第255回 田口綾子『かざぐるま』

をはりゆく恋などありて春寒の銀のボウルに水をゆらせり

田口綾子『かざぐるま』

 

 田口は1986年生まれ。高校生の時に読んだ俵万智の短歌に触発されて作歌を始める。早稲田大学に入学と同時に早稲田短歌会に入会。在学中の2008年に「冬の火」で第51回短歌研究新人賞を受賞。「まひる野」所属。『かざぐるま』は2018年(平成30年)に上梓された第一歌集。本歌集で第19回現代短歌新人賞を受賞。帯文は早稲田短歌会会長の仏文学者堀江敏幸が書いている。全体は5部構成で、歌の配置の原則は不明だが、後半になるにつれて生活感が濃厚に表れているので、ほぼ編年体かと推測する。V部は初期歌編で、短歌研究新人賞受賞作の「冬の火」と「闇鍋記」が収録されており、番外編という位置づけである。

 「冬の火」は口語・新仮名遣いで書かれているが、本歌集に収録された歌のほとんどは文語・旧仮名になっている。早稲田大学で修士課程まで進み国文学を学んだ田口は、現在高校で古文の非常勤講師をしているようなので、表記の変化にはそのことも関係しているかもしれない。さすがに専門だけあって、文語の使い方が巧みで歌にびったりはまっている。最初の方から引いてみよう。

うらがへしあて名を書かば砂となりこぼれてしまひさうな絵はがき

身のうちにうをを棲まはせええ、ええ、と頷くたびにゆらしてをりぬ

がらすだま昏きをひとつみづくさの陰にかくして顔をあげたり

みづくさのそやそや揺るる水槽のごときこころをたづさへてゆく

石庭の苔やはらかく雨に濡れ告げてはならぬことひとつあり

 描かれているのははっきりと言葉にできない陰影を帯びた心情で、それを砂や水や雨といった流動体に託して詠んでいる。たとえば一首目、宛名を書こうとすると絵葉書が砂になるというのは、宛名の人と〈私〉との関係性を象徴しているのだろう。はっきりと言葉を届けることがためらわれる相手ということか。支配的なのは雨と水のイメージである。「まひる野」のインタヴューで田口は、歌集をまとめてみて、水と雨がよく登場するのに自分でも驚いたと述懐しているので、作者は意識していなくてもあるイメージに囚われていたのだろう。水と火と光は特に若手歌人の好むアイテムである。

 私は本歌集をとても楽しく読んだのだが、その理由の一つは、田口が日本語に無理に圧をかけることなく、短歌の韻律に寄り添って歌を作っていることによる。

 他の言語と比較して日本語の特異な点は、音節が100%「母音」または「子音+母音」の開音節であり、促音「っ」、撥音「ん」と長音「-」もまた一つの音節を作ることにある。仮名文字は音節を表す音節文字であり、表記に音節文字を用いているのは世界でも珍しい。和歌も短歌も俳句も、日本語の短詩型文学は仮名という音節文字を用いているからこそ生まれたものである。

 もう一つ特異なのは文節である。文節は国語学者橋本進吉が提唱した概念で、学校の国語教育でも広く使われている。基本的には、名詞・動詞・形容詞などの「内容語」に助詞・助動詞などの「機能語」が付いたものが文節である。これは日本語が膠着語であることに由来する。日本語の文を構成する単位は音節である。試みに上に引いた田口の歌を文節に分けてみると次のようになる。

がらすだま/昏きを/ひとつ/みづくさの/陰に/かくして/顔を/あげたり

 文節が五・七・五・七・七に過不足なく収まっていることがわかる。しかしこれだけでは短歌の韻律は生まれない。五・七・五・七・七の中に緩急がある。初句「がらすだま」は内容語のみで機能語がないのでここで切れる。続いて「昏きを/ひとつ」は読みの速度が上がる。「昏きを」の助詞「を」が連接する語を要求するからである。三句「みづくさの」でリズムは緩やかになり、ジェットコースターの最高地点に到達した時のように休止が生まれる。そこからは下りで速度が増し、連用修飾の「陰に/かくして」から述語の「顔を/あげたり」へと一気に落ちてゆくという具合である。

 ちなみに短歌研究新人賞受賞作の「冬の火」では、このような文節と韻律の呼応が実現されてはいなかった。田口が「冬の火」を初期歌編と位置づけたのはこのような理由によるものと思われる。

 集中には恋の歌も多い。恋の歌になると平仮名が多くなるのは平安朝からの伝統かもしれない。

燃えやすきたばこと思ふそのひとが吸ふこともなくしづかに泣けば

これは火より生るることばか昨夜きぞの熱をさまらぬまま君に向かへば

片恋のをはりに砕く飴ひとつくちばし持たぬいきものとして

半身に左右のあるをさびしみて人は抱きあふならひを得しか

とほりあめ 傘持たざらむひととしてあなたの早足を思ひをり

 いずれも静かな情感や時に激しい感情がたおやかな言葉に乗せられていて、さながら古歌を読む心地さへする。五首目の「持たざらむ」は、否定の助動詞「ず」の未然形「ざら」に推量の助動詞「む」が付いたもので「~ではないであろう」の意だが、ここまで古語を駆使するのはさすがである。

 身分の不安定な非常勤講師の境涯を詠んだ歌もある。

せんせい、と呼ばるるときにわがうちの恩師いつせいにわれを見る

非常勤なれば異動といふことば使わぬままに別れを言へり

便覧には載らじと思ふわが生にからあげクンを購ひ帰る

(代はりなどいくらでもゐる)冷蔵庫の卵置き場にみんなでならぶ

 一首目は教壇に立って日が浅い頃の歌だろう。私にも覚えがあるが、それまで授業を受けている側だったのに、突然教壇に立って「先生」と呼ばれると、中身が伴っていない気がして面はゆいものだ。思わず噴き出したのは次のような男子校での国語の授業風景を詠んだ歌だ。

それはいい質問ですが脚注を見ないおまへにカノジョがゐない

万葉集の「人妻」なるにさつきからエロいエロいと騒ぎやまずも

色気がないと先生わたしを笑ふおまへらにくれてやる色気などあるかは

いもなどとわたしを呼ぶな大声でおまへが言ふと芋になるから

「女御」の読み問へば「おなご」と答へゐて一枚めくればそこには「あねご」

空欄しろ×あか、あはれむやみにあかるくて授業内容をわれはうたがふ

 中学・高校くらいの男子は一生でいちばんアホな時期なので、相手をする先生も大変だ。五首目は小池光の秀歌「雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ」のパロディである。田口にはユーモアのある歌を作る才能があるようで、巻末の「闇鍋記」が抱腹絶倒だ。ある日、早稲田短歌会の歌会の後で闇鍋をした折りのことを詠ったもので、メンバーは五島諭、服部真里子、平岡直子、吉田隼人、吉田恭大らと豪華なのである。

次々と野菜は切られ家中の鍋にボウルに盛り上げられる

服部さん魔法使いのような笑みあさりの水煮一缶を手に

唐突に平岡さん女神現れ三日月のように真白きバナナを投ず

魔法使いが鍋に再びやってきてためらいもなくきなこを投ず

ごほごほと喉につかえるきなこ味ひとり残らずむせこんでおり

 いつものように最後に特に心に残った歌を挙げておこう。

まだこゑのきこゆるやうなあまあひのそらにはしろき椅子をたむけぬ

こころより遅れて眠りにつく耳になほ降りつづく雨の名を知る

けだものにあらざるわれら流水にあぶらまみれの箸を洗へり

未来とは思ひ描くものでしかなく水切り籠に食器を重ぬ

ものがたりにやがてをはりのくることを青空のブックカバーにくるむ

そこに直れ、歌にするから歌になりさうなポーズを今すぐに取れ

水音であなたがわかるきつといま菜箸を洗ひ終へたるところ

すすぐたびきちんと止める水道のレバーにまとひつくらむ泡は

八月ののどに流せば夏の先へすこし冷えゆくビールと思ふ

 六首目はどうしても歌ができずに、同居人に歌になりそうなポーズを取れという無理難題をふっかけているという歌でおもしろい。歌集を通読して私が集中で最も良いと感じたのは次の歌である。

日ざかりのそらのやうなるいろ見せてほのほはおのれのほのほを焼けり

 平仮名を多用しているため読字時間が長く、歌の内部空間に大きな広がりが感じられる。意味が勝つ歌は読んだ時は面白くても耳に残らない。耳に残り舌がひとりでに何度も繰り返すのは、意味と調べとが捩り合わされた二本の糸のやうに互いを支え合い、どちらかと言えば調べが勝つ歌だ。上に引いた歌は青白く燃える炎を詠んだもので、「炎が燃えている」という以外のことは何も言っていない。極小の意味が極大の歌を作るという手本のような歌である。このような歌に出会うとき、しみじみと短歌という短詩型文学の良さを味わうのである。