132:2005年11月 第5週 花山多佳子
または、現実の背後にコワイものを感じてしまう感受性

乳母車押しゆく五月かたわらの
    花叢をはや過去となしつつ

         花山多佳子『楕円の実』
 花山の歌のほとんどは端正な定型短歌であり、措辞に特に難解なものがあるわけでもなく、奇抜な比喩もないので、歌意の理解に苦しむようなものは少ない。また一首のどこに焦点があるのかもはっきりしている歌が多い。しかしよく読むとどこか不思議な感覚に捉えられることがある。掲出歌もそうである。産まれた子供を乳母車に乗せて道を歩いているという日常の情景で、道端に花が咲いている。ここまでは何と言うこともない。〈私〉がその傍を通るとき、花群は過去のものとなると詠っている。前に見ている花群は、確かに通り過ぎれば後ろに退く。当たり前のことである。しかしそのことが「はや過去となしつつ」と詠われると、「はや」という副詞の効果も与って何か有り得ない不可思議のことのように感じられてしまう。花山が歌の題材にするのはどれもこれも日常生活のありふれた光景なのだが、慣れ親しんだ人の顔でもじっと見つめていると見たことのない人のように思えてくることがあるように、花山は時に異常と言ってもよいほど鋭い感受性で日常の中に不可思議を発見するのである。

 花山は1978年(昭和53年)に第一歌集『樹の下の椅子』で短歌界に登場した。あとがきには、それまで短歌を読むことすらなかったのに、「京都での大学在学中、寮生活から下宿に移った頃、唐突に短歌を作り始めた」とある。しかし花山の父は歌人・玉城徹であり、家庭のなかには短歌が大きな存在を占めていたと推察される。『樹の下の椅子』には、60年代の後半から70年代の始めにかけての学生運動が影を投げかけている。花山が学生運動にどの程度関わったのかはわからないが、花山が在学していた同志社大学はいわゆる過激派の拠点のひとつだった。「意識不明の友の病室出でくれば炎天に笑み私服待ちいる」のような歌は、時代背景を考えなければ今ではその意味を読み取ることすら難しいだろう。「爆弾がわが手にあらば真昼この都市は静けく来たらんわれに」のように勇ましい歌もあり、青春を感じさせる相聞歌も集中にはあるが、どうしても目が行ってしまうのは次のような歌群である。

 空間に半開きの扉(と)のある夢を怖れて時に現実(うつつ)に見たり

 紺青の空をかきわけかきわけてゆく手の遂に重たかりき

 ランボーの詩片埋めし一季節いづれの窓も半開きにて

 語り合いし未来のように手より落ちにおいなつかし饐えし果実は

 数珠つなぐ如く未来はさびしかり古典的なるジャズ聴きながら

 がらんどうの午後の電車の明るみに閉ざされており外はしぶきて

 しかたなく洗面器に水をはりている今日もむごたらしき晴天なれば

時代背景という物差しを当てて歌を読み解く人ならば、昂揚した学生運動が水を浴びせられたように収束した閉塞状況に置かれた青春の歌と見るかもしれない。そのような読み方も確かに可能である。青春のシンボルともいえる詩人ランボーも詠み込まれており、未来は決して明るいものと捉えられてはいない。しかし時代というファクターを捨象しても、これらの歌には花山の歌人としての感性の核のようなものが見てとれる。『樹の下の椅子』に跋文を寄せた師の高安国世は、花山の「異常に近い感受性」を指摘し、「閉ざされた中から外を想像し、あるいは望見している趣の歌が多い」と述べているが、花山を近くから見守っていた人だけにさすがに鋭い指摘である。

 花山の歌には半開きの戸や窓がよく登場する。上にあげた歌の一首目と二首目がそうだ。第二歌集『楕円の実』にも、「抽出しはみな少しずつ開(あ)いている真昼の部屋に入る蔓の先」という歌がある。ここでテーマ批評に踏み込むとすると、半開きの戸や窓が象徴しているのは何だろうか。それは一種の現実恐怖ではないかと思う。半開きの戸の向こう側には何があるかわからない。また半開きの戸からは自己が承認したくないモノが入ってくるかもしれない。そのような漠然とした恐怖感が根底にあるのだと思う。錠前と鍵のように、また手と手袋のように、〈自己〉と〈現実〉とが隙間なくぴったりと重なり合う関係を一応理想的状態とおくならば、ここには〈自己〉と〈現実〉との間に埋めがたい隙間があるという感覚、また〈自己〉と〈現実〉の間を半透明な膜が隔てているという感覚がある。この隙間が作者を言いしれぬ不安に駆り立てているようだ。

 果肉のごとつまる頭を支えつつ歩む春なりまっしろの空

 午後遅き光かすかに熱もちて線路にさせば何か不穏なり

 脳髄にひしめく蔓のはみ出してゆくと触(さや)れば闇に髪あり

 ベンジャミン・ゴムの葉影は秋の夜の曇りガラスに拡大しており

 「果肉のごとつまる頭」や「脳髄にひしめく蔓」という表現は尋常ではない。少しばかり神経症的な感じがするくらいである。「すこやかに厨に伸びし異母妹(いもうと)の脚触れがたし生まれきしより」、「光ささぬ机の痕(きず)を粘土もて型とりおれば佇ちし父の影」、「父母がわれの傍えに在りしこと嘘のごとくに記憶のあらず」などの歌に見られるように、父親が家族を捨てて去ったという経験を持つ作者であるから、これらの歌に見られる現実恐怖や不安感の原因をその経験に求めることもできるが、それはあまりに安直な俗流心理学だろう。

 さきに花山の歌は歌意が明確で難解なものはないと書いたが、実はよくわからない歌もある。

 中空を皿が割れてすべり落ちてくる白い白い音もなく白い

 薄暗き硝子戸のそと紐流れ朝より寒くなりし頭蓋か

 睦月二日怒り兆して鎮まれるのち曇天に巻貝想う

 中空に皿が割れるというのは夢なのか幻視なのか定かでない。ガラス戸の外を紐が流れるというのもふつうではないし、曇天と巻貝の連想もよくわからない。日常的な現実描写を基本とする花山の歌のなかにこのような歌を発見すると、何か意識がフッと飛んでしまう瞬間に立ち会っているようだ。黒瀬珂瀾は自身のホームページで、花山の短歌にはコワイ歌があると述べているが同感である。実は現実を緊密に描写していると一見思える歌を読んでいても、コワイ歌があることに気づく。

 すがたなき鳥声充つる団地のなか耳澄ます子はとがりゆくなり

 紫陽花の葉うらにいたる少さき蜘蛛すばやく降りぬわが眼前を

 くさはらの低き一樹にびっしりと鳥あつまれば木の顫え見ゆ

 団地のなかに姿の見えない鳥の声が充満するという場面設定からして、ヒッチコックの映画のようだ。その声に耳を澄ませる子供が次第に尖ってゆくのは感覚的表現であるとしても、どこかにコワイものが感じられる。紫陽花の葉の裏にいるクモを詠んだ二首目も、視覚が異常に拡大されているために、単なる写実とは感じられない。三首目も鳥の歌で、小さな木に多くの鳥が留まれば木が揺れることもあろうし、この歌はその情景をそのまま詠んだものと取ることもできるのだが、描写の奥に何かヒンヤリした感覚が残ってしまう。

 これが高安の喝破した「異常に近い感受性」なのだろうか。絵画表現において現実をあたかも写真のように微細に再現するハイパー・レアリズムという技法があるが、ハイパー・レアリズムで描かれた絵をじっと見ていると、あまりに写真的であるがために逆に幻想絵画のように思えてくる瞬間がある。花山の短歌を読んでいると、それと同じ感覚にふと捕われることがある。それが作者の意図したことなのかどうかはわからない。おそらくそうではないのだろう。しかし結果的にこの不思議な感覚が花山の短歌の大きな個性となっていることは否定できないのである。