第157回 父は生きていた

傘を盗まれても性善説信ず父親のような雨に打たれて
           石井僚一「父親のような雨に打たれて」
 第57回短歌研究新人賞を受賞した石井僚一の父親が生きていたことが話題になり、しばらくぶりの短歌論争の感を呈しているので、今回はこの話題を取り上げてみたい。事の起こりと時系列に沿う展開は次のとおりである。
 平成26年7月6日、選考委員の加藤治郎、米川千嘉子、栗木京子、穂村弘による選考会が行われ、石井僚一の「父親のような雨に打たれて」が新人賞に選ばれた。
 受賞は編集長からただちに本人に電話で連絡している。短歌研究編集部は翌日の7日にTwitterでこの結果をつぶやいており、マスコミ各社にも同時に連絡が行ったであろう。これを受けて地元の北海道新聞が7月10日付けの朝刊で本人のインタビューを掲載した。その中で石井は父親が生きていることを記者に明かし、「死のまぎわの祖父をみとる父の姿と、自分自身の父への思いを重ねた」と語る。ただし、北海道新聞は地方紙であるため、この情報はこの時点ではわずかな人が知るのみである。
 8月21日に『短歌研究』9月号が発行され、石井の受賞作と選考座談会が掲載された。一般読者の私たちはこのとき初めて石井の短歌を目にした。同時に石井の受賞のことばも掲載されているが、石井は亡くなったのが実は祖父であることには一切触れていない。まだ虚構は保持されているのである。
 9月20日発行の『短歌研究』10月号に、選考委員の一人である加藤治郎の「虚構の議論へ 第57回短歌研究新人賞受賞作に寄せて」という見開き2頁の文章が緊急掲載された。加藤の文章のポイントは次の四つである。
 (1) 祖父の死を父親の死に置き換えた虚構の動機が不明である。
 (2) 肉親の死をそのように扱うのは余りに軽い。
 (3) 虚構という方法で新しい〈私〉を見出さなければ空虚だ。
 (4) 北海道新聞を読んだ人は亡くなったのが祖父であることを知っているが、『短歌研究』誌上で受賞作を読んだ人はそのことを知らない。これはフェアではない。
 加藤はこの文章を8月31日に書いている。つまり受賞作が掲載された『短歌研究』9月号発行の9日後である。加藤は受賞を本人に知らせた編集長の電話で亡くなったのが祖父であることを知り、北海道新聞を取り寄せてインタビュー記事を読んでからこの文章を書いている。『短歌研究』の記事はふつう二ヶ月前に編集部に渡さなくてはならないことを考え合わせると、加藤は短時間で急いでこの文書を書いたはずである。
 10月21日発行の『短歌研究』11月号に石井僚一の「『虚構の議論へ』に応えて」という文章が掲載された。編集部から加藤の文章への反論を書くように求められてのことである。10月1日に書かれている。
 石井の文章は混乱しているが、おおむね次のようなことを述べている。
 (1) 「父の死が事実でないことは、読者の作品の享受に影響を及ぼすと想定できる」と加藤が書いているのは、事実その通りである。父親が生きているとすれば、受賞作はそれほどおもしろくはない。
 (2) 前衛短歌と虚構をめぐる議論は、短歌の方法論に詳しくない自分にはよくわからない。
 (3) 「祖父の死を父の死に置き換える有効性があるのか」という加藤の問には、はっきりあると回答する。ただし、読者への配慮が欠けていたかもしれない。
 (4) Twitter上で不快感を示した読者には、強い〈私〉が感じられる。自分は言葉という虚構を積極的に利用する立場に立つので、もうそんな強い〈私〉を得ることはないだろう。
 同じ『短歌研究』11月号の短歌時評で江田浩司が加藤の文章に触れ、「作中人物の死が虚構であるかどうかは、現実のレベルの問題であって、テクストの価値のレベルではない。テクストの評価は、あくまでも表現のリアリティに基づいてなされるべきものでなくてはならない」と述べて、石井を擁護する立場を取っている。
 これらと前後して次のような短歌誌でこの問題が論じられた。
 『現代短歌』11月号(10月14日発売)の歌壇時評に石川美南が「虚構の議論、なのか」と題した文章を寄せて、9月19日の授賞式には石井の両親と祖母も出席していたことを明かしている。「死んだはずの父」が目撃されたわけである。石川はあくまで想像だがと断った上で、「石井の中には、父子関係に対するオプセッションが存在する。現実に目の当たりにした祖父と父との関係を自分のものとして描くことで、何十年後かに繰り返されるかもしれない父との別れを生々しく想像し、父子関係を新たな角度から見つめ直そうとしたのではないか」と、加藤が不明とした石井の虚構の動機を推測している。
 次に『角川短歌』11月号(10月25日発売)の歌壇時評で、黒瀬珂瀾が「とてつもなき嘘を詠むべし?」という文章を書いている。黒瀬は主に選考会でなされた作品の読みを俎上に上げ、自分は石井の受賞作の最初に登場する「老人」とその後登場する死んだ父は同一人物ではないという読みをしたことを紹介し、選考委員が全員「老人」=「父」という読みをしたのは、受容者(この場合は選考委員)が理想とする作品の形がバイアスとなって働いたからではないかと推測している。黒瀬の論考は多岐にわたるのでとても要約できないが、「『虚構問題』は短歌界が前近代的だから生じるのではない。短歌という定型詩型がその特質として『虚構問題』を内包していると時評子は考える」と述べているのが印象の残る。
 次に『Es 風葬の谷』28号(11月30日発行)で山田消児が「父は生きていた 新人賞選考会の憂鬱」という長い文章を書いている。山田には『短歌が人を騙すとき』という著書がある。山田は加藤の寄稿した文章に疑問を抱き、石井の受賞作には言葉遣いなどの点で欠点が多々あることを指摘した上で、作者の側から見れば、みずからの短歌観に従って自由に歌を作ればよい(従って石井の虚構に非難すべき点はない)し、読者の側から見れば、作風や短歌観の異なるさまざまな書き手の存在を念頭においた柔軟な読みが必要だ(従って選考委員たちは特定に読みに囚われすぎた)と述べている。
 この虚構問題は『短歌研究』12月号(11月21日発売)のこの一年を振り返る座談会でも話題になっている。その中で選考委員の一人だった栗木京子は、加藤が「虚構の議論へ」に書いたことにほぼ同感で、もし祖父より父の死にしたほうが作品にインパクトが出ると石井が考えたのだとしたら嫌だと述べている。栗木は作為に拒否感を呈しているのだ。もう一人の選考委員の穂村は、加藤の文章は短歌史に詳しくない人にはわからないだろうと断った上で、近代以降の「わたくし」性を軸にした文体は事実性とセットになっていて、前衛短歌が行なった「わたくし」の拡張は文体の革命とセットになっていたと加藤の発言の意図を解説している。
 次に『短歌研究』1月号の短歌時評で江田浩司が虚構問題に部分的に触れて、小説を書き翻訳を業としている人から、「短歌の世界はそんなに遅れているのか」という手紙をもらったことを紹介している。江田は11月号の時評でも述べていた「創作者とテクストの関係を二次的なものとして、基本的には表現(テクスト)のみを重視する立場」を再び強調する。江田の念頭にあるのはフォルマリズムやロラン・バルト(作者の死)など西洋の文学動向である。
 私が実際に読んだだけでもこれだけの文章で石井の虚構問題が取り上げられている。私が見ていない短歌誌や新聞やネットでは、これに倍する量の言説が見つかるだろう。(光森裕樹が運営するtankafulでいくつか読むことができる) 上に手短に紹介したように、否定から共感まで論調はさまざまだが、私はこの問題をめぐってあまり触れられていない点を取り上げてみたい。それは短詩型文学としての短歌が深いところに持つ特質である。この点については、『角川短歌』12月号の黒瀬珂瀾による時評「物語と人間」に引用された歌が役に立つ。
 青年死して七月かがやけり軍靴の中の汝が運動靴
 多くの人と同じように私は岡野弘彦の文章でこの歌を知り、手帖に書き留めて愛唱している。昭和56年、内ゲバによって國學院大學学生の高橋秀直が殺害された後、大学構内の立て看板に大書してあった歌だという。岡野は詠み人知らずと紹介している。そしてこれまた多くの人と同じように、私も鈴木英子の文章でこの歌の作者が当時國學院大學短歌研究会に所属していた安藤正という人だと知った。23年後に明かされた真実である。作者名が明かされたことは、この歌の価値を増しもせず減じることもない。
 この歌が昭和の名歌として人々の記憶に刻まれたのは、初句「青年」四音の生み出す欠落感、七月の陽光の眩しさと青年の死の暗さの対比、軍靴の重々しさと運動靴のあまりの軽さ・未熟さの対比といった作歌上の美点もさることながら、理不尽な暴力によって青年が亡くなるという悲劇を誰かが痛切に悼み、その現場に置かれた歌であるという「状況」と「物語」に支えられているからである。いや「支えられている」という受動的表現は適切ではない。黒瀬も時評で正しく指摘しているように、時の流れとともに人々の記憶から薄れたであろう「状況」を永遠化し、人々が語り継ぐ「物語」を生み出したのはこの歌である。その点にこそこの歌の価値がある。
 短歌はその短さによる制約から、小説のように空想に基づくひとつの世界を構築することができない。勢いテクストとしての自立性は弱くなる。これが、古くは韻文詩を、近代になってからは小説を文学の典型としてきた西洋と異なる点である。だから西洋の文学理論をそのまま持って来て短歌や俳句に適用するのは適切ではない。テクストの自立と言っても、西欧の小説と日本の短歌とは意味作用が異なる。どこから意味を生み出すかという機序が違うのだ。それは次のような事情による。
 短歌は人の死のような大きな事件によって召喚される。そのとき歌人は現実の状況という外部と短歌とを結びつける仲介者となる。心霊術の霊媒 (medium)とはもともと「媒介するもの」という意味で、メディア (media)の類語である(mediaはmediumの複数形)。つまり「この世」と「あの世」を橋渡しする役目に他ならない。歌人も同様に現実の状況と歌が開く文学空間とを媒介する通路となる。
 短歌が現実の状況によって召喚されることは、挽歌の例を見れば明らかである。私は昭和天皇崩御の時、フランスで暮らしていたので、その場に立ちあうことができなかったが、テレビ局に歌人が呼ばれて崩御を悼む挽歌を披露したと聞く。このたびの大震災と津波被害の後で多くの短歌が作られたのも同じ機序による。
 問題は短歌の表現が状況を永遠化し物語として結晶化するまでの強度に達しているかどうかである。もちろん人の死だけが歌を召喚するわけではない。「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」(小野茂樹)によって永遠化されているのは青春であり恋である。私たちはこの歌が立ち上げた物語によって「青春」をイメージする。青春があるから歌が生まれるのではなく、歌が残るために私たちは青春を共同主観的に理解するのである。言葉の意味とは過去の物語から滲み出るイメージの複合体に他ならない。
 こう考えて来ると、石井が祖父の死を父の死に置き換えた虚構はたいした問題には見えなくなる。石井の身にもある状況が訪れたからである。したがって問うべきは、石井の歌にその状況を永遠化し物語を生むだけの表現の強度があったか否かである。選考委員が受賞作に推したということは、選考委員の心に届く程度の強度はあったことになる。しかし、祖父の死を父の死に置き換えた虚構という非難を押さえ込むレベルに達していたかと言うと、残念ながらそうは言えないのである。短歌を始めて一年足らずという青年にそこまで求めるのは酷というものだろう。
 石井が論争の渦中の人となったことにめげることなく、今後も前向きに短歌を作ってもらいたいと願わずにはいられない。石井のしたことが正当な文学的行為であったか否かは、石井が今後どのような短歌を作ってゆくかによって判断されるからである。