第210回 白井健康『オワーズから始まった。』

三百頭のけもののにおいが溶けだして雨は静かに南瓜を洗う
白井健康『オワーズから始まった。』
 作者の白井健康たつやすは静岡県に住む獣医師である。獣医師というと、私たちに馴染みがあるのは町なかの動物のお医者さんで、犬や猫などのペットを扱う人を思い浮かべる。しかし実は獣医師の大きな仕事は家畜の衛生管理と治療で、県庁や保健所で公務員として働く人も多い。おそらく白井もそういう獣医師の一人だろう。
 まだ記憶に鮮しい平成22年に宮崎県で口蹄疫が発生したとき、白井は宮崎県からの要請で現地に派遣され、防疫活動と家畜の殺処分に従事した。掲出歌は、この経験から生まれた連作「たましいひとつ」の一首である。「三百頭のけもの」は殺処分された宮崎の牛だ。これから掘った穴に埋められるか、あるいは埋められてすぐなのだろう。300頭の牛からは相当な臭いがするはずだ。雨にその臭いが混じっている。その臭いのする雨が畑に放置されたままのカボチャに降り注ぐという場面である。白井は「たましいひとつ」で平成23年の第22回歌壇で次席に選ばれている。
夏の日が忘れ去られてゆくように日照雨のひかりを餌槽に食べる
頸静脈へ薬物注射するときに耳たぶのへり蚋が血を吸う
倒れゆく背中背中の雨粒が蒸気に変わる たましいひとつ
射干玉の黒い眸はたちまちに海溝よりもかなしく沈む
二十一ナノメートルのウィルスの螺旋のなかのオワーズのひかり
青葉生うる日照雨のひかり血のひかり手のひらに掬えばいきもののみず
 宮崎の口蹄疫は3月頃発生が確認され、7月初旬に終息した。白井が派遣されたのは6月のことである。一首目、これから夏を迎えるという季節に、夏を忘れたように日照雨が降っている。殺処分される前の牛はいつものように餌を食べていて、餌を入れる桶に日照雨の光が差しているという悲しい光景である。二首目、殺処分する牛にはまず鎮静と苦痛軽減のためセラクタールという鎮静剤を打つ。その後、頸静脈に薬物を注射するという。まさにその時、牛の耳たぶでブヨが血を吸っているのを見つけている。三首目は連作の題名となった歌。地面に倒れた牛の体温はまだ高いので、降る雨が水蒸気に変わる。水蒸気が立ち上る様がまるで牛の魂が昇天するようだという歌である。四首目、殺処分された牛の眼は、たちまち生気を失い虚ろな穴となる。五首目、ナノメートルは10億分の1メートルで、二十一ナノメートルは口蹄疫ウィルスの大きさを表している。「螺旋」はDNAのことで、ウィルスはDNAに外殻を被せたようなものである。そのDNAの螺旋の中にオワーズの光があるという。オワーズはフランスの県名で、パリから北東に30Kmくらいの所にある。宮崎県で発生したO型口蹄疫のウィルスはオワーズ県で最初に確認されたのだそうだ。だから歌集の題名が『オワーズから始まった。』なのだ。
 壮絶な歌である。獣医師は本来ならば家畜の健康を維持し、病気を治療するのがその職務なのに、口蹄疫の伝染を防止するために、まだ罹患していない健康な牛を殺すというのは、獣医師にとっては苛酷な体験にちがいない。しかし上に引いた歌が示すように、白井は過度に感情に走らず冷静に、しかし鎮魂の祈りを籠めて歌を詠んでいる。口蹄疫の防疫作業に題材を得た「たましいひとつ」と「まだ動いてる」が巻頭に置かれており、その印象があまりに強烈なので、本歌集の印象が巻頭部分で決まってしまう。これには良い面と悪い面の両面があるだろう。第2部と第3部には、「未来」の加藤治郎選歌欄に掲載された歌と未発表の歌が収録されている。
 そのなかで注目したのは次のような歌である。
陽に翳すいのちが赤い海ならばメランジェールのなかに漂う
なりかけのまま消えてゆく雲だけをバルサムのなか包埋しておく
細胞がレンズの下で狂ってるヘマトキシリン・エオシン染色
メッケル憩室の午後二時窓辺から記憶の積み木が崩れるばかり
喉奥に人差し指で押し込んだシクロスポリンぴすとるが鳴る
せんせいの顔が歪んでしまうほど菜の花畑に打つケタラール
 いずれにも獣医師が使うカタカナ語が入れられている。専門用語なので素人にはわからない。私も素人なので全部インターネットで調べた。一首目の「メランジェール」は赤血球や血小板を目視で数えるためのガラス管で、一方の端が球形をしている器具。いのちの「赤い海」は血液のことである。二首目の「包埋」は「ほうまい」と読む。包んで埋めること。電子顕微鏡で観察するとき、資料の安定のためバルサム(樹脂)の中に埋め込むことをいう。三首目の「ヘマトキシリン・エオシン染色」は、顕微鏡で細胞を観察するときに行う一般的な染色法である。細胞が狂っているのだから、おそらくガン細胞なのだろう。四首目の「メッケル憩室」はドイツ人医師メッケルの名を冠した病理で、憩室とは腸などの臓器の一部が飛び出した突起物である。五首目の「シクロスポリン」は抗生物質の名前。六首目の「ケタラール」は獣医師がよく用いる麻酔剤である。
 おもしろいのはこのようなカタカナ語が短歌に読み込まれると、不思議なポエジーが発生することである。その発生源の一つが音にあることはまちがいない。たとえば「ヘマトキシリン・エオシン」は二つの単語の語尾が「リン」「シン」と[in]音で韻を踏んでいる。「シクロスポリン」も同じである。また「メランジェール」と「ケタラール」も正体は素人には分からないものの、何かイメージが湧く。ちなみに「メランジェール」はフランス語で mélangeur 「かき混ぜるもの」「攪拌機」を意味する。「ケタラール」は薬品の商品名だが、インドのどこかの州の名のようでもあり、エキゾチックな感じがある。
 ポエジーのもう一つの発生源は、これらのカタカナ語が身に纏っている理系の空気感だろう。抒情詩である短歌の中に硬質な理系の語彙が混じると、異なる意味の位相が一首の中で衝突することで、日常を離れた語彙空間が現出し、それがうまく作用すると詩が発生する。理系の人は本能的にそのことを知っているのではないか。
ケルダール分解夜に長引けり中庭に出て木の花におう  永田紅 
 白井は現代詩も書く人のようで、本歌集にも詩が何編か収録されている。また短歌の作りにもイメージの転換を重視した現代詩的手法が用いられており、近代短歌に学んだ人とは少し肌居合いの異なる歌があることも特徴だろう。最後に上に引いたものの他に心に残った歌を挙げておこう。
死はいつもどこかに漂う気のようなたとえば今朝のコーヒーの湯気
君が代は相聞歌だと思うとき手のひらのうえ震えるプディング
夏はすでにひかりのなかに椅子を置くふたりの椅子をひとつの場所へ
みつばちが瓦礫を越えて飛んでゆく除染されないひかりのなかを
眼球に点滴されて重くなる秋の窓辺や空のちゅうしん
七色の貝のボタンを外すとき八番目のだけ海からの便り
蝶の/収集家のよう少年は稽留熱の眸のままに