第341回 辻聡之『あしたの孵化』

水と塩こぼして暮らす毎日に水を買いたり祈りのごとく

 辻聡之『あしたの孵化』 

 初句の「水と塩」は汗のことである。毎日汗をかいて暮らすのは、労働の日々を送っているからである。口に糊するには働いて対価を得なくてはならない。通勤の途中でコンビニに寄って水を買う。水を買うのは汗をかいて減った体内の水分を補うためだ。働いて減った水分を補うために、働いて得たお金を使う。気の遠くなるような徒労である。しかしそんな〈私〉でも、水を買うときに何かに祈る気持ちになることがある。祈らずにはおれないのだろう。この歌の次に「みな白き家電並びぬ わたくしは汚れるために生活をする」という歌がある。並んでいる白もの家電は洗濯機なのだろう。生活とは汚れることに他ならないという認識が根底にある。

 『あしたの孵化』(短歌研究社)は辻聡之さとしの第一歌集である。歌集巻末のプロフィールは作者の人柄を反映してか、そっけないほど簡潔だ。辻は1983年生まれ。2009年に歌林の会に入会し、2014年にかりん賞を受賞とある。2017年の角川短歌賞で「やがて孵る」50首で佳作に選ばれたことにも触れていない。栞文は荻原裕幸、松村由利子、寺井龍哉。帯文は馬場あき子が寄せている。

 一読した感想は、いかにも現代という混沌とした、しかしフラットな時代を生きる若者らしい短歌だなあというものである。

ナポレオンは三十歳でクーデター ほんのり派手なネクタイでぼくは

わたくしも誰かのカラーバリエーションかもしれなくてユニクロを出る

はつなつの表面張力 卓上のゆるきグラスにわたしは満ちる

群れながら孤島のこころ貸し切りの車内で笑う職員旅行

正論を説かるる夜の鉄網の牛ホルモンに焔立ちおり

 一首目、作者は今年誕生日を迎えていれば39歳だから不惑の入口に立っている。英雄ナポレオンは30歳でブリュメールのクーデターを起こして統領となった。それに較べて自分は平凡な生を生きている。英雄の時代は遙か彼方に去り、大きな物語の時代も過ぎ去った。しかしほんのり派手なネクタイを締めて出掛けるところに、作者のささやかな矜恃が感じられる。二首目、ユニクロは廉価な衣服で便利だが、同じ服の色違いを着ている人と出くわす確率は高い。もし出会うと少し気まずい。もっとダメージが大きいのは、自己存在の唯一性という自我の砦が脅かされることである。自分は誰かのカラーバリエーションかもしれないと疑うということは、自己存在の唯一性に疑義を抱いているのだ。三首目、グラス一杯に注がれている飲み物は、グラスの中にあるからこそ形を保っている。今にも零れてしまいそうで、もし零れると形は崩れてしまう。それはもちろん生き方のはっきりしない〈私〉の喩である。四首目を読んで思わず「わかる!」と心の中でつぶやいてしまった。作者は団体行動が苦手なのだ。たぶん遊園地よりも植物園を好むタイプだろう。五首目、焼肉屋で牛ホルモンを焼きながら、誰かに正論を説かれている。相手が言うことは正論なので〈私〉は反論することができない。しかし心の中にはホルモンを焼く焔のように怒りがふつふつと湧いている。作者は決して不感無覚の人間ではないのだ。低体温でフラットな歌が多いように見えて、実は作者の心の中には様々な感情が渦巻いていると思われる。ただそれを静かな言葉で表現しているのだ。

 辻の短歌に詠まれている素材は、身辺の半径500メートルを超えることがない。典型的な「近景」の歌で、「中景」や「遠景」の歌はまったくと言っていいほど見当たらない。重要なテーマは家族である。辻には姉と弟がいて、両親も健在のようだ。ただ父親は耳が遠くなり補聴器を付けている。

父のめまいなおなおやまずのんのんと冬の蝸牛の眠りておれば

夜ごと世界を捨て去るごとく枕辺に父の置きたる補聴器黒し

かつて吾をそらへはこびし肩車に金木犀の花ふる余白

 一首目の「蝸牛」は耳の中の三半規管のことで、そこの不調によってめまいが起きるらしい。三首目は自分が幼かった頃の壮健な父親と、弱ってしまった現在の父親を較べる歌で、誰しも感じることのある悲しみである。結句の「花ふる余白」がせめて美しい。

 集中で異色の素材は角川短歌賞佳作の作品にも詠まれていた弟の結婚である。何と長い付け睫毛を付けたギャルが嫁に来るというのである。

ギャルが嫁にくる 冗談のようなメールののちのしずけさ

ハエトリソウのごとき睫毛をひらかせて彼女は見たり義兄なるわれを

盗み見る義妹の腹にみっちりとしまわれている姪らしきもの

わたくしの見たことのないさみどりに弟とその妻が記す名

沈黙をチャイルドシートに座らせてわが弟は戻り来たりぬ

夢と思うギャルの義妹も笑わざる姪を抱きたるわれの両手も

 嫁に来たギャルのお腹には赤ちゃんがいる。やがて赤ちゃんは誕生し、今風のきらきらネームを付けられたようだが、結婚は2年で破綻し、五首目にあるように緑色の離婚届に署名することになる。元妻と娘をどこかへ送り届けて帰って来た弟の車のチャイルドシートが空っぽなのが悲しい。家庭に立ったさざ波は短期間で終熄したのである。

まんなかにちいさな鱗てさぐりで探せばきみの背きみだと思う

蛸を噛むきみを見ている上顎はぶれないきみの確かな頭骨

ぼくは右岸、左岸のきみに呼びかける千の言葉を吊り橋にして

花園橋越えて植物園に到るきみの日傘に花の重力

 松村も栞文で書いているように、歌に詠まれた作中の〈私〉はぐにゃぐにゃだが、それに比して恋人らしき〈きみ〉の姿はくっきりとしてぶれない存在感を湛えている。蛸のぶつ切りを確実に咀嚼し、日傘にかかる重力をしっかり受け止めている。

望まれるように形を変えてゆく〈主任〉はどんな声で話せば

残業のうちに破るる細胞膜わが体臭は昨日より濃く

働いてお金をもらう咲いて散るようにさみしき自覚をもちて

やってらんないすよと後輩 コピー機の排熱ほどの声に触れたり

長雨に執務日誌は湿りたりペン先の鈍く沈みてゆきぬ

 職場詠である。どうやら作者は会社内で主任に昇任したらしいのだが、なかなか役職に馴染むことができない。人間は立場や環境に応じて複数のペルソナを使い分けて生きているが、そのこと自体に違和感を感じているのだろう。多くの歌に日々の労働の疲れが滲んでいる。

 さて、ここまでは本歌集の内容、つまり詠まれた主題や素材の話である。現実の経験をそのまま言葉にしても詩にはならない。日常言語を詩的言語へと浮揚させるには工夫が必要だ。近代短歌は「写生」という方法論を開発したが、古くは和歌にも現代の短歌にも、詩的浮揚によってポエジーを立ち上げるための修辞の工夫がいろいろとある。今度はそのような歌を見てみよう。

裏返す靴の内からさらさらとふたりで踏んだ砂のささめき

雪の記憶語りて過ごす鳥たちも影へとかえる空の真下で

廃園を告ぐるプレート万緑に異界をひらくごとき白さで

種を吐く 夕餉を終えて母の剥く八朔のそのひと房の翳り

喝采まで遠き海辺に立ちながら練るほど銀にひかる水飴

 一首目は恋人と海に行った夏の記憶を詠んだ歌。二人で砂浜を歩いたのだ。どこにも海とは書かれていないが舞台は確実に海である。大事なことをぼかして表現することを緩徐法(フランス語ではlitote)と言う。これによって詩的空白が生まれる。またこの歌では「さらさら」と「ささめき」の「さ」音の連なりの擬音法が、夏の名残りの砂を表現している。

 二首目の読み方はいくつかあるだろうが、「影へとかえる」は終止形ではなく、「空」にかかる連体形と取った。すると「影へとかえる」までが長い序詞になる。実際に鳥が雪の記憶を語り合うことはないので、ここには擬人法が使われている。鳥が影にかえるのだから時刻は夕暮れである。結句の「空の真下で」は言いさしとなり、空の下で何をするのかが伏せられているため意味の余白と余情を生む。

 三首目、遊園地か動物園か植物園かわからないが、「長年ご愛顧ありがとうございました。当園は今月末をもって閉園いたします」というような文言が書かれたプレートが鉄柵に掲げられているのだ。「万緑」は中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生そむる」という句によって歳時記に載るようになった季語である。季節はもちろん草木の緑が濃くなる夏だ。この歌の修辞は「異界をひらくごとき」という直喩にある。直喩の効果は世界の二重化にある。この直喩によって白いプレートが異界の入口のように見えて、それは廃園の後のこの場所の未来の姿を予言しているようでもある。

 四首目の初句の後の一字空けは、「吐く」が次の「夕餉」に懸かる連体形と取られることを防ぐためだろう。誰が何の種を吐くのかは二句以下を読まないとわからないのでここには倒置法が用いられている。また「夕餉」は日常では用いることのない詩語だ。「母の剥く八朔」から家族の夕食の一場面であることが知れる。「八朔のそのひと房の」の「の」の連続でズーム効果が生まれて、視線は八朔のひと房に集中する。八朔の房に宿る翳りははっきりとは語られていないものの、何かの終焉を予感させる。

 五首目、「喝采まで遠き海辺」が何かの不全感か挫折感を表す喩である。〈私〉は海辺になすすべもなく佇立している。上句で景と心情が詠まれていて、下句とは所謂辞の断絶がある。「練るほど銀にひかる水飴」は、二本の箸を使って水飴を練ると、空気が入って銀色に変化する様を述べたものだが、上句と意味的な連関はなく、怒濤に白く泡立つ海の隠喩であろう。このように上句と下句を断絶させて強いイメージを立ち上げるのもまた現代短歌が開発した技法である。

 歌集題名の『あしたの孵化』は角川短歌賞で佳作となった「やがて孵る」と呼応している。佳作の一連では義妹のお腹にいる赤ちゃんがやがて産まれるという意味のタイトルだったが、大幅に組み替えられた本歌集に付けられた『あしたの孵化』には別な意味が与えられている。それは歌の中の〈私〉がまだ本当にあるべき姿に到達していないということを意味している。〈私〉はまだ成長の途上にあるというのが作者の認識なのだろう。