第197回 『筒井富栄全歌集』

きらめいて墜ちゆく血のとりたちの残したうたで開く 夏
筒井富栄『未明の町』
 本年(2016年)10月に六花書林から『筒井富栄全歌集』が刊行された。私は浅学ゆえこの歌人を知らず、送られて来た全歌集を開いて拾い読みを始めたら、いたく興味を引かれてそのまま全部読んでしまった。
 筒井富栄は昭和5年(1930年)生まれの歌人である。「個性」に所属し加藤克巳に師事した。『現代短歌事典』(三省堂)は歌人や結社・短歌運動を多く拾っており、筒井も立項されていて沖ななもが項目を書いている。同じ「個性」の会員なので執筆を依頼されたのだろう。事典刊行時には存命であったので『現代短歌事典』には生年しか記載されていないが、筒井は2000年に泉下の人となっている。
 『筒井富栄全歌集』には、筒井が生前に上梓した『未明の町』(1970年)、『森ざわめくは』(1978年)、『冬のダヴィンチ』(1986年)、『風の構図』(1989年)の4冊の歌集と、未完歌篇、初期歌篇および歌人論が収録されている。この全歌集を編纂し解題を付したのは、ご子息の村田馨氏である。村田自身も短歌人会に所属する歌人で『疾風の囁き』という歌集があり、かつまた村田の夫人は天野慶である。短歌・俳句など短詩型文学の家族性を示す例と言える。ご子息の手によって筒井の全歌集が世に出て、みんなに読まれるというのは慶賀すべきことだ。
 私が読み始めて驚いたのは、1970年に刊行された第一歌集『未明の町』がとてもモダンで新鮮な歌集だったからである。とても今から半世紀近く前に書かれたものとは思えない。何首か引いてみよう。
ゆっくりと恋唄流す若者にいつか丁字の匂う日も暮れ
夜を聞く 風は軌道をもっている 螺旋階段 うたう六月
高圧線 風 青い麦 一冊のサラ・デイーン まだ新しい麦わら帽子
牡蠣にひそむレモンの酸味ひろがりて傷みの如し人を待つ刻
ウインドに花が流れる若者と少女がゆがむ銀座雨の日
なぜ撃たれたかわからないまま山鳩の瞳孔ひらき朝がくずれる
アンスリュームの花ひらくあさ地下街にボイラーマンの火傷 悪化す
死者まねる青年に牛の首ささげわらいあうわれら 夏の末裔
もういない 球形の部屋にあおい人 きんようび ダミアの雨が降る
おびただしい鳩とびたたせ競争車 太陽にむかい車体傾け
ねじられてはがねの切れる瞬間の赤紫の火の如き朝
 基本は定型だが、破調を恐れず時に大胆な形式的試みも行なっている。注目すべきは口語脈である。戦後短歌では先蹤として平井弘の『顔をあげる』(1961年)があるが、その口語脈が注目された村木道彦の『天唇』(1974年)よりも4年早い。
 1970年と言えば日航機よど号ハイジャック事件が起き、三島由紀夫が割腹自殺し、小野茂樹が交通事故で亡くなった年だが、年表をひもといてみると同年に出た歌集には、春日井建『行け帰ることなく』、佐佐木幸綱『群黎』、大島史洋『藍を走るべし』、西勝洋一『未完の葡萄』などがある。口語・ライトヴァースの時代が到来するのは1980年代になってからである。上に引いた歌の語彙から判断すると、「ボイラーマンの火傷」「ダミアの雨」あたりには塚本邦雄の影響が色濃く感じられ、「球形の部屋」は師の加藤だろう。察するに加藤の芸術性重視のモダニズム短歌を範としつつ、前衛短歌から多くを吸収して自身の短歌世界を作り上げていったのだろう。
 60年代は学生運動が盛んだった政治の季節で、1970年の大阪万博は日本が戦後辿った高度経済成長の完成を示す祭りだったのだが、そのような時代の反映をこの歌集に見ることはできない。また昭和5年生まれの筒井は、ほぼ同世代の馬場あき子が繰り返し語っているように、戦争に青春を蹂躙された世代なのだが、戦争に触れた歌もない。あとがきに「私の世代が戦中、戦後を通じて体験した事は、非常に波乱にとんだ出来事だったと思う。国のために死ねと昨日まで教えこまれていたのが、敗戦、自由、食糧不足、ヤミ市、etc…。しかし、それらの出来事が、侵蝕し得なかった部分を私はうたいたかった。それは同時に自分自身への抵抗でもあった。」と書かれている。「侵蝕し得なかった部分」とは何か。おそらくそれは自己の最も内的部分であり、美に憧れる心、ポエジーを希求する心だろう。
 注目すべきなのは、音楽に軽音楽があるように、短歌にも軽短歌があってよいとして、筒井が軽短歌をめざしていたということである。「軽短歌」という呼称は80年代になって猖獗を極めるライトヴァースを先取りしていたと言えるだろう。
 ただし、上に引いた歌を見ると、80年代のライトヴァースと筒井の歌は本質的に異なるものと考えるべきだろう。たとえば「おびただしい鳩とびたたせ競争車 太陽にむかい車体傾け」を見ると、飛び立つ鳩の群れと車体を傾けて疾走するレーシングカーという構図は、それまでの短歌にはなかったダイナミックで斬新な表現である。80年代のライトヴァースは親しみやすい口語表現と現代風俗を取り入れて短歌の敷居を下げたが、筒井の短歌はあくまで美を希求する芸術派であり、敷居はそれほど低くはない。
 第二歌集『森ざわめくは』に収録されている「ママン」という連作を見てまた驚いた。
なぜママン 魚は光って川をゆき 帰ってくるの? 虹はきながら
ねえ ママン 鳥はとびたつ なぜ鳥はうたれるためにとびたってゆく
ねえママン太陽を抱くそれはなぜ 日に一回はもえておちるの?
一筋の道があの尾根こえている その先をママンみたくはないの?
 メルヘン調のこれらの歌は20数年を隔てて、東直子の次の歌へと呼応している。
ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね
                         東直子『青卵』
 会話体の口語を用いてメルヘン風のやわらかい世界を作り出す試みが、すでに筒井によっていち早く行われていたことになる。
 じかに〈私〉を詠うことがなく心象を美にまで昇華する筒井の歌風がもっともよく表れているのは第三歌集『冬のダヴィンチ』の次の一連だろう。
この川に青年がひとり立っていたあの窓の内に暖炉があった
石垣は崩れているがだがしかし鉄扉にのこるこの頭文字
あのドアのむこうに陶の傘立てと蛇の握りのついた靴べら
客間では三方の窓のそれぞれに立葵首をのばして咲けり
いずこよりきたる報せか鞄から紙片とり出す男のありて
寝台にくぼみをのこし連れ去られそのまま消えてゆきしひとびと
墓碑銘がかすかに読めるほどのこるこの苔の中の時間の流れ
 もともと筒井は演劇を志していたことがあり、芝居の脚本を書くように短歌を書きたいと考えていたらしい。「風景」と題された上の一連はまさにその手法で書かれていて、まるで舞台を見ているかのようだ。筒井の短歌に〈私〉が希薄で境涯がないのはこのためであり、舞台で俳優が観客を魅了する演技をするように、短歌の中で筒井が配した事物・人物が、美しい演技をするように工夫されているのである。舞台の上に脚本家・演出家の〈私〉は登場しない。脚本家・演出家は袖に隠れて舞台を見ているのである。ひょっとしたらここには戦後の前衛短歌運動が、一時演劇と接近を試みたことも影響しているかもしれない。
 このように心象の美への昇華によってポエジーをめざしていた筒井だが、私生活においては若い頃に脊椎カリエスを病み、晩年になってからはパーキンソン病を発症し、身体の自由がきかなくなったという。それと呼応するように、第四歌集『風の構図』には、それまで見られなかった境涯歌が散見されるようになる。
むかい風さけるしぐさがいつよりか身につきそめて九段坂下
風立てどわがめぐりのみ静まりてせばまりて小さく息を吐きたり
うらぶれし家が時折コスモスの花にかこまれ眼裏にたつ
もう二度と開くことなき艇庫ありわが船水脈を曳くこともなし
林道にまつわりつきくる蝶もなく青春がここにかつてはありき
 老境に入って回想を交えたこれらの歌の〈私〉は、まぎれもなく近代短歌の〈私〉である。とはいえ『風の構図』にも心象の昇華による美を追究した歌がある。
眼底をガラスの船がゆきすぎてやがて砕ける音のみきこゆ
墓地白く夕やみに立つ供うべきあてなき花をたずさえており
血を喀きしごとくに茱萸の実はつぶれすでに閉ざされおる療養所
視えざるものを追いつめてこの崖にきてひえびえと今墜ちゆく一羽
夕景を火薬の匂いただよいてわが身体を這う導火線
 一人の歌人の創作面での全生涯が、こうして重みのある一巻の本として残ることには大きな意味があるということを教えてくれる一冊である。