第226回 山田富士郎『商品とゆめ』

電話ボックス工場のまへに立ちてをり歩哨のごとく廃兵のごとく
山田富士郎『商品とゆめ』
 

 近頃とんと見かけぬ物のひとつに電話ボックスがある。言うまでもなく携帯電話の普及のせいである。喫茶店に置かれていたピンク色の公衆電話ももう見かけない。若者は電話すらしなくなり、ラインでメッセージを交換している。今、都市の空中には無数の不可視のラインのメッセージが飛び交っているのである。掲歌では工場の前に電話ボックスがある。昔は工場で働いている工員が、昼休みに出て来て電話をかけることもあったろう。しかしもう今では使う人もおらず、廃兵のごとく立っている。
 近代短歌は抒情詩であり、〈私〉の表現である。歌に描かれているものはすべて〈私〉の眼を通したものであり、その意味においてすべては〈私〉の表現の一部である。なかんずく短歌で喩は、意味をずらし二重化するレトリックとして多用されていて、そこに〈私〉が最も色濃く出る。逆にいうと〈私〉を出したくなければ、喩を封印すればよいのである。使われていない電話ボックスに「廃兵のごとく」という直喩を用いるということは、自分を廃兵と認識していることを意味する。とてもわかりやすい歌だ。この認識が作者山田のベースラインである。
 山田は1950年生まれだからはや67歳になる。戦後のベビーブーマー、全共闘世代のわずかに下の世代に属する。第一歌集『アビー・ロードを夢見て』(1990年)で現代歌人協会賞、第二歌集『羚羊譚』(2000年)で寺山修司短歌賞と短歌四季大賞を受賞している。『商品とゆめ』は第二歌集から実に17年を経て上梓された第三歌集に当たる。1ページに3首配されて全部で253ページある。目次や中扉の分を引いて230ページとすると、690首程度は収録されているぶ厚い歌集である。
 一読して通奏低音のごとくに浮かび上がるテーマは、「時の流れの早さ」「消費社会への痛烈な批判」「地方都市の衰退と老齢化」「世界の悪への怒り」そして「死への予感と希求」だろう。
 あとがきによると、山田は今から30年前に東京を去って、故郷の新潟市ではなく新発田市に居を定めたという。「東京を後にした地方出身者の目」がそこにある。

ホワイトノイズ絶えずささやきかけてくる首都のねむりの時に恋しも
東京へ来て何をする声を聴く氷のしたの気泡のこゑを
灼熱の痛みをこらへ春雨のふる聖橋こえしもはるか
時雨にはかをりがあるが東京に降るのは冬の雨足す埃

 一首目はバックグラウンドノイズが絶えることのない首都の夜を懐かしむ歌。二首目は上京して間もない頃を回想して詠んだ歌だろう。三首目、聖橋はお茶の水にある神田川にかかる橋。四首目は東京の雨の香りのなさを詠んだもの。
 地方に暮らし自然と親しむ生活を送るのは、都市生活者にとっては憧れかもしれない。しかし山田が地方での生活を選択したのは、東京の余りに早すぎる時間の流れと留まるところを知らない消費社会に抵抗するためだと思われる。

効率を追つてここまで来しわれらわれらの子供植松聖は
商業主義いなごのごとく侵入し食ひ尽すらしわれらのたま
パルコまだ御洒落なビルでありし日のある朝硫黄の臭ひ漂ふ
焼成のすめば手遅れ精神を低温で焼くサブカルチャーは
超高層の代表取締役室のがらすをやぶる礫あるべし
ジャズ喫茶デューク盲腸のごとくにて雪ひひとふる石川小路

 一首目には「津久井やまゆり園、19人死亡26人負傷」という詞書きが添えられている。記憶に新しい衝撃的な事件である。犯人の植松は経済効率を至上の目標としてきた私たちが生み出した子供だと山田は言っている。二首目ははっきりと商業主義に対する敵意を表明したもの。三首目、渋谷のパルコがお洒落なビルだったのは、1980年代のことである。その渋谷界隈に硫黄の臭いが漂うとは、その後のバブル経済の崩壊を予感させる。四首目はハイカルチャーの衰退とサブカルチャーの台頭に警鐘を鳴らす歌。人間を焼き物に喩えて、サブカルチャーで焼かれてしまうともう手遅れなのだよと言う。五首目は現代のグローバル経済の勝ち組の象徴である超高層ビルの社長室のガラスを破る礫を希求する歌で、その敵意の鋭さに驚く。六種目は往時のジャズ喫茶の衰退を嘆く歌。デュークはもちろんデューク・エリントンから採ったものだ。
 一連の歌から浮上するのは「硬骨漢」あるいは「義の人」という山田の肖像である。山田の第一歌集『アビー・ロードを夢見て』と相前後して登場した加藤治郎、西田政史、俵万智らは、80年代に爛熟した大衆消費社会の空気を短歌に取り入れてライト・ヴァースや口語短歌の口火を切った。それとは対照的に山田はそのような社会の変化に異議を唱え、やがてきっぱりと背を向けるのである。このコラムで『アビー・ロードを夢見て』を取り上げたとき、「この倫理性から流れ出て来る歌集の主調は、神の不在とそれに取って代わろうとした近代の神話の無効性であり、世紀の悪意に耐える日常である」と書いたが、そのスタンスは『商品とゆめ』でも変化していない。
 しかしながら、電車に乗るやいなや、一斉にスマートフォンを取り出して黙々と液晶画面を見詰める通勤電車の風景を苦々しく思う人間は(私もその一人だが)、必然的に時代から取り残される存在とならざるをえない。無論山田もその例外ではない。

白鳥をつかのま窓が切りとるも親指せはしなき人ばかり

 本歌集には掲歌の廃兵に代表されるように、時の流れに抗することかなわず、時代遅れになった自分を痛感する歌が多くあり、その味は苦い。

LPの反りを矯正する法とともにわれらの世代は消えむ
やすんじて時代遅れとなれよかしまつすぐに降りてゆけ星宿へ
「マック」と「ケンタ」死ぬまで入らぬと決めしよりアメリカの使ひし爆弾何噸
走りゆく回転木馬たのむから一頭くらゐは逆行をせよ
この国につひの狼死にし日をしばしばおもふ町あゆみつつ

 時代に取り残された自分を自覚しつつも、「百舌ひくく榛の疎林をとびされり滅びの世紀をきよらに生きむ」と山田は低くつぶやくのである。
 山田の眼に映る地方都市は、人口減少による過疎化と経済の停滞に苦しんでおり、そのような現状を詠んだ歌もある。また世界の悪を憎む歌もある。

そちらでは滅ぶのは何送電線のこちらで死ぬのは集落と田
人呼べる枯葉集団つどひきてけふもダンスに興ずるあはれ
野葡萄の実のうつくしきこのあたり残れる家に葬儀あひつぐ
パレスチナの民の恐怖を理解するアメリカ人のいくばく増えむ
雨雲の垂れさがりくるにほひ充ち世界の悪に飲み込まれさう

 もともと山田の歌には社会性と思想性が顕著に見られたので、このような歌は驚くには値しないのだが、本歌集を特徴づけるのは死への想いを詠んだ歌だろう。

心臓を夜ごとはづして寝るわれにちかづきてくる翼しろがね
鏡像のよもつひらさか桃なげて鏡のなかに死んでゆくわれ
白鳥といつか一緒にゆくのでせう気がつくとはや翼をひろげ
暁闇に珈琲を飲みまちをりき純白の死の羽音をききて

 山田の短歌世界ではしばしば死は白鳥として形象化されている。新潟は日本有数の渡り鳥の飛来地であり、瓢湖の白鳥はとくに名高い。白鳥に姿を変えた死は決して恐ろしいものではなく、優しく山田を迎えに来るかのように詠われている。
 しかしながら集中でいちばん心に響いたのは、上に挙げたような歌ではなく、時代とも怒りともかかわりのない次のような自然詠だった。

蜜柑のはな咲きたるあさの耳ふかく時のながるるおとのきこゆる
雲はやく山を越えきて桜の葉もみあふおとのまだやはらかし
てのひらにこぼす錠剤つめたけれ鉄塔のなかに沈むオリオン
鳴く鳥のすがたさがせばおほいなるかやよりしたたるしづくのひかり
無縁墓頭を寄せあへるあたりにはかすかにきぞの雪のこりたり
かはたれの田におりて鳴く雲雀らのこゑかしかましひだりにみぎに
ふゆぞらに天使あらはれ鳩に影ひとびとに飢渇あまねく配れ
ききやう咲くかたへの岩にやすらへるこのひとの体臭は擦文のにほひ
空をさす尾のやはらかくうちあへりポインター二頭雪にあゆめる
垂線はかぜにたわみて降りてくる雲雀は弥生のあはき青より
枳殻からたちのぬれたる刺のみづみづし淡雪たちまちやみたる街に
蝉をとらへ仔にあたへたる母猫の眼の金色の永遠の夏

 なぜ心に響くかと言えば、これらの歌は世界の豊かさを感じさせてくれるからだ。長くなるので一首ごとに鑑賞するのは控えるが、たとえば一首目の時間の流れは大衆消費社会の人を追い立てる時間ではなく、ゆっくりと蜜柑の実を熟させる太古からの時である。五首目の榧の木から滴り落ちる光は、光であると同時に鳥の鳴き声である。最後の歌の母猫の眼に反射する夏の光は、何万年も変わらぬ真夏の陽光である。このような歌にこそ山田の短歌の美質を見るべきだろう。

 

144:2006年2月 第4週 山田富士郎
または、神の不在と世紀の悪意に耐える日常

さんさんと夜の海に降る雪見れば
   雪はわたつみの暗さを知らず

     山田富士郎『アビー・ロードを夢みて』
 美しい歌だ。この歌については加藤治郎の委曲を尽した読みが評論集『TKO』にあり(『山田富士郎歌集』〔砂子屋書房〕に採録)、私が付け加えることはさしてない。「さんさんと」と美しく煌びやかさを感じさせる初句から始まり、夜の海に降る雪が提示されるが、下句は転調して暗いイメージに変わる。海は「わたつみ」と古語に言い換えられると同時に、その相貌を一変させて歴史性を帯びる。「わたつみの暗さ」とは歴史性のほの暗さの謂である。雪は海水に触れるとそのはかない生命を終える。だから雪はわたつみの暗さと決して混じり合うことがなく、無垢性の表象として霏霏と降る。海上に降る純白の雪と、その下に横たわる海の暗さの対比がこの歌の眼目であるが、それと同時に「雪はわたつみの暗さを知らず」と感じている隠れた〈私〉がその背後にある。〈私〉は雪の表象する無垢性に参与していないからこそ、雪に注ぐこのような眼差しが成立するのである。二句と四句が八音の破調だが、ほとんどそれを感じさせない強い言葉の流れがある。

 山田富士郎は1950年(昭和25年)生まれで、詩と俳句を経て短歌に辿り着いた歌人である。1988年に角川短歌賞を受賞。第一歌集『アビー・ロードを夢みて』(1990年)で現代歌人協会賞を、第二歌集『羚羊譚』(2000年)で短歌四季大賞と寺山修司短歌賞を受賞している。この二冊の歌集の異色なところは、いずれにも長い後記が付されており、山田の短歌観を述べる評論となっているという点である。短歌自体にはあからさまな批評はなくむしろ抑制された筆致であるだけに、雄弁な後記との対比が目を引く。山田には『短歌と自由』という評論集があり、歌作だけでなく短歌をめぐる批評的考察にも優れた資質を発揮している。私は『短歌と自由』を先に読み、後から歌集を読むという逆の行程を辿った。そのためか『アビー・ロードを夢みて』は80年代の都会的抒情歌集の相貌を備えているにもかかわらず、読んでいて山田の方法意識につい目が行ってしまうのである。

 先にも述べたように、山田は詩と俳句を経て短歌を形式として選択したという経歴を持つ。『アビー・ロードを夢みて』の後記に、「現代詩と俳句の匂いを消し去る」ことを自分の作歌の戒律としていると書いているが、詩的圧縮の技法を現代詩と俳句で鍛錬したことは明らかである。

 南風に海ひろがれば石垣のすきまより出で蛇は輝く

 むごき夏を永久にと吊しおきたりし麦藁帽子朽ちて落つとふ

 電話回線しきりに花を降らすゆゑねむれぬ真昼 鰐にならうか

『アビー・ロードを夢みて』冒頭から数首を引いた。一首目は南風の吹く穏やかな海の情景に始まる歌だが、結句に至って登場する蛇は単なる景物のひとつではなく、詩的言語の圧がかかっている。二首目の夏と麦藁帽子の表象する青春性は寺山を連想させるが、「むごき夏を永久に」にもずいぶんと言葉を引き算した詩的圧縮がかけられていて、生み出された虚が反転して呼び出す連想空間の広がりが大きい。三首目では電話回線が花を降らせるという連辞結合関係に、詩的飛躍を強引に言葉に定着させる技法を見ることができる。短歌は三十一音の短詩型だから言葉を節約するのは当然だが、上に引いたような例には単なる言葉の節約ではなく、意図的に意味の真空地帯を作り出すことで一首の飛翔性を高める意図が見られる。

 山田の短歌を語るとき、その社会批評性が前景化されることが多い。ちなみに藤原龍一郎と島田修三は山田とほぼ同年齢であり、ふたりとも時に露悪的な社会性を短歌に盛り込むことで知られている。山田がこの二人と同世代であることは単なる暗合ではありえず、ここから短歌における世代論へと展開することもできるが、それは本意ではない。

 日本のパンまづければアフリカの餓死者の魂はさんで食べる

 死にも選択の幅ひろがりし世紀とぞドラッグの死ラーゲリの死

 日本は何にでもなる日本は子供のこねる粘土のやうに

  「国旗」に寄す
 立つてゐろ二年か三年すはだかで御子様ランチのライスの上に

 厠(し)が前に置かるる西瓜のやうであり哀しむべきか社会党を

 技術批評はつひにエコールをこえざらむグランドピアノの下の猟犬

山田は基本的に精神のリベラリストであり、教条主義的硬直性と思想的無節操を批判するとき舌鋒は鋭く、時に短歌の枠をはみ出してしまう。最後の歌は技術批評に終始する歌会への批判で、グランドピアノは結社の重鎮で猟犬は忠実な手下なのだという読みは、岡井隆が寄せた『アビー・ロードを夢みて』の跋文でようやく理解したがこれも辛辣である。

 しかしながら特に『アビー・ロードを夢みて』を読んで感じるのは、山田の作り上げる短歌世界の多面性であり、「山田の世界の本質はこれだ」と言い切ることの困難さの多くはこの多面性に由来する。ここでは今まであまり試みられてこなかった切口から入り込んでみたい。それは歌集題名の謎である。

 「アビー・ロード」は言うまでもなくビートルズが1969年に出したアルバムのタイトルで、横断歩道をメンバーの四人が一列になって歩くカバー写真は、その後何度も換骨奪胎され引用された。このタイトルはEMIスタジオがあったロンドン北部の St. John’s Wood の通りの名前に由来する。カバー写真が撮影されたのもスタジオの目の前の横断歩道で、ここは今でも日本人観光客が多く訪れる名所になっている。加藤治郎は「このタイトルは不可解である」とし、「一巻のキーワードではない。ビートルズ云々は、周辺の一挿話に過ぎないのだ」と結論している。確かにこの歌集には上に引用した「まだ死なないなんて」を初めとして、「鮭のぼり始めし河をけふも越ゆもうビートルズを聴くこともない」など、ビートルズを詠んだ歌が数首あるが、全体として大きなウェイトを占めているわけではない。しかし、「アビー・ロードを夢みて」は歌集題名であるだけでなく、一章の題名としても、章のなかの歌群の題名としても使われており、入れ子構造になって三回登場する。単なる挿話にしては露出が多いのである。

 アビー・ロードがどこにあるかはビートルズファンなら誰でも知っている。問題はアビー・ロードがどこへ続くかである。ヨーロッパの都市の道路に地名が付けられているとき、それはたいてい到着先を示している。たとえばロンドンに Oxford Street という道路がある。どうしてロンドンにオックスフォードの名を冠した道路があるかというと、その道をずっと行くとオックスフォードに通じているからである。パリに Avenue d’Italie や Porte d’Italie があるのも、そこがイタリアへの出口となる通りだからである。だからアビー・ロード Abbey Road は「僧院へと続く道」を意味するのだ。

 『アビー・ロードを夢みて』と『羚羊譚』からキリスト教に関係する歌を拾い出してみよう。

 基督教徒山田富士郎しまらくはキリストの肉食はず

 海の紺またおごそかに深まりぬ信仰宣言(クレド)の階を昇りゆくひと

 マラリアの発熱よりもすみやかに信仰は去りイエス親しも

 プリンみたいにふるへる家はあるのだが心が貧しい神父みたいだ

 山田タノわが祖母にして伯父一夫戦中に死せる基督教徒

 夏空のふかき青より降りきたる血のにじむ羽聖書にはさむ

 耶蘇教の墓は松林のうちにあれどわが骨灰は海にまかなむ

 ビルの間に密雲しばし垂れさがる水曜が来る灰の水曜日

 これを見ると山田の一族はキリスト教の家系だったことがわかる。山田自身も一時は自らをキリスト者と規定していたことがあり、その後信仰から遠ざかったようだ。一首目の「キリストの肉」はミサ聖祭で信者が拝受する聖餅(ホスティア)で、告解をして罪の赦しをまだ受けていない信者や、信仰にゆらぎのある信者は拝受を遠慮する。また最後の歌に登場する「灰の水曜日」 Ash Wednesday は、四旬節の始まりとなる水曜日で、もともとは罪の赦しを乞うため樹木を燃やした灰を信者の頭にかけたことに由来する。だからこれらの歌から浮上する意味の層とは、「信仰からの離反」と「罪」を軸とするものになる。このことを踏まえて今一度歌集題名『アビー・ロードを夢みて』を振り返ってみると、そこにはビートルズに代表される60年代の無垢の青春性への憧憬が直示的意味として表象されていると同時に、その裏面には「僧院へと続く道」を歩まんとして果たせなかった慚愧が隠されているのではないか。また山田の姿勢に見られる倫理性はここに由来するのではないだろうか。山田の歌にときどき謎のように登場する蛇にもまたキリスト教の影が濃く、悪魔の化身と知の開祖という両義的役割を付与されているように思える。

 この倫理性から流れ出て来る歌集の主調は、神の不在とそれに取って代わろうとした近代の神話の無効性であり、世紀の悪意に耐える日常である。

 自らの足をあらひて悲しかり呼ぶべき神をわれは持たぬを

 火を放て燃やし尽くせといふごとき純白の蛾時計にとまる

 レーニンの落としたバトンかつさらひスターリンは殴る同志(タワリシチ)の頭

 鉄を噛むごときくやしさ口中に満ちたればああ生きのびるのみ

 横ざまに地に倒しあるくろがねの階(きざはし)に雨今日も昨日も

 メルカトル図法のグリーンランドこそ魂蒼きわが墓場なれ

『アビー・ロードを夢みて』の冒頭は「TOKIO」と題された連作であり、不眠都市東京を舞台にこのような心情が展開されるとき、世紀末の都市的抒情歌集としての相貌を呈するのだが、その根底には山田の骨太の思想的骨格が横たわっていることを見過ごしてはなるまい。