第325回 竹中優子『輪をつくる』

ゆうまぐれまだ生きている者だけが靴先を秋のひかりに濡らす

竹中優子『輪をつくる』 

 竹中優子は1982年生まれ。プロフィールに早稲田大学第一文学部卒とあるので、てっきり早稲田短歌会の出身かと思えばそうではなく、大学を卒業して就職した二年目から短歌を作り始めたという。黒瀬珂瀾が2012年から2年間福岡に在住していた折に立ち上げた超結社歌会の福岡歌会(仮)に参加してから、本格的に作歌を始めたようだ。栞文によれば歌会の折に道を歩いていたときに、突然「未来短歌会に入ります」と宣言し、「未来」の黒瀬選歌欄に入会し選を受ける。2016年の第62回角川短歌賞を「輪をつくる」にて受賞。同時受賞は「魚は机を濡らす」の佐佐木定綱。『輪をつくる』は2021年に上梓された第一歌集である。栞文は、川野里子、東直子、黒瀬珂瀾。歌集はふつう編年体の場合でも、作った時期などでまとめて何部かに分けることが多いのだが、本歌集は部分けがなく、連作がずらっと並ぶというちょっと変わった造りになっている。

 角川短歌賞受賞作の「輪をつくる」も本歌集に収録されている。

教室にささやきは満ちクリップがこぼれてひかる冬の気配よ

目を伏せて歩く決まりがあるような朝をゆくひと女子の輪が見る

学校に来るだけでいいひとになり職員室に裸足で入る

屋上に出るためにある階段の暗さ、桜が満開だって

ホームの先に友達がいることが分かる、声で ひかりを通過していく

 この連作の作中主体は保健室登校になった女子高校生である。つまりは作者は女子高校生に擬態して〈私〉を立ち上げている。選考座談会では、作者の年齢と性別に拘る小池光が現役の女子高校生の歌と読んだと発言し、島田修三はいやもう卒業していて回想している、回想のグラフィティとしか見れないと返している。島田は立花開や野口あや子を引き合いに出して、それに較べれば高校生活の息詰まるような感じやストレスが見られず、これではまるでユーミンの卒業写真だと断じた。結果として島田の読みは正確だったわけだ。

 本歌集を通読すると、〈私〉を擬態した「輪をつくる」はやはりちょっと異色で、他の連作とは肌合いが異なると感じる。本歌集のベースラインとなっているのは次のような歌である。

さっきまで一緒だった友バス停に何か食べつつ俯いている

松たか子の写真が飾られていた部屋に電話をかければ父親が出る

慣れるより馴染めと言ってゆるやかに崎村主任は眼鏡を外す

はしゃがないように落ち込まないように会うそら豆に似た子を産んだ友に

ほそながいかたちではじまる飲み会が正方形になるまでの夜

生きていて早送りボタンの止めどころ分かる例えばエレベーターの会話

 これらの歌の〈私〉はほぼ作者と同じ等身大の人物で、歌によく登場するのは職場の同僚や上司や部下、女友達、そして父母である。それはつまり近代短歌が得意な領域とした〈私〉の近景と中景である。それを越える遠い視線の歌はほぼ皆無だ。そしてどれもなかなかにユニークな着眼点から細かいことを拾い上げて歌にしている。

 一首目はさっき別れた友人が通りの向かいのバス停でバスを待っているのだろう。かばんから取り出した何かを食べながら俯いている。それだけの歌である。しかしそこにはさっきまでにこやかに会話していた友人が〈私〉には見せない別の顔がある。それははっとするほどの発見というわけではないが、確かにかすかな違和感が残る。

 栞文で東直子が、竹中といっしょに短歌イベントに参加した折に、自分が聞き流していたカフェの店主の科白を竹中がおもしろいと報告したという経験をもとに、竹中にはこの世に漂う面白いものをキャッチする言語センサーがあると書いている。そう思って竹中の歌を見ると、なるほどと得心するところがあるのである。

 たとえば二首目、竹中と父母の関係は少し複雑なようだが、父親は一人で暮らしている。父親の暮らす部屋に松たか子の写真が飾られていたというのはどうでもよい情報だが、こうして詠まれると何かおもしろい。三首目は職場詠だが、「慣れるより馴染め」というどこかで聞いたことがあるような科白を真面目に部下に言っている場面と、崎村主任という固有名が愉快な雰囲気を醸し出している。四首目は出産した友人と久々に再会する場面。確かに新生児の頭はそら豆によく似ているのだが、「そら豆に似た子」に微量の悪意が感じられる。いじわる婆さん的なこの微量の悪意もまた竹中の短歌の味わいとなっている。五首目は職場の飲み会だろう。最初は長いテーブルの両側に並んでいるが、酒が回って来ると席を変えてかたまりとなり正方形に近い陣形となる。これも何ということはない瑣事なのだが、竹中はこういうところに気がついてしまうのだ。六首目もおもしろい。ふだんは人の会話などに注意することなく、まるでビデオを早送りするように聞き流しているのだが、同じエレベーターに乗り合わせた不倫カップルが密会の約束をしていたりすると、早送りボタンを止めて、耳ダンボ状態になるのである。

 一方、作者が親族のことを詠うとき、そこには複雑に内向し屈折した感情が垣間見られる。

小倉駅で祖母のこいびと待つ日中 金平糖を買ってもらいき

乳飲み子の姉妹とへそくり一千万円抱いて出奔した祖母の夏

ふたりの子のひとりの死までを見届けて祖母の口座の残金二万円

駅前のうどん屋を兄はあわく褒め母は嫌いと言う日曜日

言われたとおり戸棚の奥の箱に隠すテレビカードを父はよろこぶ

「まだ仕事?」と三度聞かれるそののちの解約が済んだ父の部屋のこと

 一首目は、祖母が恋人と会うために出かけるときに、孫と買い物に行くと口実を作ったのだろうか。二首目と三首目がもし事実だとしたら驚くしかない。作者が子供の時に父母は離婚したという詞書きの歌があるので、四首目は子供時代の回想だろう。五首目は父親が病気になり入院している場面。隠すのはテレビを見ることを禁じられているからか。五首目はおそらく兄との電話での会話で、父親が病院で亡くなり、住んでいた部屋を解約して片付けを業者に頼む場面だろう。

 職場詠も多くあるが、竹中の個性は登場する人物が抽象的でなく、まるで四コマ漫画のように活写されていることである。

朝の電車に少しの距離を保つこと新入社員も知っていて春

月曜日 職場に来られぬ上司のこと上司の上司が告げていくなり

派遣さんはお茶代強制じゃないですと告げる名前を封筒から消す

上手く行かないことをわずかに望みつつ後任に告ぐ引き継ぎ事項

体調が悪くて休むと言った人がふつうに働いている午後の時間

 一首目は新入社員と同じ朝の通勤電車に乗り合わせた場面。親しげに話しかけて来るのではなく、適度な距離を保つことをもう知っている。二首目、職場に来られなくなった上司はおそらくウツ病だろう。三度繰り返される「上司」がおかしみを醸し出している。三首目は非正規雇用が増えた現代らしい歌。どこの職場でもお茶代を集めるが、派遣社員は出さなくてもいいのだ。四首目にも少しの悪意がある。五首目は休みたくても休めないという労働事情の歌、

 部下らしい古藤くんという人物がよく登場する。歌から見るかぎり、古藤くんはなかなかの好人物のようだ。

残業を嫌がらなくなった古藤くんがすきな付箋の規格など言う

シュレッダーの周りを掃いている我の隣に古藤くんがじっと立つ

納得しましたから、が口癖になる古藤くんの眉間に春のひかりが降りぬ

 固有名詞を歌に織り込むこともまた、歌が抽象的になることを避ける効果がある。歌会などでよく「具体的な数字を入れるとよい」などと指導されるのも同じだ。ややもすればふわふわとどこかへ飛んで行く言葉を着地させて現実に繋留する役割がある。

額縁を壁から下ろす(そのように夕立が来る)果物屋にいて

どんな暴力に昼と夜とは巡りゆく 髪切ると決めて水から上がる

花を生かすために捨て去る水がある銀色の真夜中のシンクに

触るたび同じページがひとりでにひらくからだを生きる夕暮れ

殺したいと言うときも手は撫でていてあかるみに置く午後の人形

運動靴はバケツに浮かぶ秋の日の水の重さに押し上げられて

どの文字も微量の水を含むこと思えば湧き出でやまぬ蛍よ

 特に心に残った歌を引いた。中には押さえきれない内心の怒りを感じさせる歌もあり、竹中の短歌世界は決して単純で一様なものではない。家族、友人、職場の同僚や上司を登場させて、ユーモアを交えつつ〈私〉の近景を具体的にていねいに詠む作風は、近代短歌の王道と言えるだろう。竹中は永井祐とは一歳ちがいなのだが、その作風のちがいは大きい。この振れ幅の大きさが現代短歌シーンの特徴だろう。純粋読者としてはいろいろな作風の短歌があった方が楽しい。

 何と言っても美しいのは冒頭に引いた掲出歌だ。

ゆうまぐれまだ生きている者だけが靴先を秋のひかりに濡らす

 革靴の先が秋の光を受けてまるで水に濡れているかのようにきらきらと輝いている。それはこの世の光であり、命の輝きでもあるかのようだ。そして靴先を光らすことができるのはまだ生きている者だけだという冷厳な事実が美しく詠まれている。合掌。