061:2004年7月 第3週 ひぐらしひなつ
または、足を折るきりんの世界はしずかに崩れてゆく

フィルムに風をとどめて三脚は
      しずかに倒れる春の渚に

         ひぐらしひなつ『きりんのうた。』(BookPark)
 まだ春浅い海辺で写真を撮っているのだろう。春とはいえ風はまだ冷たい。三脚を使っての撮影だから、かなり本格的な撮影か、セルフタイマーを用いての本人を含めたスナップ写真と思われる。しかしシャッターが切れる瞬間に、三脚は風に煽られたのか、ゆっくりと静かに倒れていく。この「ゆっくりと静かに」というのがポイントである。カメラのレンズは撮すべき人物から逸れて、虚しく蒼穹を印画紙に定着する。写真に写っているのは春浅い空を吹く風ばかりである。ここはやはり撮そうとしたのは〈私〉と恋人で、セルフタイマーを使ってふたりの記念写真を撮ろうとしたのだと解釈したい。カメラのレンズがふたりから逸れて行くというのは短歌的喩であり、これからのふたりの関係が壊れて行くことを暗示している。現実において三脚が倒れるのは一瞬の出来事なのだが、それをまるでスローモーションのように無音の世界において描いており、この喩よって私たちに差し出される世界の崩壊感覚は、静かなだけにいっそう印象的である。ひぐらしの短歌を特徴づけるキーワードは、この「静かな崩壊感覚」だと言ってよい。それは「ももいろひとさしゆび」と題された章の冒頭の詞書きに明らかに示されている。

 芽吹くものが平衡を狂わせてゆく。
 絢爛と壊れながら、ぼくたちは何を見ていたのだろう。

 この「静かな崩壊感覚」は、次のような美しい歌群にとりわけ顕著である。

 ヴィヴァルディの春奏でつつ駐車場七階から墜ちるメルセデス

 グラスから矢車草は抜き取られわたしがしずかに毀れはじめる

 木漏れ日を吸い込むたびにゆるやかに崩れていった爪のさきから

 あたたかな雨が鎖骨を濡らす日はむかし滅んだ国の話を

 不眠症の駱駝の睫毛を震わせて異国の闇に燃え尽きる星

 特に一首目の、CDプレーヤーからヴィヴァルディの『四季』を大音量で流しながら、ゆっくりと駐車場ビルの上の階から墜ちて行くメルセデスというイメージは鮮烈である。それは絢爛たる崩壊であり、壮絶な蕩尽でありながら、奇妙に静謐な美しさを湛えている。私の知る限り、駐車場から墜落するメルセデスが短歌に詠まれたことは一度もないのではなかろうか。

 ひぐらしは1967年生まれ。プロフィールによれば、広告代理店勤務を経て、現在はフリーライターでドラム奏者でもあるという。注目すべきはひぐらしの詩的活動は、最初からインターネット上で行なわれたという点である。パソコン通信アサヒネットの歌会で短歌を作り始め、現在は「ラエティティア」を活動の場としている。『きりんのうた。』は荻原裕幸らの「歌葉」プロジェクトのプロデュースでオンデマンド出版された著者第一歌集である。その出自からして生粋のネット歌人だと言ってよいだろう。

 歌集のあとがきはおもしろい。殊にそれが処女歌集の場合は、作者も初めて自分の歌集が世に出ることに感慨ひとしおであり、驚くほど率直な内面の吐露が見られることがある。第一歌集のあとがきから韜晦をかましたり、読者を煙に巻くようなことをするのは、よほどの筋金入りのへそ曲がりである。

 ひぐらしのあとがきは「いつも雪が降っていたような気がする」という一文で始まる。もちろんこれは北海道に住んでいたというようなことではなくて、ひぐらしの心象風景であることは言うまでもない。ひぐらしは続けて、「ただ椅子に腰かけて、音も色もない世界をじっと見ていた」という。ここからまず、ひぐらしは世界を自身の心象風景として見る人であることがわかり、そこから生まれる短歌もまた作者の心象風景だろうという推測が成り立つ。これはひぐらしの作る短歌が、写実主義(アララギ派)や生活実感派の重んじる「素材主義」や「日々の思い」とは対極的な地点に成立するものだということを意味している。

 同じくあとがきによれば、ひぐらしの心象風景はある日「突然色づき」、音や色や臭いといったものが一斉に押し寄せて来たという。自分を世界から隔てていた堰がある日決壊したのである。しかし、本人はいまだに「うまくやれなかった自分」を意識しており、「人並みのしあわせ」の枠からはみだしてしまった自分を感じている。そんな自分にとって「一度は失いかけた自我の奪還を目指して」走る伴走者として短歌があったという。

 これはとてもよく出来た物語である。ここで「物語」という用語を使うのは、それが「作り話」だとか「自己劇化」だとか言っているのではない。なぜなら誰もが自分の「物語」を切実に必要としているからであり、誰にとっても「物語」は自分がこの世界にある理由を根拠づけるものであると同時に、ときに希望を未来に向かって投射する梃子だからである。ひぐらしに関して言えば、ひぐらしの作る短歌が上のような物語を基盤として成立しているということが重要なのである。だから、この歌集には言葉遊びのように記号をもてあそぶ歌が一首もない。短歌はひぐらしにとって楽しい遊びではないからである。また現実の出来事をそのまま詠んだ歌もひとつもない。現実の出来事はそのままでは何の意味を持たないからである。また次のように、一首のなかで自己を相対化し、自分で自分を距離を置いて見つめるような歌もない。

 高野(あいつ)にはちよつと優しくしてあげて飲ませてごらんあつぱらぱあとなる 
                     高野公彦『水苑』

 高野氏を離れて一夜(ひとよ)憩ひをる背広と靴と鞄、眼鏡ら

 このような自己相対化は、長らくこの世に生きてきた人にだけできるオジサン芸なので、若い人には無理だろう。

 このようにひぐらしの短歌世界は、自分を詠ったものではなく、自分と世界の関係を詠ったものでもなく、ひたすら自己の心に映じた心象風景を詠ったものなのである。ではその心象風景とはどのような色に彩られているか。先に「静かな崩壊感覚」というキーワードを使った。それ以外に目につくのは「未遂のもたらす不全感」である。

 組みかけの模型なくして湖のほとりに立てば深まるみどり

 「さよなら」の「ら」を鳴らせずにこときれたオルゴールからこぼれる明日

 読みかけの新潮文庫を閉じるときあのはつなつの開脚前転

 届かない小石は水面に落ちたままあなたのかたちを知るためのゆび

 あかまつの林に入れば描きかけの画帳が風に捲れるばかり

 春の星座になりそこなった白熊が眠るよ春の星座の下で

 模型は永遠に「組かけ」であり、オルゴールは最後の旋律を鳴らすことなく停止する。新潮文庫は読みかけであり、向こう岸に向けて投げた小石は届かない。画帳は書きかけのまま林のなかに置き忘れられ、白熊は星座になりそこなって眠るのである。この「未遂のもたらす不全感」は、ひぐらしの描く心象風景をほろほろと崩れるショートケーキのように、透明であると同時にはかなくせつないものにしている。

 ここでひとつ押さえておかなくてはならないことがある。ひぐらしの描く心象風景は、「わたしたちはなんて遠くへきたのだろう四季の水辺に素足を浸し」と詠った佐藤りえ(『フラジャイル』風媒社)の描く世界と、一見似ているようで実は微妙にちがうという点である。栞文で香川ヒサが的確に分析しているように(香川ヒサはいつでも論理的で的確である)、佐藤がバブル崩壊の90年代に歌人として出発したことが作品を決定づけており、佐藤の描く世界に充満する喪失感と無力感は、バブル崩壊後の失われた10年という時代情況を背景としている。ところがひぐらしの心象風景に満ちている崩壊感覚と不全感は、時代から来るものではなくもっと個人的であり、自分の心のなかの傾いた暗がりに端を発するものなのである。

 この点がひぐらしの作る短歌の位相を決定づけているようだ。なぜならば時代情況からは目を逸らすこともできるし、場合によっては時代に逆襲をかけることだってできる。人は時代情況に全的に規定される存在ではないからである。しかしひぐらしの方は自らの心象風景に満ちる崩壊感覚と不全感から逃れることはできない。それは自分を取り巻く時代情況という外部にあるのではなく、自分の内部にあるからである。だからひぐらしの作る歌は100%すべてが、〈私〉の内部の喩であるといってよい。

 文体について一言述べると、ひぐらしの短歌は口語定型である。俵万智以後燎源の火のごとく広まったライトヴァースは口語定型が基本なのだが、ひぐらしの歌はそのようなライトヴァースとははっきりと一線を画している。ひぐらしの歌を他の口語ライトヴァース短歌と並べてみればすぐわかる。 

 きんのひかりの化身のごとき卵焼きを巻き了へて王女さまの休日  山崎郁子

 コンビニの袋に入れて持ち帰る賑やかな孤独ポテトチップスの  杉山理紀

 自転車をこぐスピードで少しずつ孤独に向かうあたしの心  加藤千恵

 ケータイの普及のおかげで突然に女便所で振られた私  柳澤真実

 膝を折るきりんの檻に背をつけて雨より深いくちづけをして ひぐらしひなつ

 山崎の「きんのひかりの化身のごとき」は喩だが、それは「卵焼き」をにかかる直喩であると同時に、過剰の時代であった80年代の気分を一般的に表わす隠喩にすぎない。杉山の「コンビニの袋に入れて持ち帰る」「ポテトチップス」は「孤独」の喩であるが、それはささやかな感覚であり明日には解消されるものだ。加藤の「自転車をこぐスピードで」もまた、孤独に向かう心の喩ではあるが、これは単なる比喩であり、ひとつの世界を立ち上げるような短歌的喩ではない。ひぐらしの「膝を折るきりんの檻」はそのイメージの結像力のレベルがちがう。ひぐらしの心象風景の世界を立ち上げる喩であり、一首はこの喩を梃子として日常の世界から離陸するのである。

 最後に心に残った歌をもう少しあげておこう。

 骨と骨つないでたどるゆるやかにともにこわれてゆく約束を

 心音はいつか途切れてゆうぐれの湖底を滑るぎんいろの魚

 膝がしら並べていたねゆるしあう術もないまま蝶を飛ばせて

 夜の河に金魚を放つ今つけたばかりの名前をささやきながら

 ゆるやかに漕ぎ出す舟は河口へと着く頃しずかに燃え尽きるだろう


ひぐらしひなつのホームページ Very Very WILD HEART