近頃とんと見かけぬ物のひとつに電話ボックスがある。言うまでもなく携帯電話の普及のせいである。喫茶店に置かれていたピンク色の公衆電話ももう見かけない。若者は電話すらしなくなり、ラインでメッセージを交換している。今、都市の空中には無数の不可視のラインのメッセージが飛び交っているのである。掲歌では工場の前に電話ボックスがある。昔は工場で働いている工員が、昼休みに出て来て電話をかけることもあったろう。しかしもう今では使う人もおらず、廃兵のごとく立っている。
近代短歌は抒情詩であり、〈私〉の表現である。歌に描かれているものはすべて〈私〉の眼を通したものであり、その意味においてすべては〈私〉の表現の一部である。なかんずく短歌で喩は、意味をずらし二重化するレトリックとして多用されていて、そこに〈私〉が最も色濃く出る。逆にいうと〈私〉を出したくなければ、喩を封印すればよいのである。使われていない電話ボックスに「廃兵のごとく」という直喩を用いるということは、自分を廃兵と認識していることを意味する。とてもわかりやすい歌だ。この認識が作者山田のベースラインである。
山田は1950年生まれだからはや67歳になる。戦後のベビーブーマー、全共闘世代のわずかに下の世代に属する。第一歌集『アビー・ロードを夢見て』(1990年)で現代歌人協会賞、第二歌集『羚羊譚』(2000年)で寺山修司短歌賞と短歌四季大賞を受賞している。『商品とゆめ』は第二歌集から実に17年を経て上梓された第三歌集に当たる。1ページに3首配されて全部で253ページある。目次や中扉の分を引いて230ページとすると、690首程度は収録されているぶ厚い歌集である。
一読して通奏低音のごとくに浮かび上がるテーマは、「時の流れの早さ」「消費社会への痛烈な批判」「地方都市の衰退と老齢化」「世界の悪への怒り」そして「死への予感と希求」だろう。
あとがきによると、山田は今から30年前に東京を去って、故郷の新潟市ではなく新発田市に居を定めたという。「東京を後にした地方出身者の目」がそこにある。
ホワイトノイズ絶えずささやきかけてくる首都のねむりの時に恋しも
東京へ来て何をする声を聴く氷のしたの気泡のこゑを
灼熱の痛みをこらへ春雨のふる聖橋こえしもはるか
時雨にはかをりがあるが東京に降るのは冬の雨足す埃
一首目はバックグラウンドノイズが絶えることのない首都の夜を懐かしむ歌。二首目は上京して間もない頃を回想して詠んだ歌だろう。三首目、聖橋はお茶の水にある神田川にかかる橋。四首目は東京の雨の香りのなさを詠んだもの。
地方に暮らし自然と親しむ生活を送るのは、都市生活者にとっては憧れかもしれない。しかし山田が地方での生活を選択したのは、東京の余りに早すぎる時間の流れと留まるところを知らない消費社会に抵抗するためだと思われる。
効率を追つてここまで来しわれらわれらの子供植松聖は
商業主義いなごのごとく侵入し食ひ尽すらしわれらの魂を
パルコまだ御洒落なビルでありし日のある朝硫黄の臭ひ漂ふ
焼成のすめば手遅れ精神を低温で焼くサブカルチャーは
超高層の代表取締役室のがらすをやぶる礫あるべし
ジャズ喫茶デューク盲腸のごとくにて雪ひひとふる石川小路
一首目には「津久井やまゆり園、19人死亡26人負傷」という詞書きが添えられている。記憶に新しい衝撃的な事件である。犯人の植松は経済効率を至上の目標としてきた私たちが生み出した子供だと山田は言っている。二首目ははっきりと商業主義に対する敵意を表明したもの。三首目、渋谷のパルコがお洒落なビルだったのは、1980年代のことである。その渋谷界隈に硫黄の臭いが漂うとは、その後のバブル経済の崩壊を予感させる。四首目はハイカルチャーの衰退とサブカルチャーの台頭に警鐘を鳴らす歌。人間を焼き物に喩えて、サブカルチャーで焼かれてしまうともう手遅れなのだよと言う。五首目は現代のグローバル経済の勝ち組の象徴である超高層ビルの社長室のガラスを破る礫を希求する歌で、その敵意の鋭さに驚く。六種目は往時のジャズ喫茶の衰退を嘆く歌。デュークはもちろんデューク・エリントンから採ったものだ。
一連の歌から浮上するのは「硬骨漢」あるいは「義の人」という山田の肖像である。山田の第一歌集『アビー・ロードを夢見て』と相前後して登場した加藤治郎、西田政史、俵万智らは、80年代に爛熟した大衆消費社会の空気を短歌に取り入れてライト・ヴァースや口語短歌の口火を切った。それとは対照的に山田はそのような社会の変化に異議を唱え、やがてきっぱりと背を向けるのである。このコラムで『アビー・ロードを夢見て』を取り上げたとき、「この倫理性から流れ出て来る歌集の主調は、神の不在とそれに取って代わろうとした近代の神話の無効性であり、世紀の悪意に耐える日常である」と書いたが、そのスタンスは『商品とゆめ』でも変化していない。
しかしながら、電車に乗るやいなや、一斉にスマートフォンを取り出して黙々と液晶画面を見詰める通勤電車の風景を苦々しく思う人間は(私もその一人だが)、必然的に時代から取り残される存在とならざるをえない。無論山田もその例外ではない。
白鳥をつかのま窓が切りとるも親指せはしなき人ばかり
本歌集には掲歌の廃兵に代表されるように、時の流れに抗することかなわず、時代遅れになった自分を痛感する歌が多くあり、その味は苦い。
LPの反りを矯正する法とともにわれらの世代は消えむ
やすんじて時代遅れとなれよかしまつすぐに降りてゆけ星宿へ
「マック」と「ケンタ」死ぬまで入らぬと決めしよりアメリカの使ひし爆弾何噸
走りゆく回転木馬たのむから一頭くらゐは逆行をせよ
この国につひの狼死にし日をしばしばおもふ町あゆみつつ
時代に取り残された自分を自覚しつつも、「百舌ひくく榛の疎林をとびされり滅びの世紀をきよらに生きむ」と山田は低くつぶやくのである。
山田の眼に映る地方都市は、人口減少による過疎化と経済の停滞に苦しんでおり、そのような現状を詠んだ歌もある。また世界の悪を憎む歌もある。
そちらでは滅ぶのは何送電線のこちらで死ぬのは集落と田
人呼べる枯葉集団つどひきてけふもダンスに興ずるあはれ
野葡萄の実のうつくしきこのあたり残れる家に葬儀あひつぐ
パレスチナの民の恐怖を理解するアメリカ人のいくばく増えむ
雨雲の垂れさがりくるにほひ充ち世界の悪に飲み込まれさう
もともと山田の歌には社会性と思想性が顕著に見られたので、このような歌は驚くには値しないのだが、本歌集を特徴づけるのは死への想いを詠んだ歌だろう。
心臓を夜ごとはづして寝るわれにちかづきてくる翼しろがね
鏡像のよもつひらさか桃なげて鏡のなかに死んでゆくわれ
白鳥といつか一緒にゆくのでせう気がつくとはや翼をひろげ
暁闇に珈琲を飲みまちをりき純白の死の羽音をききて
山田の短歌世界ではしばしば死は白鳥として形象化されている。新潟は日本有数の渡り鳥の飛来地であり、瓢湖の白鳥はとくに名高い。白鳥に姿を変えた死は決して恐ろしいものではなく、優しく山田を迎えに来るかのように詠われている。
しかしながら集中でいちばん心に響いたのは、上に挙げたような歌ではなく、時代とも怒りともかかわりのない次のような自然詠だった。
蜜柑のはな咲きたるあさの耳ふかく時のながるるおとのきこゆる
雲はやく山を越えきて桜の葉もみあふおとのまだやはらかし
てのひらにこぼす錠剤つめたけれ鉄塔のなかに沈むオリオン
鳴く鳥のすがたさがせばおほいなる榧よりしたたるしづくのひかり
無縁墓頭を寄せあへるあたりにはかすかにきぞの雪のこりたり
かはたれの田におりて鳴く雲雀らのこゑかしかましひだりにみぎに
ふゆぞらに天使あらはれ鳩に影ひとびとに飢渇あまねく配れ
ききやう咲くかたへの岩にやすらへるこのひとの体臭は擦文のにほひ
空をさす尾のやはらかくうちあへりポインター二頭雪にあゆめる
垂線はかぜにたわみて降りてくる雲雀は弥生のあはき青より
枳殻のぬれたる刺のみづみづし淡雪たちまちやみたる街に
蝉をとらへ仔にあたへたる母猫の眼の金色の永遠の夏
なぜ心に響くかと言えば、これらの歌は世界の豊かさを感じさせてくれるからだ。長くなるので一首ごとに鑑賞するのは控えるが、たとえば一首目の時間の流れは大衆消費社会の人を追い立てる時間ではなく、ゆっくりと蜜柑の実を熟させる太古からの時である。五首目の榧の木から滴り落ちる光は、光であると同時に鳥の鳴き声である。最後の歌の母猫の眼に反射する夏の光は、何万年も変わらぬ真夏の陽光である。このような歌にこそ山田の短歌の美質を見るべきだろう。