つぎつぎに窓閉ざさるるゆふぐれの窓のひとつに鳥の歌きこゆ
種市友紀子『蓮の島』
街は夕暮れを迎え、それまで開いていた窓が閉じられてゆく。窓が開いていたのだから、爽やかな時候でたとえは初夏などか。昔なら豆腐屋のラッパの音が遠くに聞こえる時刻だ。そんな窓のひとつから鳥の歌が聞こえてくるという。問題はこの鳥の歌である。鳥籠で飼われている本物の鳥のさえずりかもしれない。フランス語では鳥の鳴く声をle chant des oiseaux「鳥の歌声」と表現する。カタルーニァ民謡に同じ題名の歌がある。だとすればレコードかCDから流れる歌か。クレマン・ジュャヌカンにも同じ題名の曲がある。はたまた杉田かおるが昔歌った歌もある。ならば部屋の中にいる人の鼻歌かもしれない。ここに大きな未決定が潜んでいるのだが、その未決定は歌意を曲げるほどではない。灯ともし頃に小さな音で心地よい音楽が聞こえてくるという点が大事だ。上句の「つぎつぎに窓閉ざさるる」によって夕方の時間の経過が表現されていることもポイントだろう。
種市友紀子は1979年生まれの歌人である。大学生のときに水原紫苑の「文藝演習」を受講したのがきっかけで作歌を開始し、早稲田短歌会に入会したという。その後、「笛の会」に所属し藤井常世の薫陶を受ける。『pool』『まいだーん』にも参加している。『蓮の島』は第一歌集で、作歌を始めてから26年目ということだ。版元は本阿弥書店、装幀は花山周子、水原紫苑が帯文を寄せている。歌集題名は船に乗って手賀沼の蓮を見た体験から採られている。
歌集の冒頭付近から何首か引いてみよう。
鉄塔はさみしく空を区切りつつまた鉄塔とつながる緑地
存分に待ちうる時を贅沢として無花果の実は重りゆく
今日以外なべて昨日に埋もるる脳に氷ひとかけら落つ
扉から漏るる光のまぶしさに背より入る未知なる部屋へ
生まるれば帰るすべなき戸惑ひに赤子は泣きぬ声しぼりつつ
文体は旧仮名遣による文語(古語)定型が基本。作風は情景や事物の描写のおちこちに感情の水脈が走ると言えるか。たとえば一首目、高圧線を支える鉄塔を詠んでいる。鉄塔一基だと青空を背景に淋しくポツンと立っているように見えるが、電線の先を辿ると別の鉄塔に繋がっている。それはまるで人間の有り様だと作者の呟く声が聞こえる。二首目は時間の嵩と重さを詠んだ歌。無花果が重く実るためには長い時間を待たなくてはならない。待つことに費やす時間は無意味ではない。三首目、私たちは〈今〉という時を生きているので、それ以外は昨日という名の過去に埋没する。四首目、光溢れる未知の部屋に入るのには勇気が要る。だから背中でドアを押しながら入るという。何かの喩とも読める歌である。五首目、赤ん坊はこの世に生まれればもう帰る所はない。赤子が泣くのはそのせいだという。師の藤井常世に「血によりて生れたるものよきよきゆゑ修羅のはじめの声あげむとす」という歌がある。
情景描写の中に感情の水脈が走るという作風は、師の藤井に学んだものかもしれない。
よじれつつのぼる心のかたちかと見るまに消えし一羽の雲雀
藤井常世『雲雀幻野』
咲き急ぎ散り急ぐ花を見てあればあやまちすらもひたすらなりし
抱きゐる闇ふかきゆゑ枇杷の木もわれもひそけき花保つべし
『草のたてがみ』
藤井の歌を読むと言葉の陰に隠れた感情の濃密さが感じられ、ここにあるのは単なる言葉としての言葉ではないとも思われる。種市の短歌も写実としての情景描写ではなく、言葉の背後に何らかの強い感情や深い想いを隠しているようだ。それはとりわけ次のような歌に感じられる。
子が唄ふ〈ロンドン橋〉はくりかへし架けては落つるまぼろしの橋
結び目と思ふ記憶はほどかれてその人となる古木の木瘤
巻くものの何も見えねば自らを縛りて空を泳ぐ藤蔓
折れ曲がる光のために誰も彼も胸にひとつの虚像やしなふ
行く先をあへて思はずいまここに桜並木の終はりの暗渠
一首目、「ロンドン橋は落ちた」(London bridge is broken down)はマザー・グースの童謡。唄われる度ごとに橋が落ちるというのは、現実と幻想の皮膜に架かる虹のごときものか。二首目は「狂言『萩大名』に寄す」と題された連作中の一首。三首目、藤蔓は藤棚や他の木に巻きついて育つが、ここにある藤は巻きつくものがない。まるで自分自身を縛っているかのようだという歌。藤を眺める目に強い感情が感じられる。四首目は逃げ水を詠んだ歌。夏の暑い盛りに見られる逃げ水は、地表の熱によって空気の層ができて光が屈折するために起きる。それを私たちが持ちやすい虚の思念に喩えた歌である。五首目の桜並木と暗渠は人生の喩にちがいない。これらの歌に用いられている言葉はまるで感情の磁力を帯びているかのようだ。
その想いの向けられる先はさまざまであるが、いつも立ち返るのは人の生である。
フラスコの中の泡なる一生と思ふ誰が手に揺るるフラスコ
刑期とも思ひ恩寵とも思ふ湯より鼻腔を出してしばらく
誰も彼も死を逃れえずゆるやかにボールは止まる泥水のなか
始まりも終はりもしらぬ芝居なり花房の下をひとはくぐりぬ
人の生がフラスコの泡ならば、そのフラスコを振るのは誰か。今ここに生きているのは刑務所で刑期を勤めているとも、神から与えられた恩寵とも感じられる。ころがるボールがやがて止まるように、人の生の果てには死が待っている。人の生は始まりも終わりもわからない芝居のようだ。私たちはみな有限の生を生きているという冷厳な事実に思いを致すとき、パスカルの深淵に飲み込まれそうな思いがする。
本歌集の中には職場詠や家族詠も収められているが、子を詠んだ歌に惹かれるものがある。
海ならむ空ならむ子はいちまいの布を両端より持ちあげて
みづからの影に手を振るをさなごに影はやさしく慕はしく添ふ
ぶらんこを漕ぐ足先は生まれくるまへの時間に触れて戻りつ
蝶ひとひ籠に閉ぢこめ弱りたるゆふべに放つ円環に子は
布を広げて一人遊びに興じる子や、地面に落ちた自分の影に手を振る子を見る眼差しは温かい。とはいうものの子供可愛い短歌には陥っておらず、ブランコを漕ぐ子供の足先に時間の始原を感じたり、籠の蝶を空に放つ子にエリアーデ風の円環を感じる眼差しはユニークだ。
いくたびも錨をおろす夜の船に記憶の岸は削がれていたり
それぞれの宿世は奪ふべくもなくあさゆふの鳥の声高くして
亡き人のことばを胸に降りるたび坂はうしろに燃えゆくリボン
音よりも音の置かれぬ空間の広さを思ひ、春、Solo Monk
永遠に跳ぶ縄跳びの中にして蝶となりたる一瞬ありき
今日といふ清かなる日を投げ入れて記憶の川のひかり揺れをり
心に残った歌を引いた。四首目のMonkはジャズ・ピアニストのセロニアス・モンク。音楽は時間の芸術だが、同時に空間の芸術でもある。五首目に詠まれた子供が縄跳びをする様子は歌人の想像力を刺激するようだ。塚本邦雄の「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」という歌が思い出される。ただしここでは少女は蝶に変身する。六首目は巻末に一首だけ離して置かれた歌。作者の今の想いを詠んだ歌だろう。
最後に余談になるが、国文学者にして詩人の藤井貞和が藤井常世の弟であることを初めて知った。ここにも折口信夫の系譜が続いていることになる。