尖塔の建てられてよりこの街の
空は果てなき広さとなりぬ
香川ヒサ『PAN』
空は果てなき広さとなりぬ
香川ヒサ『PAN』
掲出歌は香川の特色である逆転思考をよく表わしている。塔が建てられる前と後で空は同じ広さである。物理的に考えれば空の広さが変化するはずがない。ところが塔が建てられることによって,空の広大無辺さと尖塔の先端の小ささの対比が生じ,私たちの物の見方に変化が生まれる。つまり,私たちが何かを「広い」と感じるのは,それと対比される「小さい」ものの存在が不可欠なのだ。香川はこのように「広さ」は空に帰属する性質ではなく,私たちの物の見方に依存することを示した。読者が一瞬虚を突かれるような,あるいは盲点を指摘されたようなこの「認識の更新」は,知的傾向の強い香川の短歌の特徴としてよく挙げられる。
香川は1988年に「ジェラルミンの都市樹」50首により角川短歌賞を受賞し,歌壇にデビューした。第一歌集『テクネー』,第二歌集『マテシス』,第三歌集『ファブリカ』,第四歌集『パン』,第五歌集『モウド』に至るまで,アルファベットか片仮名の題名である。今回は第四歌集『パン』を読んだのでこれを中心に論じてみたい。題名のPANとは,航空会社のPan Americanとか pantheism「汎神論」に使われているギリシア語源の接頭辞で,「全,汎」などを意味する。語の一部である接頭辞が歌集の題名になるのは珍しい。
上にも書いたように,香川の短歌は知的で思索的であると評されることが多い。たとえば,『現代短歌事典』(三省堂)の香川の項目(花山多佳子執筆)では代表歌として「一冊の未だ書かれざる本のためかくもあまたの書物はあめり」が引用されていて,「バラドックスに満ちた,作者の歌の典型例である」と締めくくられている。これもよく引用される「人あまた乗り合ふ夕べのエレヴェーター枡目の中の鬱の字ほどに」では,満員のエレベーターを「鬱」という字画の多い漢字になぞらえていて,発想のおもしろさという点で評価されることが多い。
確かに香川の短歌は人の認識の虚を突くようなものが多く,その点に注目が集まることもまたしかたのないことかもしれない。しかしそれは皮相な見方である。香川の独特な発想の根源はずっと広くて深いのである。
墓碑あまた並ぶを見るに名前こそ死すべきものの証しにあらめ
聖堂の丸天井を支へをり一挙に崩れるための力が
尖塔を目ざし石道歩きだし尖塔までの距離が生まれつ
はじめから本物ならず本物は本物となる偽物ありて
イカルガの声を何度か聞き止めた今日わたくしの見なかつたもの
一首目,立ち並ぶ墓碑に刻印された名前を見て,名前が必要なのは死すべきものであり,死なないものには名前が必要ないという。確かに死んで存在が消滅しても記憶に留まるためには名前が必要である。死なないものは永遠にそこに在るのだから,記憶を新たにする必要がなく,従って名前も要らない。二首目,聖堂のドームを支える力はいつか崩れるためにあるというのだが,これは現在の聖堂を見て遙か未来に廃墟になった姿を幻視しているのである。つまり,未来に視点を移動してその地点から現在を逆に見ていることになる。三首目,かなたにある尖塔までの距離は歩き出して始めて生まれるという逆転の発想である。物理的距離は最初から存在していても,私たちが実際にその距離を歩いて「長いなあ」と感じなければ,主観的には距離は存在しない。果して「距離」は対象に帰属する性質か,それとも観察し行動する主体に帰属するのか。これは永遠に続く唯物論と観念論の論争に他ならない。四首目,本物は初めから本物であるのではなく,世に偽物が出現して初めて本物となる。これまた眼からウロコが落ちそうな指摘で,言われてみれば確かにそのとおりである。ここで言われているのは,「本物」という属性はモノ自体に帰属するのではなく,他に比較される対象があって初めて「相対的に」張り付けられるラベルにすぎないということだ。
このように香川の短歌はまるでエッシャーの騙し絵のように,あるいはメビウスの帯のように,「視点のずらし」「図と地の反転」「時間の跳躍」「遠近感の逆転」などの技法を駆使して,私たちのふだんの世界の見方がいかに固定されているかを暴いてみせる。これが単なる頭の体操のような「知的な発想のおもしろさ」に留まるものではなく,もっと根元的な「世界の見方」に関わるものであることは,上に引用した五首目から明らかである。私はイカルガの声を聞いたがその姿は見なかった。この日常の些細な事実をもとにして,私の視線は「自分が見たもの」の僅少さから「自分が見なかったもの」の無限さへと彷徨いだす。これは「図と地の反転」の見事な例だと言えよう。この世界の圧倒的大部分は「私が見たもの」ではなく,「私が見ていないもの」から構成されているのだ。この事実を指摘されて衝撃を覚えない人はいないだろう。
香川自身が自分の方法論の背景について次のように述べている。
藤原龍一郎は『短歌の引力』所収の「ペシミズムの夕映え – 香川ヒサ」という文章で香川の短歌を論じ,その本質はペシミズムにあると喝破した。そしてこのペシミズムがどこに由来するかというと,それは香川においては「個」が常に「世界」と対峙しているからだという。藤原がこの文章を書いた当時,香川はまだ第一歌集『テクネー』,第二歌集『マテシス』までしか上梓していなかった。このふたつの歌集は比較的日常の場面に着想を得たものが多い。ところが第三歌集『ファブリカ』以後の香川の歌集は発想のスケール感を増し,まさに「個」と「世界」が対峙する様を描いており,藤原の批評はある意味で予言的ですらある。そう思わせるのは次のような歌である。
神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき 『ファブリカ』
人はしも神を創りき人をしも創りしといふ神を創りき
洪水の以前も以後も世界には未来がありぬいたしかたなく
神の手に返りし僧院王による破壊の後の廃墟となれば 『パン』
中空を流れゐる雲鯨にも鰐にも見えず何にも見えず
精神を持たない犬は身体を持つこともなし唯犬である
テーブルのグラスがグラスであることの証人としてわれ在りたぶん
香川の歌には一首目と二首目のように,単語を入れ替えただけのものがときどきある。どちらの歌も「神は人を創り,人は神を創った」という意味で主語がちがうだけである。つまりは神と人との相互規定性を述べたものだ。香川の歌に登場する「神」は決して信仰の対象ではなく,何のまちがいからかこの世を創ってしまった何物かの謂である。この世の成り立ちと行く末を考えるときに,「創り手」を想定しておいたほうが考えやすいという理由で勧請された神にすぎない。上に引用した歌のなかで特に注目されるのは,五首目・六首目である。空を流れる雲を何かに喩えて詠まれた歌は過去に数多い。香川はこれをキッパリ拒否する。「雲は何にも見えない」ということは,「雲は雲である」と言うのと同じことだ。つまり香川は,自然の事物や事象に人間的見方を過剰に投影する anthropomorphism を固く拒否するのだ。「人間的に汚れた見方で自然を見るな」と言っているのである。自然はただそこに在るだけなのだ。この「ただそこに在る」というのが『パン』の主調低音のひとつである。
六首目が述べているのはこういうことである。デカルト以来心身二元論が唱えられているが,それは人間を「精神」と「身体」に二分して考える思考法である。「精神」と「身体」とは全体を構成する補完的な対立概念である。しかるに犬は動物であり,故に精神を持たないとされている。ならばそれと相互補完的関係をなす身体も持たないということになり,犬は単に犬であるだけだということになる。極めて論理的で意外な結論だ。七首目は「自分はなぜこの世界にいるか」という根元的疑問を歌にしたものだが,それはグラスがグラスであることの証人としてだという。これもまた犬の例と同じように,「グラスをグラス以外のものとして見るな」ということなのだが,この歌はそれ以上のことも少し述べている。それは「世界」と対峙したときの〈私〉の在り様であり,〈私〉は存在の即自性の確認で足るとしているのだ。人間臭い余剰の切り捨て方の潔さにおいて,香川の右に出るものはなかろう。
香川の歌集には「日々の折々の歌」というものがない。『パン』には家族も職場も一切登場しない。「あなた」「君」という二人称もない。徹頭徹尾「個」が「世界」と向き合っている様があるだけである。この割切り方は清々しいが,これは共同体からの孤立を代償として実現されたものである。だから「個」は孤独にならざるをえない。『パン』に登場するのは人気のない廃墟と空と雲ばかりである。
聖堂の壁に積もれる千年の光を消して光降り来る
日照雨過ぎムーアの丘に虹立てり大洪水後いく度目の虹
果てしなく広がる空と草匂ふ墓地をつなげる光の量は
香川の短歌に一番よく似合うのは,見渡す限り荒れた岩と鈍色の海とパールグレーの空しか見えないスコットランド最北の風景だろう。
心配がひとつ残るとすれば,香川のペシミズムがニヒリズムに移行しないかという点である。「世界はただ在るだけだ」という命題と,「人間はただ生まれて死ぬだけだ」という命題との距離は意外に近い。さらにひと跨ぎして「生とは徒労である」へと駒を進めると,『楢山節考』の深沢七郎のニヒリズムに至り着くことになる。今のところ香川にはその徴候はないし,たぶんこの心配は杞憂に終わるだろう。次の歌が端的に示しているように,香川は be 「在る」という永遠の謎について最初から考え続けているのであり,考えている限り人はニヒリズムには陥らないからである。ニヒリズムに陥るのは思考停止した時なのである。
be動詞 難行苦行瞑想で越えられるやうなことではなかつた
香川は1988年に「ジェラルミンの都市樹」50首により角川短歌賞を受賞し,歌壇にデビューした。第一歌集『テクネー』,第二歌集『マテシス』,第三歌集『ファブリカ』,第四歌集『パン』,第五歌集『モウド』に至るまで,アルファベットか片仮名の題名である。今回は第四歌集『パン』を読んだのでこれを中心に論じてみたい。題名のPANとは,航空会社のPan Americanとか pantheism「汎神論」に使われているギリシア語源の接頭辞で,「全,汎」などを意味する。語の一部である接頭辞が歌集の題名になるのは珍しい。
上にも書いたように,香川の短歌は知的で思索的であると評されることが多い。たとえば,『現代短歌事典』(三省堂)の香川の項目(花山多佳子執筆)では代表歌として「一冊の未だ書かれざる本のためかくもあまたの書物はあめり」が引用されていて,「バラドックスに満ちた,作者の歌の典型例である」と締めくくられている。これもよく引用される「人あまた乗り合ふ夕べのエレヴェーター枡目の中の鬱の字ほどに」では,満員のエレベーターを「鬱」という字画の多い漢字になぞらえていて,発想のおもしろさという点で評価されることが多い。
確かに香川の短歌は人の認識の虚を突くようなものが多く,その点に注目が集まることもまたしかたのないことかもしれない。しかしそれは皮相な見方である。香川の独特な発想の根源はずっと広くて深いのである。
墓碑あまた並ぶを見るに名前こそ死すべきものの証しにあらめ
聖堂の丸天井を支へをり一挙に崩れるための力が
尖塔を目ざし石道歩きだし尖塔までの距離が生まれつ
はじめから本物ならず本物は本物となる偽物ありて
イカルガの声を何度か聞き止めた今日わたくしの見なかつたもの
一首目,立ち並ぶ墓碑に刻印された名前を見て,名前が必要なのは死すべきものであり,死なないものには名前が必要ないという。確かに死んで存在が消滅しても記憶に留まるためには名前が必要である。死なないものは永遠にそこに在るのだから,記憶を新たにする必要がなく,従って名前も要らない。二首目,聖堂のドームを支える力はいつか崩れるためにあるというのだが,これは現在の聖堂を見て遙か未来に廃墟になった姿を幻視しているのである。つまり,未来に視点を移動してその地点から現在を逆に見ていることになる。三首目,かなたにある尖塔までの距離は歩き出して始めて生まれるという逆転の発想である。物理的距離は最初から存在していても,私たちが実際にその距離を歩いて「長いなあ」と感じなければ,主観的には距離は存在しない。果して「距離」は対象に帰属する性質か,それとも観察し行動する主体に帰属するのか。これは永遠に続く唯物論と観念論の論争に他ならない。四首目,本物は初めから本物であるのではなく,世に偽物が出現して初めて本物となる。これまた眼からウロコが落ちそうな指摘で,言われてみれば確かにそのとおりである。ここで言われているのは,「本物」という属性はモノ自体に帰属するのではなく,他に比較される対象があって初めて「相対的に」張り付けられるラベルにすぎないということだ。
このように香川の短歌はまるでエッシャーの騙し絵のように,あるいはメビウスの帯のように,「視点のずらし」「図と地の反転」「時間の跳躍」「遠近感の逆転」などの技法を駆使して,私たちのふだんの世界の見方がいかに固定されているかを暴いてみせる。これが単なる頭の体操のような「知的な発想のおもしろさ」に留まるものではなく,もっと根元的な「世界の見方」に関わるものであることは,上に引用した五首目から明らかである。私はイカルガの声を聞いたがその姿は見なかった。この日常の些細な事実をもとにして,私の視線は「自分が見たもの」の僅少さから「自分が見なかったもの」の無限さへと彷徨いだす。これは「図と地の反転」の見事な例だと言えよう。この世界の圧倒的大部分は「私が見たもの」ではなく,「私が見ていないもの」から構成されているのだ。この事実を指摘されて衝撃を覚えない人はいないだろう。
香川自身が自分の方法論の背景について次のように述べている。
「日常生活は共同体の論理の中にある。そして気づかぬうちに,その論理の結果を普遍的なものとみなすようになり,見えるものさえ見えなくなっている。その中にある限り何を言おうと,だれもが楽しめる程度の差異を生むだけであり,それはすぐに共同体の承認を得る。」(現代短歌『雁』14号)このような共同体が是とする物の見方から出来る限り身を引き剥がすこと。これが香川の戦略であり,このような戦略を採る人は例外なく孤独な道を歩むことになる。香川の短歌に時として醒めた孤独感が漂うのはこのような理由からである。
藤原龍一郎は『短歌の引力』所収の「ペシミズムの夕映え – 香川ヒサ」という文章で香川の短歌を論じ,その本質はペシミズムにあると喝破した。そしてこのペシミズムがどこに由来するかというと,それは香川においては「個」が常に「世界」と対峙しているからだという。藤原がこの文章を書いた当時,香川はまだ第一歌集『テクネー』,第二歌集『マテシス』までしか上梓していなかった。このふたつの歌集は比較的日常の場面に着想を得たものが多い。ところが第三歌集『ファブリカ』以後の香川の歌集は発想のスケール感を増し,まさに「個」と「世界」が対峙する様を描いており,藤原の批評はある意味で予言的ですらある。そう思わせるのは次のような歌である。
神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき 『ファブリカ』
人はしも神を創りき人をしも創りしといふ神を創りき
洪水の以前も以後も世界には未来がありぬいたしかたなく
神の手に返りし僧院王による破壊の後の廃墟となれば 『パン』
中空を流れゐる雲鯨にも鰐にも見えず何にも見えず
精神を持たない犬は身体を持つこともなし唯犬である
テーブルのグラスがグラスであることの証人としてわれ在りたぶん
香川の歌には一首目と二首目のように,単語を入れ替えただけのものがときどきある。どちらの歌も「神は人を創り,人は神を創った」という意味で主語がちがうだけである。つまりは神と人との相互規定性を述べたものだ。香川の歌に登場する「神」は決して信仰の対象ではなく,何のまちがいからかこの世を創ってしまった何物かの謂である。この世の成り立ちと行く末を考えるときに,「創り手」を想定しておいたほうが考えやすいという理由で勧請された神にすぎない。上に引用した歌のなかで特に注目されるのは,五首目・六首目である。空を流れる雲を何かに喩えて詠まれた歌は過去に数多い。香川はこれをキッパリ拒否する。「雲は何にも見えない」ということは,「雲は雲である」と言うのと同じことだ。つまり香川は,自然の事物や事象に人間的見方を過剰に投影する anthropomorphism を固く拒否するのだ。「人間的に汚れた見方で自然を見るな」と言っているのである。自然はただそこに在るだけなのだ。この「ただそこに在る」というのが『パン』の主調低音のひとつである。
六首目が述べているのはこういうことである。デカルト以来心身二元論が唱えられているが,それは人間を「精神」と「身体」に二分して考える思考法である。「精神」と「身体」とは全体を構成する補完的な対立概念である。しかるに犬は動物であり,故に精神を持たないとされている。ならばそれと相互補完的関係をなす身体も持たないということになり,犬は単に犬であるだけだということになる。極めて論理的で意外な結論だ。七首目は「自分はなぜこの世界にいるか」という根元的疑問を歌にしたものだが,それはグラスがグラスであることの証人としてだという。これもまた犬の例と同じように,「グラスをグラス以外のものとして見るな」ということなのだが,この歌はそれ以上のことも少し述べている。それは「世界」と対峙したときの〈私〉の在り様であり,〈私〉は存在の即自性の確認で足るとしているのだ。人間臭い余剰の切り捨て方の潔さにおいて,香川の右に出るものはなかろう。
香川の歌集には「日々の折々の歌」というものがない。『パン』には家族も職場も一切登場しない。「あなた」「君」という二人称もない。徹頭徹尾「個」が「世界」と向き合っている様があるだけである。この割切り方は清々しいが,これは共同体からの孤立を代償として実現されたものである。だから「個」は孤独にならざるをえない。『パン』に登場するのは人気のない廃墟と空と雲ばかりである。
聖堂の壁に積もれる千年の光を消して光降り来る
日照雨過ぎムーアの丘に虹立てり大洪水後いく度目の虹
果てしなく広がる空と草匂ふ墓地をつなげる光の量は
香川の短歌に一番よく似合うのは,見渡す限り荒れた岩と鈍色の海とパールグレーの空しか見えないスコットランド最北の風景だろう。
心配がひとつ残るとすれば,香川のペシミズムがニヒリズムに移行しないかという点である。「世界はただ在るだけだ」という命題と,「人間はただ生まれて死ぬだけだ」という命題との距離は意外に近い。さらにひと跨ぎして「生とは徒労である」へと駒を進めると,『楢山節考』の深沢七郎のニヒリズムに至り着くことになる。今のところ香川にはその徴候はないし,たぶんこの心配は杞憂に終わるだろう。次の歌が端的に示しているように,香川は be 「在る」という永遠の謎について最初から考え続けているのであり,考えている限り人はニヒリズムには陥らないからである。ニヒリズムに陥るのは思考停止した時なのである。
be動詞 難行苦行瞑想で越えられるやうなことではなかつた