033:2004年1月 第1週 錦見映理子
または、白の世界に繰り広げられる極彩色の心象風景

蜜満ちてゆくガーデニア・ガーデンを
        等圧線は取り囲み 雨

       錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』
 歌集の題にもなっているガーデニアとはくちなしのことである。梅雨時に白い花を咲かせるくちなしは、むせかえるような甘い香りを放つ。特に雨のときに香りが立つようだ。そんなくちなしばかりが咲いている庭が、ガーデニア・ガーデンなのだろう。日本で屈指の肉体派作家の丸山健二が安曇野の自宅に独力で作り上げたすばらしい庭は、『夕庭』(朝日出版社)で美しい写真とともに紹介されているが、白い花ばかりが咲く白の庭園である。くちなしばかりが咲いている庭もまた、濃いグリーンと白しかないどこか禁欲的であると同時に肉感的な庭園だろう。その庭を低気圧の混んだ等圧線が取り囲み、雨が降っているという光景である。私たちの目に見えるのは、降っている雨だけで、等圧線は目には見えない。このように、錦見の歌には、本来ならば目に見えないはずのものが多く詠われている。そしてこのことは、作者の資質と深く関係しているように思われる。

 錦見は1968年生まれで、短歌結社には所属せず、最初はカルチャー・スクールなどに通って独学で短歌を作り始めたという。後に田島邦彦の主宰する「開放区」に投稿するようになった。短歌を作って6年とあるから、逆算すると始めたのは1997年頃ということになる。言うまでもなく『サラダ記念日』以後に短歌を始めた世代に属する。私が年代にこだわるのは、『サラダ記念日』は宝塚歌劇団における「ベルサイユのばら」に相当し、「ベルばら」以前からのファンと以後のファンの質が本質的に異なっているように、『サラダ』以前の歌人と以後の歌人のあいだには乖離があると感じているからである。これは短歌の世界における「世代論」なのだが、また別に書く機会もあろうから、ここでは書かない。

 『ガーデニア・ガーデン』は著者の処女歌集で、本阿弥書店の新しいシリーズであるホンアミレーベルの第一巻として出版された。栞には藤原龍一郎、田中槐、田島邦彦、井上荒野が跋文を寄せている。私が好きな歌が最初の方に集中しているのは、制作時期とは逆順の構成を取っているからである。つまり最初の方に出てくる歌ほど最近作られた歌だということである。歌集を一読して感嘆した。溢れる才能とはこのことを言うのだろう

 極彩の鳥を見にきて見ざるまま夕闇或る一語を放つ

 かの夜の水を閉じ込めすきとおるままに腐りてゆくまでを見よ

 手をあげて腋下をさらす 祝祭の前夜くまなく奪われるため

 サフランの花柱の浮かぶ黄の水 淡き妬心のにじみて甘し

 飲食の最後にぬぐう白き布汚されてなお白鮮(あたら)しき

 ひと昔前の文学批評にテマティック批評というのがあった。作品に繰り返し出現する主題・テーマを拠り所として作家の世界に迫るという方法論である。この方法論に倣うならば、錦見の作品世界に反復されるのはすぐれて視覚的な映像であり、とりわけ色彩である。一首目の極彩の鳥、四首目のサフランの黄色、そして五首目のナプキンの白が、それぞれの歌の核をなしている。なかでも特に白という色にこだわりがあるようだ。白の登場する歌を引いてみよう。

 白き魚そよぐ甘藻に分け入りて階段状の快楽に落ちる

 弥生町四丁目裏 純白の魚のひとたび跳ねるを見たり

 風葬のごとくしずかに白き花ながれて止まぬ園に逃れん

 かなしみはかなしみのまま中空に一艘の白き舟発たしめよ

 うたたねのあなたの足に射すひかり白蛇のようにゆっくりよぎる

 いま死んでもいいと思える夜ありて異常に白き終電に乗る

 すぐに気が付くのは、これらの歌に詠われているのは、私たちが日常目にする白い物体ではないという点である。一首目の白い魚は実在の魚ではなく、溺れていく快楽を表わす心象風景である。二首目の純白の魚が弥生町四丁目裏で跳ねているというもの、現実の出来事とは思われない。また五首目の白い蛇は光の比喩である。この謎を解く鍵は六首目にあるようだ。「異常に白き終電」とは、車体の外装が白く塗られているということではあるまい。暗い夜に電車に乗ると、車内の蛍光灯の照明が明るすぎて、露出過剰の写真のようにハレーションを起こしている状態であろう。栞の跋文で田中槐が指摘しているように、この真っ白な世界は錦見の想像のなかにある世界であって、ある時には快楽の頂点を、ある時には悲しみの果てを表わす記号的価値を帯びた象徴世界なのである。このように見えない世界を見えるように詠うところに、錦見の歌人としての資質が端的に現われている。

 錦見の短歌が描くもう一つの世界は、自我を忘れて没入するような官能的な境地である。

 草いきれはげしく息をふさぎくるくちづけ濃闇まみれの愛

 ぬるい息外耳にふれてヴェルヴェット・ヴォイスの渦にしずむ薔薇園

 熱性の病見えざるままに身を冒しつくすをうっとりと待つ

 口中に金魚の泳ぐ心地してかみ殺したくなるディープ・キス

 うねうねと動くくちびる蛭に似て吸いつきやすき窪みを探す

 草いきれを嗅ぐ嗅覚、息が外耳に触れる触覚、ヴェルヴェット・ヴォイスを聴く聴覚、金魚が跳ねる口内感覚など、感覚器官の五感をフル稼働させて、極めて身体感覚的な歌の世界を作り上げている。

 2003年5月に創刊された「短歌ヴァーサス」に寄せられた歌も印象に残るものが多い。

 林間に声ひとつあり 身のうちに酸を満たして落ちる果実の

 オキシフル泡立つ床に黒白(こくびゃく)のタフタのリボンしずかにほどく

 みすいろは蜜色やがてゆうやみが来ましたという文字は滲みて

 これからが楽しみな歌人というと、いかにも月並みな表現だが、『ガーデニア・ガーデン』の巻末あたりに配された初期の歌と、巻頭の近作を比較すると、歌人が長足の進歩を遂げたことがひと目でわかるだけに、今後の活躍が待たれるところである。

 


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