第159回 藤田喜久子『青い仮象』

夏木立新緑の樹のたまきはるいのち濡れをり村雨の後
               藤田喜久子『青い仮象』


 作者の藤田は青森在住の「玲瓏」会員で、『青い仮象』は第一歌集である。「仮象」は哲学用語で、ドイツ語のScheinに当たり、客観的な実在を持たない主観的表象をさす。歌集題名に選んでいるところから、作者の歌世界を読み解くキーワードだと思われる。
 巻末に「玲瓏」の重鎮・島内景二が「『いのちの海』へ注げ」という長い解題を寄せている。島内は、世界の新羅万象を「仮象」と見ることで、世界を存立せしめている根拠としての「実在」を、自分自身の「生と死」として結晶させようとする試みが、『青い仮象』の本質だと論じている。
 まずいくつか歌を見てみよう。

過去すぎゆきをぬばたまの夜に塗りこめてほのかにしらむ東雲しののめの空
思ひそむたかむらの苔は深けれど翳をたたへて秋のおとづれ
楽譜なくほろびる茎にこぞのごと北より流る秋の口笛
窓あかり薔薇のつぼみは咲きいそぎ人なき部屋に時間ときなりわたる
いそのかみ古き藤蔓乾びてはむらさきの翳何かかなしき

 歌の基本形は旧仮名・文語体で、ここではそのような典型的な歌を選んだ。「ぬばたま」「しののめ」「こぞ」など、古典和歌の用語を多用しており、石上神宮が奈良県天理市布留にあることから「いそのかみ」が「ふる」に掛かるという伝統的な枕詞も使っている。「玲瓏」の創始者・塚本邦雄がモダニズムから一転して古典和歌の世界に詩魂を遊ばせたことを思えば、本歌集も塚本が開いた歌の世界の延長上にあると言えるだろう。
 島内も指摘していることだが、本歌集に頻出する語は「翳、影」である。ランダムに選んだ上の五首のうち二首にそれが見える。なぜ「翳、影」なのか。それは歌集題名にもなっている「仮象」に由来すると思われる。本来、「仮象」とは、鏡像や虹のように、見えはするが実在世界に対応物を持たない表象をさすが、それを拡張してすべての物は〈私〉の主観の中に結像する表象にすぎないと考えれば、万物は仮象と化す。藤田の歌に詠まれた事物に実在感が薄いのはおそらくそのためであり、例えば上に引いた歌にある「竹叢」や「薔薇」は、作者が実際に眼差しを注いでいる実体というよりは、根拠なく中空に浮遊する物、あるいは作者が幻視した虚像であるかのようだ。上に引いた五首目ではそれがはっきりしており、藤の蔓は干からびているのだから花は咲いていないはずで、「むらさきの翳」は藤の花の虚像である。このように本歌集で詠われている事物はすべて影を帯びているのであり、ややもすれば実体よりも影の方が前景を占めるのである。
 このことは次のような歌においては一層明白である。

咲きみつるまぼろしの花さくら樹に枯れ枯れてゆく秋の深まり
底しれぬ孤独の仮象ひかりさす青磁の壺に牡丹一枝

 一首目は秋に葉が枯れてゆく桜の木に満開の花を幻視している。二首目について解題を書いた島内は、「牡丹一枝」は実際には存在せず空の青磁の壺だけがあるという読みを提示している。もしそうだとすれば牡丹は非在の仮象ということになるだろう。
 このように本歌集は古典和歌に多くを学びつつ、万物を仮象と観じることによって自らの生の実相を詠んだものと見ることができる。
 しかし読んでいて気になる点もないわけではない。

まぼろしの砧のおとに夢をみて涙にぬるる袖の月影
夜ふかく秋はかなしき久方の月に妻恋ふさをしかの聲
ながむれば中空さむく夢かよふ風に追はれる雪のひとひら
風わたる思ひのうちの悲しけれさむしろに待つ秋の夜の月

 このような歌ではあまりに古典和歌の型を使いすぎていて「嵌め込み感」が強い。今どき冬の夜なべに衣服を打つきぬたの音が聞こえるとは思えないし、「さむしろ」も現代では見るのが難しいだろう。これらはすべて古典和歌で使い込まれた語であり、その型を用いて言葉を嵌め込んでいる感じがしてしまう。そうするとよく出来た古典和歌のパスティーシュのようになり、作り物感が強く感じられるのである。
 もうひとつ気になるのは文語と口語の混淆体である。現代の歌人の多くは文語と口語の混じった文体を用いているので、口語混じり文語、あるいは文語混じり口語は珍しいものではない。むしろ一般的と言うべきだろう。しかしながらその場合にも、文語と口語の違和感のない融和が文体にも求められる。島内は、現代の話し言葉(口語)を殺し、古典の書き言葉(文語)をも殺すことで、新しい言葉の秩序が生まれていると評価しているが、私にはそうは思えない。藤田に限らないことだが、文語と口語の混淆のなかでも気になるのは助詞の「が」の使用である。

空たかく高層建築ビルがたちならぶ都会の秋の葉の美しさ
大いなる欅の列に極まれる秋のおとづれ雨が降りしく

 古典和歌の文語では「が」を主語として用いている例はない。「が」もともと属格であり、主語としての使用は近世のものである。だからこのように主語の「が」が用いられていると、「あかねさす」とか「あづさゆみ」が並ぶ世界から一気に近代にワープする。上に引いた歌などは完全な口語短歌にしか見えないのである。

ぬばたまの夜寒にならぶ街路樹に月かげさして蒼く夢燃ゆ
雪の精無の世界からまよひこみ水辺の鳥にふたたび出会ふ

 藤田の歌世界はこのあたりに最もよく表れているのだろう。ほとんどすべての要素がそろっている。雪が無の世界から降って来るという観想は美しく、水鳥に「ふたたび」出会うとところに、深い思想を読むべきなのだろう。