すみれそよぐ生後0日目の寝息
神野紗希『すみれそよぐ』
掲句は句集タイトルが採られた句である。隣で眠る赤子は生まれたばかりでまだ1日も経っていない。その赤子の寝息は菫の花をそっと揺らせるほどのかそけさである。耳をすませないと聞こえないくらいの寝息でも、そこには確かな生命が感じられる。出産から30分後に手術台の上で詠んだ句だというから驚く。
『すみれそよぐ』 (2020年11月) は『星の地図』『光まみれの蜂』に続く著者の第三句集である。2012年から2020年までの8年間に作った句のなかから344句が収録されている。この時期は作者の20代から30代半ばに当たり、結婚・出産・育児という人生の大きな出来事が起きた時間がこの句集に納められている。おそらく編年体で編まれているので、句集の冒頭付近に置かれてある句は20代前半に作ったものだろう。
くちづけは一秒サイネリア全部咲いた
突堤に自転車春は二ページ目
細胞の全部が私さくら咲く
どこへでも行けるアスパラガス茹でる
あたらしい水着のはなしサラダバー
季節が春から初夏ということもあって、明るく若々しい句が並んでいる。一句目は恋人とのキスの印象を、鉢植のサイネリア(シネラリア)が一気に咲くという喩で詠んでいる。二句目は港の突堤に自転車を停めている場面。強い風が吹いているだろう。まだ春は二ページ目にしかならない寒さである。三句目、細胞の全部が私だと断言できるのが清々しい若さである。溢れる活力は四句目にも見られる。五句目は女友達とファミレスのサラダバーで夏の前に買った水着の話をしている場面。どれも神野の俳句の特色である若々しくしなやかな感性がよく出ている句だ。
マリッジブルー屋根から雪の落ちる音
春氷薄し婚姻届ほど
飛花落花中庭に燕尾服の父
蜜蜂もくぐれよエンゲージリング
引越し完了かさ立ての春日傘
やがて作者は結婚して新居に越して新生活が始まる。多少のマリッジブルーはあれども、明るい新生活を予感させる句が並んでいる。そして次のような句が続く。
新妻として菜の花を茹でこぼす
お義母さんよりのメロンや木箱入り
絶海や水母ふたつが並び浮く
金柑を載せ新婚の鏡餅
夫の呼ぶ我が名かがやく冬すみれ
初々しい新婚生活を詠んだ句である。絶海に浮かぶ二つの水母は新婚夫婦の二人の喩であろう。そして妊娠・出産の句があとに続く。
抱く便器冷たし短夜の悪阻
雲ぽこぽこ羊水ぬるむ水温む
春光に真っ直ぐ射抜かれて破水
担架から仰ぐ青空風光る
いぬふぐり花びらほどの爪を切る
ハンカチの薔薇の刺繍も乳くさき
まるで実況中継のようだが、予定日前に破水し、救急車で病院に運ばれて帝王切開で出産したという。赤子は呼吸が弱いため、集中治療室に一時置かれたらしい。これ以降は赤子の生命を感じ優しく見つめる歌が続く。
おそらく人が最も懸命に神仏に祈るのは、出産を待つ時だろう。「どうか無事に生まれてくれ」という願いは神や仏に向ける以外に術がない。また人がいちばん神を感じるのは、生まれた赤子を見たときだろう。私も娘が誕生したとき、10本の指先に桜貝ほどの爪がちゃんとあるのを見て、神は何一つお忘れにならなかったと感謝したものだ。作者もあとがきに、子供が生まれて生命の愛おしさを感じると同時に、世界はもろく壊れやすいものだと実感したと綴っている。おそらくは出産を経て新しい感覚が体内に新しく生まれただろう。この後、子育てに奮闘する句が続く。
ところが、である。読み進むうちに次のような句に出会ってドキリとした。何やら不穏な気配が漂っているではないか。
梨ざらりいつより我に触れぬ指
愛なくば別れよ短夜の鏡
抱き合える火事の夫婦の愛羨し
そしてまことに残念なことに私の感じた予感は的中し、この後に次のような句が続くのである。
寒紅引け離婚届にくちづけよ
もう泣かない電気毛布は裏切らない
Tシャツの干し方愛の終わらせ方
行き止まりなれば空見る春隣
人生ゲーム抜けてさくらのすべり台
オルゴール必ず止まる雪柳
女性歌人の第一歌集の場合、一冊の中に恋愛、結婚、出産、育児、離婚という女性の一生の縮図が詰まっていることがときどきあるが、句集ではあまり見ないような気がする。俳句は短歌ほど作者の境涯を映し出さないのだが、本句集に限っては句と作者の距離がとても近い。子供の誕生が詠まれていることもあり、巻を一読して何か大きなものに立ち会ったような読後感が残る。
舟遠くとおく朽ちゆく苺パフェ
ひかりからかたちへもどる独楽ひとつ
花筏光になりたくて急ぐ
ヨーグルトに透明の匙みなみかぜ
空缶にちちろ一匹分の闇
蝶触れしさざなみしずまりて産湯
はばたいた分だけ沈む秋の蝶
苗札を雀の墓標として深く
月させば水の記憶の貝釦
特に印象に残った句を挙げた。あらためて神野はしなやかな感性で捉えた言葉を定型に収めるのが上手いと感じる。前の句集でもそうだったが、光を捉えた句が多く見られる。ヨーグルトに添えた透明のガラスの匙にも光が屈折しているのが見えるようだ。この文章を書いている今、ちょうど桜の飛花落花の季節を迎えていて、三句目のように、家の前を流れる疎水も花筏を浮かべている。
集中の最後近くに「鯛焼きを割って私は君の母」という句がある。子供と鯛焼きを半分こする句である。ここにはこれからは君の母として生きるという決意が感じられる。作者は試練をくぐり抜けて、またひとまわり大きく成長することだろう。