第12回 野口恵子『東京遊泳』

凍土から発掘されたマンモスが疼きだしたり春日を浴びて
              野口恵子『東京遊泳』
  歌集の巻頭歌である。巻頭歌にマンモスの歌を置く歌人はあまりいない。しかしよく読めば、ほんとうにシベリアの凍土から掘り出されたマンモスを詠っているのではなく、春の日を浴びたときの気分を表現しているとわかる。冷凍されたマンモスが溶け出すのではなく「疼きだす」としているところに、作者の感覚へのこだわりを見ることができる。
 野口恵子は1975年生まれ。早稲田大学理工学部を卒業して、IT関連企業に勤めているという。「開放区」の田島邦彦の指導を受け、歌を作り始めてから3年足らずで第一歌集『東京遊泳』(ながらみ書房、2005年)を上梓。『現代短歌最前線 新響十人』(北溟社、2007年)にも選ばれている。「東京遊泳」という題名が魅力的で、白く波立つ薄青の表紙に半透明のブラスチックカバーを掛けた装幀が、歌集全体に漂う浮遊感を視覚的に演出している。少し珍しいのは、目次が「第一章 南の国にて」「第二章 オパールの風」と、全部で十章まで章分けで構成されている点だ。この構成は第一歌集によく見られる編年体ではなく、周到に歌を配置して編んだ歌集であることを意味している。
 さてその歌の世界であるが、まずいくつか特徴的な歌を引いてみよう。
始生代の隆起に降りし春雨か薄むらさきに染まりて森羅
のびやかに蛙の胎は伸縮し地球の鼓動に近づいてゆく
深黒(しんこく)の冥王星の引力にパラソルの影かたむいていく
君とわれ宇宙に浮きし塵のころ地球の誕生ながめていたり
火星から望遠鏡で覗いてる琥珀に光る蝉の抜け殻
青藍の銀河を渡るウミガメが産卵をする星満ちる空
 これらの歌には作者の理科系の想像力を見ることができる。例えば一首目では、ふつうの歌人ならば「緑なす丘」などと詠むところが「始生代の隆起」である。眼前の丘のことを言っているのなら、風景は同一でも何万年もの時間を踏まえているし、もし「始生代の隆起にも降ったような雨」という意味なら、同じだけの時間を飛び越えていることになる。二首目では蛙の腹の動きが地球の鼓動と呼応しており、三首目では日傘の影の動きとはるか彼方の冥王星とが呼び合っている。残りの三首では画面がすっと引きになって、地球を含む宇宙的スケールでの映像が展開される。このように古生物を含む地球が辿った何百万年もの時間と、光年単位で計られる宇宙空間を想像力の射程に収めているところがこの作者の特質だろう。
 宇宙的ヴィジョンといえば井辻朱美の名がすぐに頭に浮かぶが、野口の場合はやや肌合いにちがいがある。井辻の短歌世界では、主題としての古生代や宇宙空間がSFファンタジーにおける世界設定として構築されている。そして描かれた異世界がインナー・スペース化しているところに特徴がある。だから私たちが井辻の歌を読むときには、ドアを開いて異なる世界に入って行く感覚を覚える。ところが野口の場合、古生代や宇宙空間が特に異世界として意識されているのではなく、インナー・スペースになっているわけでもない。私がいる今ここと自然につながっているかのように詠まれているのである。
 また次の歌群には、ヒトである〈私〉と動植物との種を越えた融合感覚が見られる。
冷涼の春霖を吸うわたくしに鱗の生えて青く光れり
朝帰り 日差しまぶしき果実からはじき出された種子なり吾は
うろこもつ魚となりて夢のなか銀河の空を泳いでいたり
大あくび空に伸びするわたくしは土より生えた生き物となる
わたくしは何であろうか存在の境界なくすボルネオの闇
 これまた理科系出身歌人である早川志織に見られた感覚とよく似ている。しかし「傾けて流す花瓶の水の中 ガーベラのからだすこし溶けたり」のような早川の歌では、種の境界を越える濃密な身体感覚があり、その感覚はときとして性的な微熱を帯びる。この微熱は野口の歌には見られない。野口の歌では種の境界を越えるという想像がもたらす浮遊感や解放感のほうが大事なように見える。野口はスキューバ・ダイビングが趣味で、しばしばボルネオの海に潜っているという。魚や海草に囲まれて海の中を漂う浮遊感にいたく惹かれているらしく、この浮遊感覚が歌を作る際にも基調として働いているようだ。
 歌集の栞文を書いた早川志織・菊池裕・錦見映理子の三人が異口同音に述べているように、集中では歌集題名ともなった「東京遊泳」の連作に作者の個性が最もよく表れている。
始まりは東西南北を見通せる銀座四丁目交差点から
光りごけ群生している森にいる晴海通りを湿らす明り
東京の夜の雲にはうっすらと魚群の影が映されている
もっそりと柔き甲羅の動き出し籠り沼に帰す東京ドーム
海中をクラゲとなりて泳ぎだす湾岸沿いの巨大タンクは
マンションの裏へ回れば浴槽で飼われし人魚の悲鳴が聞こゆ
   作者は東京の夜は海に似ているとある時気づき、それから好んで夜の東京を漂うように歩くようになったという。大都市の照明と光りごけ、雲に移る魚群、巨大な亀に見立てられた東京ドーム、泳ぎ出すガスタンク。不眠都市東京の夜の光景が海の中の風景のように描かれている。都市詠は近代短歌の大きな主題のひとつだが、都市がこのように海中風景との類似において詠われたことはないのではないか。主題と発想の点からは、ユニークな成果だと言えるかもしれない。ここでもキーワードは浮遊感なのである。
 短歌史の次元をからめて考察すると、野口の歌にはひとつの特徴が見られるように思う。近代短歌はまず第一に〈私〉の歌であり、歌の中での〈私〉の位置取りが問題となる。文体の上で〈私〉の位置取りに大きな役割を果たしてきたのは視点であり、近代短歌は視覚優位を特徴としている。ところが野口の歌の多くは視点が固定せず浮遊し、またそもそも視点が設定されていないものもある。
葉の裏の気孔の開閉こだまして森はひとつに深呼吸する
万象の上に優しく雨は降り孤独な夜をいくつもくるむ
寝ころんでいる昼すぎの砂浜はわれを貼り付け地球は回る
 野口の歌の構造は比較的単純で、「~は~する」という叙述文形式のものが多い。これは事象を述べる文型であり、くびれのない事象叙述に〈私〉を組み込むのは難しい。たとえば同じように雨を詠っても、「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」という名高い茂吉の歌では、「百房の黒き葡萄」という描写の具体性によって、眼前に広がる葡萄畑とそこに降る雨とがある視点から見られた情景となり、上句の見ることを強いる声と重合することで、全体として作者の立ちすくむような戦後の悲傷を浮き彫りにしている。茂吉の歌には見る〈私〉が確かに存在し、見られる情景との拮抗が一首の内部に緊張を生み出している。一方、上に引用した野口の二首目では、雨は万象の上に降るのであり、特定の物に降っているのではない。ここには視野の切り取りがなく、紗のかかったような雨は世界全体に降るものと捉えられている。この視点の非固定はまた、下句の抽象的感慨とも呼応しているのである。
 ちがいは明らかだろう。野口の歌に見られるのは、近代短歌の主調をなす視覚優位の〈私〉ではなく、風景の一部として溶け込み世界の一部をなす私であり、ときに種の境界すら越えてしまう私なのである。野口は一人称代名詞として「吾」「わたし」「わたくし」「われ」と様々な表記を混用しているが、この文体的選択もまた主体としての私の輪郭をあえて融溶させて、世界とひとつらなりになる希求の表れなのかもしれない。これもまた近代短歌の〈私〉がすでに耐用年数を迎えていることの兆候なのだろうか。
 野口はあとがきのなかで、「短歌のことを多く学んでしまう前に第一歌集を出したいと思っていた」と述べている。習熟と知識を拒絶するのは、現時点での等身大の自分に対するこだわりからだろう。その矜恃やよしとすべきかもしれない。しかし集中には「呼応する宇宙はひとつのガラス玉 星がきらめき波がさざめく」のように、主題を説明してしまっている歌も多く見られる。説明せずいかに詠うかが今後の課題だろう。
 『東京遊泳』はこのように、いろいろな意味で浮遊感覚に満ちた歌集である。作者が今後どのように習熟と知識を受容して新しい歌を詠うのか注目したい。