第171回 西五辻芳子『金魚歌へば』

ピンホールカメラを覗くごと新国立美術館建つ夕暮れにうかびて
                  西五辻芳子『金魚歌へば』
 作者の名は「にしいつつじ」と読む。難読名前である。私の小学校の同級生に石徹白という男がいて「いしどしろ」と読んだ。大学の教員をしていると、さまざまな氏名の学生に出会うが、今まででいちばん驚いたのは「東海左右衛門」という名字だった。最近TVで見た難読名字は「四十物」で「あいもの」と読む。「あいもの」とは塩干魚の総称で、季節を問わず「しじゅうある」から洒落で「四十物」と書いたらしい。
 さて、掲出歌はいささかリズムがぎくしゃくしているが、六本木にある故黒川紀章設計の建物を詠んだ歌である。ピンホールカメラとはレンズを使わず、箱に小さな穴を開けて、穴を通過する光が倒立像を結ぶカメラをいう。ふつうピンホールカメラは覗かず、倒立像をスクリーンに映したり、印画紙に焼き付けるものである。新国立美術館は外壁が波打つガラスで覆われているユニークな概観をしている。近くに立って見上げると、遠近感がずれてしまったような感覚になる。おそらくその感覚を「ピンホールカメラを覗くごと」と表現したものであろう。「夕暮れにうかびて」というのもガラスで覆われた建物の浮遊感を表している。半透明のガラス外壁が生み出す浮遊感は、もともとは伊東豊雄が得意とした手法だが、今ではごく一般的になった。作者は絵を描く人のようで、やはり空間把握に長けているのだろう。
 西五辻芳子は短歌人会所属で、『金魚歌へば』は第一歌集。小池光、横山未来子、永田淳が栞文を寄せている。ちなみに金魚というのは作者の子供時代のあだ名だそうで、表紙には歌川国芳の「金魚づくし」の絵が配されているという凝りようである。  
短歌や俳句を読む楽しみのひとつにそれまで知らなかった物や言葉との出会いがあるが、本書の場合、それは動植物の名である。作者はよほど自然が好きらしく、見知らぬ動植物の名前が出てくるたびに、広辞苑とインターネットを引きまくる有様だった。ちょっと引いてみよう。
稚児車ちんぐるま雪どけにまた笑まふなりまた笑まふなり春は来たりぬ
人知れずあかつき闇にひらきたる美男葛の花のしづけさ
うすべにのベールの光につつまれて曼陀羅華エンゼルトランペット咲く門がひらかる
万葉苑の小小ん坊しゃしゃんぼうぼく幹うねり小雨しくしくおとかなでをり
この夏に知りそめし名は松葉海蘭まつばうんらん驕らず咲けるかそけき花ぞ
 「稚児車」「美男葛」「曼陀羅華」「小小ん坊」「松葉海蘭」、すべて植物の名であるが、よくもまあこんなに見つけてくると思うほどだ。また絵を描く人だけあって、色名もまた豊富に使われている。
首長き一羽の鳥のすばやさよ前横切るはつるばみ色に
英虞湾のゆたかな海がなぎし時コチニール色の空は燃え立つ
 「橡色」とは何でもどんぐりのかさを煮た汁で染めた色らしい。「コチニール」は貝殻虫で、これから取った色がカルミンレッドだそうだ。次のような歌もある。
あれはなんぢやもんぢやの木かとしげしげと見るわれをみる犬
虚空よりかんかん虫の音響きメリケン波止場に風ひかるかな
 「なんじゃもんじゃ」とは、もともとは関東地方でその土地では見かけない樹種を指す言い方だったようで、ヒトツバタゴ、イヌザクラ、クスノキ、アブラチャンなどを指すという。この歌では木を眺める作者を犬が見ているという視点移動もおもしろい。「かんかん虫」とはどんな虫かと調べてみたら、煙突などに虫のように張り付いて金槌で叩いて錆を落とす作業員のことだと知れた。虫ではなかったのである。
 短歌は基本抒情詩であるが、西五辻の歌には軽みや面白みのある歌が多い。きっと小池光が好きだろうと思うのは、次のような歌である。
二百円の半割メロンにかしこみ注ぐビシソワーズをかしこみ啜る
佳水園を写メールすればあらをかし床の間の上の三十糎の革靴
いさかひて「貧乏人」と吾が言へば「貧乏神」と娘正せり
ダチョウとガチョウのたまごつてききまちがへると微妙にへんだ
いくそたびとんちんかんなこたへいひけふははづかしといへるスマホよ
いつまでも「ピップエレキバン」いへず「ヒップエレキバン」てふ鸚鵡なりけり
三度聞き名前覚えし歌人なり島田幸典貌は覚えず
 半割メロンはよくスーパーの売り場に並んでいて、閉店時間が近くなると30%引の札が貼ってあったりする。その庶民感覚と、まるで拝むかのようにビシソワーズをかしこみながら啜るという対比がおかしい。ちみなみビシソワーズは、温泉で名高いフランスの町ビシー(Vichy)の名がついているが、ビシーとは何の関係もなく、アメリカで考案された冷製スープである。二首目の佳水園はおそらく京都のウェスティン都ホテル内にある村野藤吾設計になる和風別館だと思われる。床の間に30cmという大足の革靴が載っていたとはいかなる仕儀か。三首目は娘との口論で、作者が「貧乏人」と言ったのを娘が「貧乏神」と訂正したのが冷静でおかしい。五首目はおそらくスマートフォンに向かって音声で質問するソフトを使っているのだろう。ソフトがまだ不完全なので、とんちんかんな答えしか返ってこないのだ。六首目は解説不要。七首目、「塔」の歌人島田幸典氏の名前を三度聞いてようやく覚えたという。このような軽みのある歌は味わい深く、作者は手数の内にこのようなものも持っているのである。
 しかし集中で最も光るのは、次のような一見すると地味で何気ない歌ではないだろうか。
なゐののち白き花咲く坂道に登校の列駅舎より見ゆ
主亡き更地に咲きし野路菊は月の光に冴え広がれり
巨大なる千姫の墓にプーさんのぬひぐるみ座し万歳するも
道の辺の地蔵菩薩のやはらかき土に挿されし風車あり
田植ゑせし稚き苗のあはひにははつかの息が泥より出でぬ
地の涯の春の浜に出て貝ひろひ貝の穴より見ゆる国後島くなしり
 一首目の地震は1995年の阪神淡路大震災のことで、生徒たちが坂道を学校へ向かうのが駅舎から見えるというただそれだけの情景を詠んだ歌だが、その静けさが大震災の苛烈さを陰画として見せるようでもある。二首目も震災で家が倒壊した跡地でを詠んだものである。三首目に登場するのは、伝通院にある徳川二代将軍の長女の千姫の墓所である。誰かが供えたものか、大きな熊のプーさんのぬいぐるみが万歳しているのがおかしい。四首目、田舎の道だろうか、道ばたの地蔵の横に子供が置いたものか、風車が挿してある。これまた何ということのない光景だが、どこか心に沁みるものがある。五首目は観察の歌で、田植えしたばかりの苗の根元から泡が立っているというのである。おそらくは植えたときに泥に入り込んだ空気が外に出ているのだろうが、それを作者は苗の息と見たのだ。六首目は北海道旅行の羈旅詠で、浜に打ち寄せられた貝殻にあいた穴から国後島が見えるという、遠近感の強い歌である。
 とても珍しいのは次の学名を詠み込んだ歌だろう。
遊星に青きてふありはるばるとキブリスモルフォ・ディディウスモルフォ
 キブリスモルフォもディディウスモルフォも、タテハチョウ科のモルフォチョウ属に分類される蝶の学名である。写真を見ると、ディディウスモルフォは美しい青色の蝶である。この地球という遊星は宇宙という虚空を猛スピードで移動しているが、その上に青い蝶がとまっている。「はるばると」とあるので、作者にはどこか別の世界からやって来たもののように見えたのかもしれない。「キブリスモルフォ・ディディウスモルフォ」と並べると、なにやらありがたい祝詞か呪文のように聞こえる。短歌の音的側面を生かした歌といえるだろう。