、冬の日に空を覆う厚い雲の切れ目からスポットライトのように地上に差し込む一条の陽光をいう。それは天国へと続く梯子のように見える。この歌とこれに続く「この病は主の栄光を現すと語ったイエスに縋りつくのみ」という歌によって、作者の置かれた境遇がほぼわかる。簡明にして十分な自己表現であり、歌集の序章としてこれに優るものはなかろう。

 作者の澤本は1972年生まれ。あとがきによると、歌集出版に至る経緯がいささか特異である。澤本はどうやら一人で短歌を作っていたらしいが、通っている教会員から歌集出版を薦められたという。教会のパンフレットなどに短歌を掲載していて、それが教会員の目に触れたのだろう。やがて歌集『ダスビダーニャ』の作者の西巻真とネット上の交流があり、その薦めもあって同じ明眸社から刊行するに至ったという。堀田季何、富樫由美子、西巻真が栞文を寄せている。歌集題名は集中の「幾人を煩わせたか省みるほどに切なるカインの祈り」から取られている。カインは旧約聖書の登場人物で、アダムとイブの子供であり、神に愛された弟のアベルを嫉妬から殺した人である。カインは罪人の原型として捉えられており、その名を歌集題名に入れた作者の心情も窺うことができる。

 献本を頂いた折に添えられていたお手紙にもご自身が精神の病を患っていると記されており、本歌集のあとがきにもそう書かれているので、それを踏まえて本稿でもそのことに触れる。澤本の短歌を理解するために欠かせない要素だからである。しかし言うまでもないが、それが短歌の評価を左右することはない。また上に引用した歌からもわかるように、作者はキリスト者であり信仰に生きる人である。この「病と信仰」が澤本の短歌を刻印する二つの大きな印章である。

健常に見えると励ますやさしさの底を流れる偏見を嗅ぐ

展望を問うのひかり稼がねば無為に過ごしているとばかりに

死を希うつぶやき口に押し戻し浴槽みがく新涼の昼

充血の眼にて追うハンセン病歌集に見えるめしい生活たつき

 一首目、自らの病を告げた人から「健常者に見える」という言葉が返って来て、その背後に精神病者に対する偏見を感じたという歌である。二首目は将来の展望を訊ねる人の残酷さを詠んだ歌である。このように病は自身の体の内部に留まるものではなく、周囲の人たちとの関係性という側面も持っていることがよくわかる。三首目は希死念慮の歌。死を願う暗い想念と、磨き上げられた浴槽の輝きや新涼の候の清々しさの対比がまばゆい。四首目のハンセン病はかつて癩病と呼ばれていて、病状が進行すると失明することがあった。そんな人はどのように暮らしを立てていたか知りたくて目が充血するほど歌集を読むという歌である。いずれも切れば血が出るような歌であり、読んでいて一瞬言葉に詰まる。

 精神の病ではかかる医師が重要な役割を果たすと聞く。ここにもまた病と周囲の人々との関係性がある。医師の診療を受ける場面を詠んだ歌も少なくない。

教会はほどほどにとの墨付に煙たがりつつ安堵も少し

信心と妄想分かてぬ医師に就き九年目に聞く父君ふくんが僧と

いずれ来る死を主のもとへ帰る日と恐れぬわれに医師の頷く

教会を排した亡き院長と真逆にわれの信仰を褒む

マンモという語が出てこずに合わせる手 無花果めきて主治医の前に

 一首目にあるように、信仰もけっこうだがほどほどにするようにと忠告する医師がいるのだろう。病は入信のきっかけとなることも多い。一首目の医師と同じ人だろうか、二首目の医師は宗教を妄想だと考えている。しかし聞いてみれば何と父親が僧侶だったという。医師にも親への反発があるのだろうか。三首目では医師は作者の信仰を否定することなく受け容れている。四首目にあるように、先代の院長は信仰は精神疾患に有害だと断じていたが、現在の院長は宗教を認めているようだ。作者は乳癌を発症して片方のリンパ節を切除している。検査のためにマンモグラフィーを受診しようとしているのだが、名前が出てこないので、乳房を両側から挟む仕草で伝えようとしている。両手を合わせた形がイチジクに似ているというが、イチジクは聖書にも登場し、キリスト教と馴染みの深い果物である。

 作者は病のため一般の就職を諦めて作業所に通っている。次は作業所での労働詠である。

スプーンの検品をしてかじかんだ手が編み物の毛糸を慕う

百円の工賃の重み噛みしめる仕事を終えてジュース買うとき

ダンボールの組み立てさえも褒めてくれる作業所にいて優しさに馴る

生き死にを茶化せるわれを遠のいて昼餉の卓につく僚友メンバー

 いずれも歌意は明らかで説明の用はない。バブル経済が破綻してからの低成長社会を生きるゼロ金利世代(by穂村弘)は非正規雇用が多く、そのような社会事情を背景として「生きづらさ」を詠む短歌が一時増えた。鳥居の言う「生きづら短歌」で、映画化もされた萩原慎一郎の『滑走路』がその代表格だろう。しかし生きづらさの原因はいじめや貧困や非正規雇用だけではない。病もまたその原因のひとつである。上に引いたような作業所の歌を読んでいると、まるで現代版の『蟹工船』を目の当たりにしているような錯覚を覚える瞬間がある。

 私が本歌集を通読して頭に浮かんだのは旧訳聖書の「ヨブ記」である。ヨブは義の人であるにもかかわらず、次々と災厄に見舞われる。「神がもし私を愛しているのならば、なぜ私にこのような試練をお与えなるのか」というのは答のない問である。

 病に苦しむ澤本が向かうのは神への信仰である。

クリスマスギフトを夫君ふくんに選びつつ迷う信徒の眼差やさし

身内にも「気が狂った」と言われた主イエスはわれと痛みを分かつ

御言葉みことばを繰りつつ卑語に親しんだわが舌の罪知るラリるれろ

橋わたる車のフロントガラスへと神の指が刷きゆくすじ雲を

 教会にはさまざまな人が集う。教会は裁きの場ではなく赦しの場である。教会員との交流と教会活動は作者にとってかけがえのない大切なものだろう。二首目は大工だったイエスが突然神の福音を説き始めた時、周囲から気がふれたと見なされたというエピソードに自らの境遇を重ねた歌である。

 自ら望まぬ境遇に陥ったとき、人が辿る道程にはいくつかのパターンがあるという。まずは怒りである。自分はちっとも悪くないのに、なぜこんな目に遭うのかと、社会に怒りをぶつけ天を呪う。二つ目は自責と迷いである。こんなことになったのは、あの時のあの行動が原因なのではないかと、思念の迷路を彷徨し自分を責める。三つ目は受容であるが、ここに至る道は平坦ではない。「自分がこうなったことには私には知り得ぬ意味がある」という境地に達するにはある種の悟りが必要だろう。宗教がその用をなすことは言うまでもない。ヨブもまたこれは神が私に与えた試練だと考えたのである。

 ここまで主に作者の置かれた境遇を軸に歌を見ていたが、それを離れて純粋に歌を眺めても見るべき点は多い。それは物事の細やかな観察と、それを歌へと組み立てる技倆である。

 

作業所の南瓜をもらい帰りくる重みに幾度も持つ手を換えて

ギャルソンのワンピースに空く虫食いに遠ざかりゆく春の後姿うしろで

陽炎のうごく路へと持ち出したトラクトにある教の字いびつ

単4の電池はずせば後方しりえうくヴォイスレコーダーは添水そうずのように

幻聴の顕ちては消える速さもて検索かける午睡のiPhone

 

 一首目、作業所からカボチャをもらって帰宅する道すがら、カボチャを持つ手をときどき換える。手の感覚がよく詠まれている。「重み」はなくてもよい。二首目のギャルソンはDCブランドのコムデギャルソンだろう。自分はもうこんなワンピースを着ることはないという寂しさが虫食い穴と逝く春で表現されている。三首目のトラクトとは、宗教や政治で訴えることを書いて配布するパンフレットのこと。「宗教」か「キリスト教」と印刷されている「教」の活字が歪んでいるのだ。四首目の「添水」は日本庭園によくある鹿威しのことで、辞書を引いて初めて知った。竹筒に水が溜まると重みで頭が下がり、元に戻るときに「カーン」と音のするものである。この歌ではボイスレコーダーの電池を外すと、まるで鹿威しのように尻が浮くことが詠まれている。よくこんな連想が働くと感心する。五首目の上句は喩なのだが、そこに使われているのが「幻聴」であることが特異である。目にも留まらぬ速さでネット検索しているのだろう。

 澤本は代読ボランティアをしている。そのことを詠んだのが次の歌である。

 

裡に読む音調いつかsyllableより山茶花になりきたる〈手のひら〉

 

 日本語のアクセントの問題で、少し解説が必要だろう。音の上がり下がりを↗と↘で表すと、標準語ではsyllableは「シ↘ラブル」で、山茶花は「さ↗ざ↘んか」となる。この歌ではもともとは「て↘のひら」と読んでいたのが、いつしか「て↗の↘ひら」と読むようになったと言っているのである。アクセントに迷った時に頼りになるのが『NHK日本語発音アクセント新辞典』(NHK出版、2016年)である。この辞典で「てのひら」を引くと、第一候補が「て↘のひら」で第二候補が「て↗の↘ひら」となっている。第一候補が最も推奨されるアクセントなのだが、第二アクセントで発音する人もいる。この細かい変化に自ら気づき、それを適格な言葉で表現していて注目した。

 何のために歌を詠んでいるのかよくわからない歌集もままある中で、歌を詠むことの切実さを強く感じられる歌集である。「文学は人を救う」と大きな声で言うことにはいささかのためらいもあるが、短歌が人を救うことがあるのはまちがいない。