月草のうつろふ時間たぐり寄せたぐり寄せつつゆく京の町
黒田京子『揺籃歌』
あとがきによれば黒田が短歌に手を染めたきっかけは、伊藤園が募集する俳句大賞だったという。ある日、缶入りのお茶を手にしたら、缶の表に俳句が印刷されていた。それを見て自分でも作ってみたいと思ったという。それから短歌講座に通うようになったらしいが、なぜ俳句に触発されて短歌に行ったかというと、単純に十七字より三十一字のほうが表現できそうに思ったからだという。恐ろしいことである。黒田は藤井常世の短歌講座に通い、藤井の主宰する「笛の会」に入会。それ以来「笛の会」を中心に活動している。短詩型文学との出会いは思いがけない所にころがっているものだ。
あらためて調べてみると、藤井常世の父君は折口信夫門下の国史学者の藤井貞文で、藤井常世の弟は国文学者・詩人の藤井貞和とある。それは知らなかった。私は日本語文法の研究もしていて、藤井貞和の本にはお世話になっている。なかでも『日本語と時間』(岩波新書)は名著である。
『揺籃歌』は2018年に六花書林から刊行された黒田の第一歌集で、跋文は「笛の会」の難波一義が書いている。黒田は難波に「私の歌を歌集にまとめて読んでもらう価値がありますか」と何度もたずねたという。こういう心がけから生まれた第一歌集は初々しい。文体は端正な文語定型で、藤井常世からは情念の世界は学ばなかったとみえる。
短か日の日暮華やぐひとところ露天商人〈とちおとめ〉売る
少年の蹴る缶の音冬空に高くひびくを我は聴きをり
ふくらめる胸を羞しみ我のこと僕と呼びにき少女期われは
指先に残る蕗の香エプロンに拭ひつつ思う古きノラのこと
薄ら日も届かざる隅さみし気なひと木にあをく芽の尖りをり
一首目、「短か日」なので夕暮れが早い冬の日だ。次第に物が色を失ってモノトーンとなる刻限である。そんななか路上で苺を売っている。その一角だけが苺の赤色で華やいでいる。色彩感覚が鮮やかな一首だ。二首目、黒田の歌にはよく少年少女が登場するのだが、それは現実の男子女子ではなく、追憶と憧憬の中に形象化された存在のようだ。この歌の季節も冬だ。少年が一人で缶蹴りをしている。そのカーンと響く音を聴いている。そこには「私はもう少年少女の年齢ではない」という思いがある。三首目、今ではマンガの影響もあって、少女が自分を「僕」と呼ぶのはごく普通になった。少女期の作者は自分の女性性に違和感を感じていたのだろう。四首目は厨歌だ。台所で蕗の皮を剥いている。蕗の皮を剥くと指先が黒ずみ蕗の強い香りが手に移る。嗅覚は記憶を刺激する。作者が思い出しているのはイプセンの『人形の家』の主人公ノラである。ノラは男性に従属しない新時代の女性だ。作者は女性の置かれた社会的立場にも違和感を抱いているのだろう。五首目、日のあまり当たらない隅にある庭木にも新芽が芽吹いているのを見つけるという春隣の歌で、弱者への優しい眼差しを感じさせる。自分の見たことや想い・想像を適切な言葉に落とし込んで歌にする技量には確かなものが見受けられる。
個性を感じさせる歌を少し見てみよう。
なよらかに揺れつつ芯のかたきまま風の星座に我は生まれて
見た目にはやはらかさうな山茱萸の触れて知りたるその実のかたさ
曖昧に笑ふ術もて生きむとす煮ゆるかぶらの黄味がかる白
媚ぶることを覚えし日より違和感を感じそめたる我が口の中
輪の中にあらば易きか カンナ黄色き焔を放つ
群れゆくは息苦しきか一羽二羽群れを離るるひよどりの見ゆ
一首目、風の星座とは双子座、天秤座、水瓶座をいう。ホロスコープによる性格診断は知らないが、作者には自分の中にはかたくなな所があると感じている。付和雷同を嫌って周囲に同調せず、徒党を組まず孤立を恐れない。そういう性格である。だから二首目のように山茱萸の実の硬さに自分を投影してしまう。三首目では不本意ながら曖昧に笑ってごまかす自分が、蕪の真っ白ではなく黄味がかった曖昧な白に投影されている。五首目では黙って輪の中に入れば生きやすいと感じつつも、作者の心の中にはカンナの如き激しい火が燃えるのだ。この歌は珍しく字足らずの破調になっている。案外激しいものを内蔵している人かもしれない。六首目の群れを離れるひよどりも言うまでもなく作者の分身である。
作者には子供がいない。そのことをめぐる想いの歌がある。
子のなきも欠けたるひとつ母となる勇気持てずに我は生き来し
どくだみが十字を切りて迫りくる我に母性の兆したるとき
かたはらに眠れる吾子を持たざればうたふべし 我がための揺籃歌
線路沿ひの家の窓辺にプーさんの黄色い背中が大きく見える
いのちあまた生まるる季節うまざるを選びし我の生受けし春
いちじくを漢字に書きて物思へば天使降り立つごとき夕影
四首目、通勤電車の車窓から沿線の民家を眺めると、窓際にくまのプーさんの縫いぐるみが置いてある。子供のいる家なのだ。六首目、いちじくを漢字で書くと無花果、すなわち花なくして実る果実となる。花がなければ交配ができず子孫を残せない。夕暮れに降り立つ天使は受胎告知の大天使ガブリエルか。それでも作者は三首目のように、子守歌を歌う子がいなければ自分に向かって詠うと気丈に心を立て直すのである。ここへ来て歌集題名の「揺籃歌」は「ララバイ」と読んでほしいと知れる。
作者にも思う人はあるがどうやら片恋のようである。
かくまでも我に近くて遠ききみ幼なじみは哀しきものを
きみの〈今〉を我は知りたし少年と少女の日々を懐かしむより
逢ひたし戻りたし きみと町思ひかもめ見てゐる山下埠頭
このようにいろいろな主題を歌にしている作者だが、歌集一巻を通読して改めて感じるのことは、短歌に滲み出るのは〈時の移ろい〉だということだ。たとえば冒頭の掲出歌「月草のうつろふ時間たぐり寄せたぐり寄せつつゆく京の町」は自分が生まれた京都を再訪した折の歌である。「ちちははに我の生まれて家族といふかたち整ふ 京都市左京区」という歌もある。作者は長女で初めての子なのだ。「月草の」は「うつろふ」にかかる古語の枕詞。作者は子供の頃の記憶を辿って京都の町を歩いている。しかし建物は建て代わり昔の面影のない場所もある。それを記憶の海をたゆたうように記憶をたぐり寄せるのだ。またすぐ上に引いた片恋の歌にも、戻しようもなく経過した時間が深く刻印されている。〈時の移ろい〉は短歌の一番奥底に仕舞われた核のごときものかもしれない。
最後に特に好きな歌を挙げておこう。
モディリアーニのくらき妻の顔泛び出づ黒き細身の傘閉づるとき
バジリコのひと葉に落つる花の影晩夏のひかり衰へゆかむ
冬の川流れゐるべし夜深くバカラグラスに水を満たせば
銅色を帯ぶるみづきのわかき葉に流るるごとくあをき葉脈
一首目、35歳の若さで世を去った薄幸の画家モディリアーニの妻ジャンヌ・エピュテルヌはモディリアーニの死の2日後に投身自殺している。細身の傘を閉じるときにふいにその顔が脳裏に浮かんだという歌だ。写真に残るジャンヌの黒い服からの連想と思われる。二首目、三首目の、バジリコと晩夏の光、バカラグラスと冬の川の清冽な水の組み合わせにも、色彩と光の取り合わせが感じられる。四首目の遠くからズームインして虫眼鏡レベルの映像で終わる描写も印象的である。