桜花コンクリートに溶けてゆくひとひらにひとひらのまぼろし
鈴木晴香『心がめあて』
桜の花びらがコンクリートの土台か何かに散っているのだから、季節は晩春である。風が吹くと花びらはいっせいに散る。コンクリートに散った花びらは、やがて雨に打たれて色と形をなくす。歌の中の〈私〉は、色褪せて形をなくした花びらの一枚一枚に花の盛りの幻を見る。惜春の歌であると同時に、失われてゆくものたちを惜しむ歌である。下句の「ひとひらひと/ひらのまぼろし」が句跨がりになっていて、「ひとひら」の反復がリフレインのように散り続ける桜の音的メタファーになっている。散る桜を詠んだ歌は数多いが、その中でも印象に残る歌だ。
鈴木晴香は1982年生まれ。穂村弘が選句をする雑誌「ダ・ヴインチ」の投稿をきっかけに作歌を始めたという。全3巻の『短歌ください』としてまとめられたこの投稿欄は多くの歌人を生み出した。第一歌集の『夜にあやまってくれ』は2016年に書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一巻として上梓された。『心がめあて』は2021年に出た第二歌集である。鈴木は一時フランスに在住し、パリ短歌会でも活動していたようだ。現在は「塔」の編集委員、「西瓜」の同人で、京都大学芸術と科学リエゾンユニットのメンバーだという。リエゾンとはフランス語で「つながり、連結」という意味。
さっそく何首かランダムに引いてみよう。
まだ君と出会わなかったいくつかの冬に張られていた規制線
思うよりずっと遠くにあるのかもしれない雨の流れ着く先
誰ひとり未来の記憶を持たないでラストオーダー訪れている
初夏も遅夏もずっと閉じているショコラトリーから始まる九区
ブランコに坐って君を待っている天動説が新しい夜
一首目の「君」は現実の、あるいは仮想の恋人だろう。君と出会う前の私の住む世界には規制線が張られていたという。規制線とは警察が立ち入り禁止の区域を示すために張り巡らせる黄色のテープのこと。これは〈私〉の心を縛り動けなくするものの喩だろう。〈私〉は「君」と出会うことで規制線から自由になったのだ。この歌にも「冬に張られて/いた規制線」という句跨がりがある。二首目、降った雨は地下に染み込み、排水路を通って川に流れ、やがては海に注ぐ。その行程は思ったより遠いものかもしれないという歌。字面通りに読んでもよいし、歌全体が短歌的喩だと読んでもよい。三首目、未来は字のごとくに未だ来ざるものだから、誰もそんな記憶は持っていない、ファミレスの座席に坐って飲食をしている私たちは、一瞬先すら見えない時間というジェットコースターに乗り合わせている乗客のようなものだ。そして気がつけば閉店の時刻が迫り、ラストオーダーを頼まなくてはならない。四首目はパリの歌。9区とはパリの右岸でガルニエ設計の旧オペラ座がある地区である。ショコラトリーとはチョコレート屋のことで、夏の間は店を閉めているところが多い。パリは緯度で言うと樺太くらいなので、夏でも30度を超すことは滅多にないが、それでも気温が高いのと、主要な客である富裕層がヴァカンスでパリから居なくなるためである。季節感と風物がうまく取り入れられた歌となっている。五首目、人気のない夜の児童公園でブランコに乗って「君」を待っている。恋人を待つ心は躍り、自分がいるこの地球が宇宙の中心だと感じられる。恋は地動説すら否定するのである。
「ダ・ヴインチ」の投稿欄やインターネットで短歌を始めた人たちの短歌には、いくつか共通する特徴がある。その一つ目は短歌を自分の心を盛る器と見なしている点だ。鈴木もその例外ではなく、自らの淋しい心、悲しい心、嬉しい心を歌にしている場合が多い。俵万智も『短歌をよむ』(岩波新書、1993)で、「短歌を詠むはじめの第一歩は、心の『揺れ』だと思う。どんな小さなことでもいい、何かしら『あっ』と感じる気持ち。その『あっ』が種になって歌は生まれてくる」(p. 86)と書いているのだから、そう考えている人は多いだろう。ただし公平を期するために付け加えておくと、俵は心の揺れが種となると言っているだけで、そこから短歌が生まれるまでには長い距離がある。「あっ」をポエジーに昇華させるには技術が必要なのは言うまでもない。それがアート (art) というものだ。
もうひとつの特徴は、近現代の短歌史から切れていることである。明治に始まる近代短歌やそれに続く現代短歌を読み、それを踏まえて自分の歌を作るということがほとんどない。近現代短歌運動は先行する世代の否定から始まる。「あんな歌はだめだ、私たちは新しい歌を作る」という運動が、モダニズム短歌や口語短歌や前衛短歌やニューウェーヴ短歌を生み出した。しかるに「ダ・ヴインチ」の投稿欄やインターネットで短歌を作る人たちには、先行世代の否定という考えはおそらくない。歌は個人消費されるに留まるのである。
断っておくがそれが悪いことだと言っているわけではない。短歌観は多様であってよいし、人には人それぞれの短歌との接し方がある。だからそのようなものとして読むということに尽きる。
ハイウェイの入り口かもしれない道を黙って進むときのアクセル
思い出は増えるというより重なってどのドアもどの鍵でも開く
薄闇に向かって開いている扉うまれてきた日を覚えていない
雨の日のロストバゲッジほんとうのところ失われたのはわたし
通読すると収録されている歌で最も多いのは、相手(君)に心が届かない、あるいは心がすれ違うという歌群で、その次に目に付くのは上に引いたように、自分が進むべき道を迷っているという歌群である。一首目ではさしかかった道が高速道路なのか自信が持てないのにアクセルを踏み込んでいる。二首目では誰かと過ごした日々がそれぞれ別の部屋のように記憶の中に保存されている。三首目では薄闇に向かって開いている扉がどこに続くドアなのかがわからない。それは誕生の記憶の欠落と対をなしているかのようだ。四首目は空港でスーツケースが行方不明になったのだが、実はロストなのは自分ではないかと顧みている。
奪うほどではない。冬の路上には麻酔の効いているような風
逆上がりもう永遠にしないだろう手のひらにまだ鉄の匂いが
小説を抱いたままで眠り込む白鳥を胸に乗せるかたちで
もうしばらく来ない世紀末のことを思うとき巡ってくる警備員
燃え尽きるまでが花火であるためにわたしたち青い夜の引き際
貯水池が雨を静かに受け入れるはじめからひとつだったみたいに
チョコレイト眠る冷蔵庫の中に贖罪のように白い牛乳
自転車は鉄パイプだと思うときその空洞に満ちてゆく海
記憶から滅んでゆくね指よりも多いアルファベットに触れて
特に印象に残った歌を引いた。とりわけ八首目「自転車は」では幻想の中で自転車のパイプの中に満ちる海が美しい。九首目の「記憶から」は、アルファベットに象徴される文字を獲得したヒトという種の悲しみを詠んだ歌である。無文字社会の人たちは驚くほど記憶力がよいという。文字を得ると書き留めておけば忘れてもかまわないため、文字と引き替えに私たちは記憶力を失った。こういう主題を詠んだ歌は珍しいので注目される。
最後に第一歌集『夜にあやまってくれ』から秀歌を一首引いておこう。
自転車の後ろに乗ってこの街の右側だけを知っていた夏