第127回 花鳥佰『しづかに逆立をする』

あくびする口ひとまはり大きくなり猫はおのれをいま脱がむとす
               花鳥佰『しづかに逆立をする』
 よく寝る子」だから「ネコ」と呼ぶという民間語源があるくらい、猫はよく眠る。だからあくびもする。あくびをすると、顎の関節が外れるのではと思うくらい大きく口を開く。それを「口ひとまはり大きくなり」と表現している。すると大きく開いた口から、別の実体が出て来るのではないかと作者は考える。「おのれを脱ぐ」とは、服のように身にまとっていた自己を脱皮することである。すると中から出て来るのは何だろう。もうひとつの「おのれ」なのか。それともまったく別の存在なのか。これは極めて存在論的な問いである。作者には他にも「桃の棘の芽を出すときになにかかうわがうちなるも露出すべし」という歌があり、私たちの姿形はとりあえずの仮の姿であり、内に何かを隠しているという思いが強くあるようだ。
 花鳥佰かとり ももは「短歌人会」所属。これが第一歌集だが、特に履歴などは書かれておらず、筆名を用いていることからも、自分を語ることを好まないとみえる。あとがきによれば、60歳を過ぎていて、過去に英語と日本語の雑誌編集の仕事をしており、ミステリーを書いて懸賞に応募したこともあるという。朝日カルチャーセンターで小池光の短歌講座に出席し、その縁で「短歌人会」に入会したらしい。栞文は石井辰彦、川野里子、小池光。アンリ・ルソーの絵を配した装丁に作者のこだわりが感じられる。
 まったく予備知識のない作者の短歌に接するとき、最初に気にするのは〈作者─世界〉と〈作者─短歌〉の、作者を原点とする三点測量のような関係である。とりあえず花鳥にとって短歌は自己表現の手段ではないようだ。己について語ること少なく、日々の暮らしを感じさせる歌も少ない。それよりも世界の断片に接したときに覚える好奇心とでも言うものが、花鳥の短歌の原動力になっているようだ。
ガラス越しにオランウータンとキスをする老婦人をりベルリンの昼
レオナルドの人体図のひと耳から下、あゝ体毛のことごとくなし
支那飯屋「全開口笑」に「安宅歯科」もたれ口開く香林坊に
猿のように腰を突き上げターンしてボートの尻をぐぐぐと回す
この弓の尾の毛の主の鹿毛の馬の雲のごとくに駆けるを見たり
 花鳥の歌には何かひとつ中心となるアイテムが含まれているものが多い。一首目はオランウータンである。おそらくドイツ旅行の折りに実際に目にした光景を詠んだものだろう。動物園の獣舎のガラス越しにオランウータンとキスするというのはふつうあまりしないことである。その軽い驚きが歌の核になっている。二首目は有名なダヴィンチの人体図で、よく見ると確かに髪の毛以外の体毛は描かれていない。それだけを詠んだ歌でそれ以外の意味はないのだが、事実に気づいたとき大袈裟に言えば世界が少し更新される。三首目は金沢の繁華街香林坊の光景。おそらく「全開口笑」という中華料理点かその看板に、「安宅歯科」という看板がもたれかかっているのだろう。歯医者に行くと大きく口を開けるのが、「全開口笑」という店名に通じるところがおかしいのだが、これも作者が感じたおかしみを詠んだだけである。花鳥はよほど好奇心の強い人らしく、平和島のボートレースに行ったのが四首目である。これも見たままを詠んだ歌だが、擬音のぐぐぐが効いている。五首目はヴァイオリンを修理店に持って行ったときの歌。「の」のこれでもかという連続が弓の毛の長さか、駆け去る幻想の馬の航跡を表しているかのようだ。
 栞文を書いた歌人は誰も取り上げていないが、集中で私が最も感心したのは次の歌だ。
そのゆふべ分子出でゆきはひりきて蚊柱のごとくわが立ちてをり
 花鳥はたいへんな読書家のようなので、おそらく福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を読んでいるだろう。同書で福岡は生物学者シェーンハイマーを引いて、「生物とは分子の一時的淀みである」と定義している。私たちの身体を構成しているタンパク質はアミノ酸から成るが、それは食物から摂取されたアミノ酸と絶えず入れ替わっている。生物とはタンパク質の一時的な淀みにすぎず、その様はまさに「川の流れは絶えずして」だというのである。上掲の花鳥の歌では、生物のそのような有り様が蚊柱によって表現されている。蚊柱とは言い得て妙ではないか。蚊柱は蚊の集合体であり、柱の立体として見えるものの実体はない。蚊の離合集散という絶えざる運動が私たちの目に映じた幻である。
 作者の知的眼差しは〈かたち〉へと向かうようで、そのためか人間が人体部位の部分的姿で表されることが多い。
叔父の耳とわが耳のなり似るゆゑんを明かして死んだショウジョウバエよ
ご近所の歯医者へ来たりて大男の太きおゆびに歯を抜かれたり
手首から肘まで黒き毛の渦まく腕のとなりに三時間をり
五月四日『毛皮のマリー』に青年の肉うすき尻四つならびぬ
かわきたるくちに触れたるくちびるに冬鉄棒の味はるかなり
   一首目の耳の形、二首目の太い指、三首目の腕、四首目の尻にそのことが見える。五首 目でも唇がクローズアップされている。確かに冬に鉄棒を舐めると金属の鋭い味がするもので、誰しも小学校時代を思い出すだろう。
 次のような歌にも引かれる。作者の〈私〉の捉え方に独自のものを感じるからである。
履く靴の決まりわが身のなんとなくあるかたちにまとまりぬらし
われらみんな歪んでるのだしんしんと冷えたワインをかるくかざしぬ
とつぜんにあまたのにほひわれを充たすいつてきの雨落ちそむるとき
夜にゐて桃を食ぶれば桃のみづわたしの水とからんで揺るる
 栞文で石井辰彦が書いているが、若いうちに短歌に親しんで「絶対音感」ならぬ「絶対韻律感」を身につけていないためか、定型からかなり外れた歌が多い。その大部分は字余りである。
冬の夜に蛸を茹でたりトーマス・クック・ヨーロッパ鉄道時刻表の表紙の色に
 この歌など意味で区切ると、6・7・7・7・10・7で実に44音もある。この歌では三句が7音でかろうじて1音増音にとどまっているが、三句目がきっちりはまっていない歌も多い。短歌人会の大先輩の小池光が繰り返し言っているように、短歌の要は三句であり、もう少し定型を意識したほうがよいかもしれない。
 抒情詩としての短歌という枠からは多少とも外れるかもしれないが、花鳥佰『しづかに逆立をする』はなかなかおもしろく、知的刺激を受ける歌集である。