第10回 辻征夫『貨物船句集』

兄貴死んだ俺は玉緒としゃぼん玉
              辻征夫『貨物船句集』
 今回取り上げるのは歌集ではなく、辻征夫(つじ ゆきお)の『貨物船句集』(書肆山田 2001年)である。辻は1939年生まれの現代詩人。『天使・蝶・白い雲などいくつかの瞑想』(藤村記念歴程賞)、『かぜのひきかた』(藤村記念歴程賞)、『ヴェルレーヌの余白に』(高見順賞)、『俳諧辻詩集』(萩原朔太郎賞)など数々の受賞歴がある。2001年に脊髄小脳変性症により他界。『貨物船句集』は句友・井川博年の編集による遺句集で、「貨物船」は辻の俳号。ちなみに名字の「辻」はふたつ点のしんにゅうが正しい表記という。
 掲句は俳句としてはいささか異例な作りである。初句が「兄死んで」ではなく「兄貴死んだ」と切れているところに俳句をはみ出した抒情性が滲み出る。俳句は本来抒情詩ではないので、専門の俳人ならこういう作りにはしないだろう。句中の「玉緒」は「しゃぼん玉」という児戯の連想で、うんと年下の恋人か酒場の女と取りたい。句全体から、この先どう生きてよいのかわからない男の姿が浮かび上がるが、このイメージは辻の詩の世界と通底している。季語は「しゃぼん玉」で春。
 さっそく『貨物船句集』から印象に残った句を引いてみよう。どれもいかにも俳句的な難解語を避け、平易な日本語で書かれている。一読して記憶に残る句ばかりだ。
うすければはしかけておりひるのつき
あきまつり柄杓のふちに紅つけて
つゆのひのえんぴつの芯やわらかき
物売りが水飲んでいる暑さかな
新樹濃し少年の尿(いばり)遠くまで
房総へ浦賀をよぎる鬼やんま
バケツなれば凹みもありし四月馬鹿
春は春路上のわれのらんるかな
満月や大人になってもついてくる
 なぜ現代を代表する詩人が俳句を作るのだろうか。解説を寄せた小沢信男によると、詩学社にたむろする詩人の間で俳句をやろうという話が80年代の終わり頃に持ち上がり、辻征夫、小沢信男、井川博年、八木忠栄、多田道太郎、清水哲男らが参集し「余白句会」と称して月一回の句会を催すことになったという。詩人の余技かというとそうでもない。なかでも清水哲男は『打つや太鼓』『匙洗う人』という句集を持つほど本格的に句作に打ち込んでいる。辻が俳句に手を染めた動機も余技というものではなかったようだ。現代詩と俳句はどのような関係にあるのだろうか。
 現代詩というと思い出すことがある。残暑の気配もようやく引いた2007年9月29日のことである。東京は南青山のNHK青山荘で、松野志保さんの第二歌集『TOO YOUNG TO DIE』の批評会が開かれた。私はパネリストを務めることになっていて、開会前にロビーの喫茶コーナーで司会の藤原龍一郎さんたちとの打ち合わせに臨んでいた。テーブルにはパネリストの一人である詩人の川口晴美さんが、私の真向かいに座っていらした。川口さんは「歴程」同人で、『やわらかい檻』『綺羅のバランス』などの詩集をお持ちの、長い髪をした美しい詩人である。ひととおり初対面の挨拶をすませたとき、川口さんが私に「現代詩はお読みになりますか」とたずねられた。私はどきまぎして深く考えもせず「あまり読みません」と答えてしまい、美しい詩人の不興を買ってしまったのである。
 今では現代詩からすっかり遠ざかってしまった私も、昔は現代詩を読んでいた時期がある。今でも書架の奥を探せば、思潮社版の現代詩文庫や飯島耕一『ゴヤのファースト・ネームは』や渋沢孝輔『われアルカディアにもあり』が見つかるはずだ。今から振り返って考えると、私が現代詩を読まなくなったのは、私一個人的の事情というよりは、世の趨勢としての現代詩の退潮と同期していたようだ。私にはその間の事情を論じるだけの知識がないので、岡井隆の発言を引用しておこう。
「戦後詩と彼らは呼んでいるんだけど、つまり難解を恐れない詩作りですね。吉岡実さんなんかもそうだね。あと、谷川俊太郎なんかが最後かなあ、むしろ難しい方がいいくらいに考えていた。それがいまや読み手がいなくなってしまった」(小林恭二『俳句という遊び』岩波新書 1995)
 現代詩はある時期、このような閉塞状況に置かれていたのである。そこには「戦前期のモダニズムを、あの戦争を生きのびることによって否定的継承者とし結実させて、戦中派の”遺言執行人”として登場した戦後派詩人は、その虚無と空白を詩的言語と化した。それは”戦争体験”世代の宿命でもあったが、日本の国民詩、詩の伝統からの途絶であるがゆえに、言葉の荒涼を否応なく、引き受けざるをえなかった」(富岡幸一郎「旬を読む: 城戸朱理『戦後詩を滅ぼすために』の書評」という事情があったらしい。富岡の言う「言葉の荒涼」を引き受けざるをえなかったとすれば、現代詩が孤独な発語の袋小路に陥った歴史的事情は理解できる。
 一方、辻征夫はというと、「遊び心と本気」と題された『俳諧辻詩集』のあとがきで、次のように述べている。
「かつて現代詩は、伝統的な文芸である短歌俳句とは別の地点に独自な詩の世界を確立しようとしたが、私たちはすでに〈別の地点〉という力みからも自由であることを自覚している」
「私は二年前の春から自作の句を突き飛ばすような感じで、「俳諧辻詩集」という連作を試みているが、これも元をただせば現代詩は痩せすぎたのではないかという思いから来ている。江戸以来の俳句は簡潔な認識と季節感の宝庫であり、それは気がついてみれば現代詩にとっても貴重な遺産だった」
 戦後詩を担った吉岡実は1919年、鮎川信夫は1920年、田村隆一は1923年生まれだから、1920年前後に生まれた人たちが、25歳前後で終戦を迎えて戦後派詩人の第一世代となった。飯島耕一と渋沢孝輔は1930年、谷川俊太郎は1931年生まれで、第一世代とは10歳年下の第二世代を形成している。私が読んだ現代詩はこの世代のものだったのだ。富岡の言う「言葉の荒涼」を引き受けた世代である。私の現代詩体験はこの世代で停止している。辻征夫は1939年生まれだから、さらに10歳年下で、第三世代と呼んでもよい。第一世代から見て20年の年月が辻に「現代詩は痩せすぎた」という認識を可能にしたのだろう。辻征夫は「戦後詩は終わった」とも述べている。この世代の辻や清水哲男の目には、短歌・俳句という伝統的詩型が「貴重な遺産」と映っていることは注目すべきである。かつて「伝統的な文芸である短歌俳句とは別の地点に独自な詩の世界を確立しようとした」現代詩が、決別すべき仇敵と見なした短歌俳句に眼を向けるようになったのである。飯島耕一も晩年は江戸文芸に傾倒していたと聞く。これを老年になっての日本回帰とのみ断じることはできまい。
 「現代詩は痩せすぎた」という認識が辻をして、伝統的詩型と現代詩の接点を見いだす試みへと船出させた。こうして生まれた『俳諧辻詩集』は、自作の俳句に詩を付けた連作という形式を取っている。短いものを選んで引用してみよう。
五月雨

さみだれや酒屋の酒を二合ほど
(雨ってのは
見ているものだな
傘屋の軒
酒屋の土間
どこからでもいいが
黙って見ているのがいちばんいい
するとなにやらてめえのなかにも
降りしきるものがあるのがわかってくる
なんだろうこの冷たさは
なんて
……
雨がやんだら?
ばかやろう
さっと出て行くのさ)
 若い人のために解説しておくと、昔の酒屋の奥にはかんたんなカウンターがあり、客に酒を立ち呑みさせていた。居酒屋よりも安く呑めるので、これからネオン街に繰り出そうという人が下地作りに酒屋で立ち呑みした。「酒屋の酒を二合ほど」というのはそういう情景を詠んだものである。俳句は説明抜きに情景を鋭く切り取る文芸なので、掲句には五月雨に降り込められて酒を呑んでいるという情景以外は表現されていない。一方、添えられた詩は抒情詩である。この詩の肝は言うまでもなく「するとなにやらてめえのなかにも/降りしきるものがあるのがわかってくる」のくだりだ。情景を鋭く切り取る写実詩の俳句と、個人の心情の深みを掬い上げる抒情詩とが、同一の主題を蝶番として反照し合い、互いの詩型の本質を照射すると同時に、互いに浸透し合ってひとつの詩的世界を組み上げている。辻が意図したのはそういう試みだろう。詩の言葉を痩せ細らせるのではなく、互いの歴史的遺産を持ち寄ることで、逆に詩の言葉に広がりを与えようという試みなのである。
 『貨物船句集』には『俳諧辻詩集』で使われた句がたくさん収録されている。『貨物船句集』を読んでから『俳諧辻詩集』を読むと、まず俳句として読んだ句が抒情詩とどういう出会いをするかを楽しむことができる。逆に『俳諧辻詩集』を読んでから『貨物船句集』を読むと、抒情詩の部分を削られた俳句が単独の句としていかなるたたずまいを見せるかを味わうことができる。どちらも楽しい体験なので、ぜひ両方を読むことをお奨めしたい。今年の夏の酷暑の中で、一服の心の涼を味わうことができる理想的な緑陰読書である。読んでいると路地の打ち水からかすかな涼風が立ち上るような感を覚えることを請け合おう。
 では辻の俳句の特色は那辺にありやというと、やはり俳句らしからぬその抒情性だろう。辻の句は抒情詩人の作る句なのである。
葱坊主はじっこの奴あっち向き
リスボンのあばずれ恋し蜥蜴彫る
冬の雨若かりしかば傘ささず
行春やみんなしらないひとばかり
にぎわいはなみばかりなる冬の浜
「葱坊主」の句からは絵本のような童話的な情景が立ち上がるし、「リスボン」の句の背後には異国の恋物語という強い物語性がある。俳句は説明抜きで情景を切り取る文芸であるが、抒情には物語が必要である。このふたつは本来は相反する特性なのだが、辻の俳句ではこれが同居しており、それが辻の句の独特の味わいとなっている。
 では俳句的な俳句とは何かということだが、私にはこれを論じる資格がないので、大家に語ってもらうことにしよう。今は亡き三橋敏雄の「よそながら音なき日あり龍の玉」という句を評した、これも今は亡き藤田湘子の言である。
「つまりですねえ、「よそながら」も「音なき」も意味もクソもないんだ。でもね、そのすべての言葉がね、「龍の玉」という季語に奉仕しているんだ。それだけの句なんだね。だけどそれでいながら読み終わったあと龍の玉が見えてくるんだ。(…) こういう句はいい句なんだよ」(小林恭二『俳句という遊び』岩波新書 1995)
   なかなか含蓄に富む言葉である。短歌や詩とは異なる俳句の生理を言い表して間然とするところがない。このような立場に立つ俳人ならば、「にぎわいはなみばかりなる冬の浜」の「なみばかり」は「冬の浜」の説明になっているとか、着き過ぎているなどと批評するにちがいない。しかし辻の俳句は抒情詩人の句だから、私たち読者はそのことをわきまえて味わえばよいのである。
 最後に『俳諧辻詩集』という題名について。昭和18年に日本文学報国会の呼びかけで軍艦建造の募金集めの一環として208人の詩人が詩を寄せた『辻詩集』が刊行された。戦争協力の翼賛詩集である。相馬御風、木下杢太郎、堀口大学、村野四郎、小野十三郎、北園克衛、滝口修造など、錚々たる面々が名を連ねている。戦後詩はこの『辻詩集』を否定するところから出発した。『俳諧辻詩集』には「俳諧」と冠されてはいるが、この題名を見ればすべての詩人は戦前の『辻詩集』を思い浮かべる。辻はそのことを十分承知してこの題名を選んだのである。この題名の選択もまた「戦後詩は終わった」という辻の認識と深く関係することは言うまでもない。