第209回 高石万千子『外側の声』

測量士冬に来たりかぎりなき雪上に紙上の文字を重ぬる
高石万千子『外側の声』
  世に「伝説の人」もしくは「生ける伝説」という人物が実在するとすれば、おそらく高石万千子がその名にふさわしいのはまちがいない。年譜によれば、高石は1929年(昭和4年)生まれで、1951年(昭和26年)の「未来」創刊に参加したとある。
 『現代短歌事典』(三省堂)を繙くと、確かに歌誌「未来」は1951年に、世田谷区にあった清水建設社宅内の近藤芳美宅を発行所として創刊されたと書かれている。参加したのは「ぎしぎし」「フェニキス」「芽」「環」などの同人誌に属していたアララギ系の若手と、「新泉」「羊蹄」「九州アララギ」などのアララギ系の地方誌の人たちだったという。出発当初はアララギの中の同人誌的性格が強かったようだ。高石は出来上がった歌誌「未来」を束ねて発送のため郵便局に運んだという。また慶応義塾大学医学部卒業間近の岡井隆を見かけたことがあるというではないか。まさに生ける短歌史である。
 高石にはすでに『旅の対位法』(1982年)、『美しい擬名詞』(1995年)の二冊の歌集がある。『外側の声』は2017年に六花書林から上梓された第三歌集である。しかし事情はもう少し複雑で、どうも本歌集では一章とされている「アンフォルメル」と「アンブレラ」は2008年と2009年にかいえ工房から少部数の私家版の歌集として出されているようだ。今回はそれらをまとめ直し新しい作品も加えて『外側の声』としたのだろう。
 序文を岡崎乾二郎という人が書いているので、誰だろうと思い調べてみたら、四谷にあった近畿大学アート・ストゥディウムという美術学校の主宰をしていた人らしい。高石はここで学ぶかたわら、大学の公開講座やカルチャースクールで哲学を学んだ経歴を持つ人である。
 そんな高石の詠む歌はひと言で言えば「哲学的思想詠」と言ってよかろう。
人棲まぬ図書館の灯のさいさいと差異の家族の棲むところまで
夕かげを堰き止めて待つあのあたり擦れちがひしか意味と出来事
旅の謂やさしけれども意味流れ「肯定装置」となりて乾けり
セクシュアリテかすかに傾斜するあたりちがふちがふとフーコーの声
少しづつ驚けよ美的持ち物になるまで家に三人みたりの女
 一首目、確かに図書館には人は住んではいない。本を読んだり借りたりする場所である。「さいさいと」はオノマトペだが、それが言葉遊び的に「差異」を引き出す。「差異」は構造主義とポスト構造主義思想のキータームである。高石は大学の講座などでフランスの思想家ジル・ドゥルーズを学び傾倒しているのだ。二首目では情景描写の中に突然挿入された「意味」と「出来事」という硬質の語が目立つ。思想詠にはしばしばこのような抽象語が用いられる。三首目、「旅」は高石にとって重要なもののようだが、人が旅行について語るとき、その言はしばしば「あそこはよかった」「あそこはきれいだった」と手放しの賛美に終わりがちである。「乾けり」に批評性が感じられる。四首目のフーコーはフランスの構造主義思想家のミシェル・フーコー。フーコーは著書『性の歴史』においてセクシュアリティーという概念を提唱した。五首目の「美的持ち物」は、恋人あるいは妻として男性の所有物となりがちな女性の立場を批判的に詠んだものだろう。なべて情よりは知に傾いた歌である。
 試しに『角川現代短歌集成』第4巻「社会文化詠」を見ると、中に「思想」が立項されている。しかし中身を見てみると、そこに収録されている歌は「革命」「デモ」「ゲバ」「主義」「シュプレヒコール」「党」などを詠んだ歌で、「思想」とは左翼思想のことだとわかる。これは高石の歌に充満している「哲学」とはいささかちがう。高石のような哲学的思索を詠む歌は珍しいのではなかろうか。
 勢い高石の歌は日常詠、身辺詠から限りなく遠ざかることになり、歌の中に生身の〈私〉が登場することはほとんどない。写実を重んじるアララギ派の「未来」に拠る歌人としては異例だろう。もっとも「未来」は岡井隆を中心とする前衛短歌の実験場となったのだから、それほど不思議なことでもないのかもしれない。高石自身も集中で、「日ぐれとも夜明けまへとも薄明かり掴みたい新しい私性わたくしせいを」と詠んでおり、従来の生活者としての個人へと収斂する私性とは異なる〈私〉の位相を模索しているのだろう。
 岡井隆にも「楕円しずかに崩れつつあり焦点のひとつが雪のなかに没して」という硬質の抽象語を用いた歌があるが、このような歌を読むときには、いたずらに歌の中に〈私〉すなわち作者に投影を探そうとせず、日常的な歌語と硬質の抽象語が一首のなかでこすれ合うことによって発生する熱を感じ取り、その傍ら言葉の意外な組み合わせを発条とする想像力の飛躍を味わうのが正しい読み方だろう。
聖橋たぶん後ろからあらはれしアンフォルメルの人手をにぎるかな
なぜなぜと思へば想ふ灰色のコギト・エルゴ・スムのま裸
曼珠沙華はなの終焉をはりののち萌ゆる「潜在性」へ庭へ水撒く
 お茶の水は作者にとって親しい場所のようだ。「アンフォルメル」はフランス語で「無定形」を意味する。「アンフォルメルの人」は「アンフォルメル絵画を描く人」のことだろう。「コギト・エルゴ・スム」(Cogiot ergo sum)は、デカルトの「我思う故に我あり」。「灰色」は脳細胞のことだろう。曼珠沙華の花が散ったということは、次の季節にまた咲くという潜在性の始まりでもある。
 「アンブレラ」の章では一首の歌を4行や5行に分かち書きしてページに配する空間的試みも行っている。
ベランダの
 ラビリントスの夏野菜に
  蝶?
   たましひか
    小さきアンブレラ落つ

花摘みてピレネー越えしやベンヤミン
あ、 
アレゴリー
か、
鞄の中身
 蝶はギリシア語でプシケーだがそれはまた「霊魂」を意味することが踏まえられている。「花摘みてピレネー越えしやベンヤミン」はまるで一句の俳句のようでもある。これまた歴史的事実を踏まえてある。
 最後に集中屈指の美しい歌を引いておこう。
通過する駅流れ語り得ぬままに沈黙の美しさ冬いちご手に
 「語り得ぬままに沈黙」あたりにウィットゲンシュタインの亡霊も感じるが、そんな姑息なことは抜きにしても、韻律といい明滅するイメージといい美しい歌である。