第267回 小林久美子『アンヌのいた部屋』

ゆめみられるかたちになり

時をゆく

夢みる者が

きざんだ柱

小林久美子『アンヌのいた部屋』 

 本歌集は『ピラルク』(1998年)、『恋愛譜』(2002年)に続く小林の第三歌集である。第二歌集から数えて実に17年ぶりの歌集だ。私は小林の短歌がとても好きなので、包装を解くのももどかしく歌集を開いたのだが、中身を見て驚いた。四行書きの短歌とも言えないものが、一ページに二首配されているのである。

 小林は1962年生まれで「未来」所属。東直子の姉に当たる。『ピラルク』、『恋愛譜』ではポルトガル語のかな書きなども交えて、透明感のある口語短歌を作っていた。

やせた子ら夢中になって喧嘩する窓の下には夏時間あふれ  『ピラルク』

つぶる目に雨粒ふたつにじんでるきのうだまって遊んだ犬の

さいはての森のふたりをむぞうさにかこむ写真のあかいマーカー

はぐれるということを得る荷をすべて下ろしおわった船はひそかに  『恋愛譜』

みずうみのあおいこおりをふみぬいた獣がしずむつのをほこって

橋の影をくぐり寄る魚うっすらと楕円にのびて陽のなかにでる

 

 『アンヌのいた部屋』から数首引くが、スペースの関係で四行書きにせず一行とする。

ひとりへのためにのみ / 炎えつきる蝋燭 / 灯のほとりに / ひとを映し

画のなかで汝が/ ほほえむ / 汝からはなれることが / できたかのように

うす塗りの画のつめたさ/ 伏し目の像のしずけさ  / こおりが張る朝の

ひっそりと / 一緒になっているところ / ながくつづいた / 二本の径が

そらをゆく鳥が迷わないように / 季の時計になる / 一本欅

 まず頭に浮かぶのは、これは果たして短歌だろうかという疑問である。試しに字数を指折り数えてみると、1首目は10+9+6+6で31字となり、以下すべて31字である。ちなみに「汝」は「なれ」と読み、「季」は「き」と読んでいる。最初は「季」を「とき」と読んでいたのだが、それだと32字になる。しかしながら総数は31字でも、いずれも5・7・5・7・7の韻律からは大きく離れている。もっとも中には短歌の韻律で読める歌がないわけではないが、少数に止まる。

ゆきすぎた / 思いを照らし気づかせる / 未熟なものによりそえる / 灯は

在ることが命であると / かたよせた皿を / 配膳台にならべる

ひだり手をじぶんの / 右の肩に掛け 夏の / 午睡にしずんで人は

 やはりこれは伝統的な意味での短歌ではなく、31字という総枠規制だけを守って中身を換骨奪胎した四行詩と見るべきだろう。もともと小林は「人生派」といよりは「コトバ派」の歌人であり、コトバへの追求を先鋭化させた末に行き着いた形式なのかとも感じる。

 さて、本歌集に収録された歌または詩を通読するときに立ち上がって来るのは、通常の短歌の場合のような韻律と意味のアマルガムではなく、「肌合い」というか「手触り」というか表現に困るのだが、夜中に淹れたアールグレイの紅茶から室内に漂う香気のようなものである。これは伝統的な短歌を読むときにこちらに打ち寄せて来るものとはずいぶん異なるものであり、読んでいて非常に珍しい体験をした。これに似たものを記憶に探すと、旅先ですることのない雨の日の午前中に、ふと立ち寄った小さな美術館の人もまばらな展示室で、壁に掛けられた淡いタッチの水彩画を見ているときの気分に近い。小林はもともと画家であり、本歌集の歌または詩を一幅の絵画のように差し出しているのではないかと思う。たとえば次のような歌を見てみよう。

あわ雲の / 真下にひとりつ国の / 女性が立って / フェンシングする

書見台にひとり / 佇つ少女 / 袖のふくらんだタフタの / 襯衣シャツを着て

 画像が鮮明でとても絵画的だ。一首目では、頭上に薄いふわふわした雲があり、外国人女性が白い防具を着けてフェンシングの練習に励んでいる。空の青、雲と防具の白、防具からのぞく金髪の金が鮮やかだ。二首目では、書見台があるのは教会か講堂だから、聖書の一節を朗読しているのか、あるいはスピーチコンテストか。いずれにせよ高校生くらいの年齢の少女が光沢のあるタフタの服を着て立っている。「シャツ」とあるが、おそらくバルーンスリーブのブラウスだろう。薄暗い室内にタフタの光沢が映える。

 本歌集の歌を一幅の絵画のように感じるもうひとつの理由は、歌が孕む物語性である。たとえば次のような歌に描かれた情景の背後には何かの出来事があったと強く感じられる。

ひとの手に折り畳まれて / 二夜を越え / 君の手のなかに開かれる紙

消極の会話のなごり / 今はだれもいないへやの / 椅子のほとりに

古書室の壁の灯のもとで / 汝は愛の調べものに / 没頭する

 一首目に描かれた紙切れにはいったい何が書かれていたのだろうか。二首目の二人は途切れがちな会話の中で何を話していたのだろう。三首目の汝はカビ臭い古書のなかにどんな愛の秘密を探していたのだろうか。こうした歌の多くに漂っているのは喪失感である。

投げ返さなければ / ならなかったのに / 達しえないと / 分かっていても

見えていたものが / みえなくなるところ 紙に / 落とした消失点は

点景に画いた汝を / 見ておもう / 解いてはならない / 問いであったと

部屋のわずかな調度が / 汝の背景になる / もう汝はいなくても

 歌に描かれた「汝」が男性なのか女性なのかも定かではなく、歌の中の「吾」との関係性もおぼろにしかわからない。そういえば歌集題名の『アンヌのいた部屋』も奇妙だ。アンヌとは歌の中の汝なのか、それとも吾なのか、あるいはまったく無関係の人物なのか。「いた」というからにはもうその部屋にはいないのだ。ここにも喪失感がある。また技法の面では、小林は倒置法をよく用いているため、結句に言いさし感が残ることも関係しているだろう。

 最後に連作タイトルの美しさと造本に触れておきたい。目次には「素描のための右手の模型」、「鉤にかかる布巾」、「双つの塔のある小鳥の飼育籠」、「修復を終えて扉は」など、そのまま絵の題名になるような連作タイトルが並んでいる。また何という名前の紙なのか知らないが、用いられているやや黄味がかった少しざらつきのある紙は、昔のフランス装の本に使われていた用紙によく似ている。造本もシンプルで、カバーを剥がすと何も印刷されていない白無垢の表紙になる。歌集冒頭に配された「時の静かなものの巡りで」というエピグラフは、本歌集が身に纏っている空気をよく表している。

 

053:2004年5月 第4週 小林久美子
または、〈私〉のかなたから思いがさらさらと降り落ちて来る歌

さまよえる夢のおわりを棄てるとき
     飛沫があがる砂嘴 (さし) の向こうに

           小林久美子『恋愛譜』(北冬舎)
 掲載歌は描かれた情景に具体性がなく、どんな情景を描いているのかよくわからないのだが、わからないながらも心に迫って来るものがある不思議な歌である。「さまよえる夢」とは何か。寝て見る夢ではなく、不可能な希求という意味だろう。『恋愛譜』という歌集題名を勘案すると、遂げられない恋愛感情にちがいない。叶わなぬ思いを抱いてさまよっていたのだが、遂にあきらめて断念することになった。夢の終わりを棄てるのだが、その夢は形象化されて、放り投げると小石を投げたときにように、川のなかに飛沫があがるのである(ちなみに「飛沫」にルビは振られていないが「ひまつ」ではなく「しぶき」と読む方がいい)。全体がソフトフォーカスのかかった遠い情景のように、意識の中天にぼんやり浮かび、そこからさらさらとせつない気持ちが垂れ落ちてくるような美しい歌である。

 小林久美子は1962年生まれ。「未来」所属で、「未来」の結社内同人誌『レ・パピエ・シアン』の編集発行人でもある。すでに第一歌集『ピラルク』(砂子屋書房,1998)があり、『恋愛譜』は第二歌集にあたる。新仮名遣いで基本は口語だが、「はなれたり」とか「黄金いろなり」のように、主として結句に文語が少し混じるという混合文体で書かれている。しかし、専門家からは叱られるかも知れないが、歌の作り方において文語か口語かということは、それほど本質的な問題かという気もする。口語ライトヴァースの火付け役となった俵万智の短歌と比較してみると、問題なのは文語か口語かではなく、〈私〉と〈世界〉の関係性の定義であることがわかる。俵の短歌も口語だが、詠われた内容や描かれた情景は極めて明確なのである。

 思い出の一つようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ 『サラダ記念日』

 愛人でいいのと歌う歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う

 さみどりの葉をはがしゆくはつなつのキャベツのしんのしんまでひとり 『かぜのてのひら』

 一首目「思い出の」では、麦わら帽子のへこみ(=対象)を眺める〈私〉がいて、私にはそれにまつわる夏の甘酸っぱい思い出がある。〈対象〉である麦わら帽子と〈私〉の関係はとてもわかりやすい。二首目「愛人でいいの」では、歌を聴いている〈私〉がいて、「言ってくれるじゃないの」は〈私〉の心に湧いた感想だから、ここでもその関係は明確である。三首目「さみどりの」でも、はがしているキャベツの葉と、そのとき〈私〉が感じている孤独感が、〈対象〉とそれが表象する〈心情〉、つまりソシュール流に言えばシニフィアンとシニフィエの関係を構成しており、これまた驚くほどわかりやすい。俵の歌の特徴は、単に文体が口語だという点にあるのではない。歌中における〈私〉の位置どりがはっきりしていてブレがなく、〈私〉と〈対象〉の関係性もまた明確なところにある。ここまでわかりやすくなければ、あれほどのミリオンセラーにはならなかっただろう。

 翻って小林の短歌を眺めると、俵のような作歌態度とは言わば対極的な地点に成立している歌であることが感得される。試しに次の歌を見てみよう。

 ほそく長くかすかに揺れるしろい崖 わたしがあなたの記憶に落ちる

 遠くに立っていただいたのはよく視たいからだったのに しずかな径で

 はぐれるということを得る荷をすべて下ろしおわった船はひそかに

 これらの歌には、命題を構成する「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どのように」「なぜ」という5つのWとひとつのHが決定的に欠落している。あえて状況に具体性を持たせていないのだ。一首目の「しろい崖」は現実の風景というより心象風景と取るべきなのだろうが、私とあなたという人物のみは特定されているものの、「私があなたの記憶に落ちる」が何を意味するのか不明である。二首目では「立っていただいた」という待遇表現があるので、立つ主体は「あなた」であることがわかるが、なぜよく見たいと遠くに立ってもらうのか、さっぱりわからない。三首目はもっと難解で、荷物を下ろして身軽になった船がはぐれることを得るというのだが、「いつ」も「どこで」も「なぜ」も宙ぶらりんのため、理詰めの解釈は不可能となっている。

 このように小林の短歌では、「5つのWとひとつのH」の具体性が欠落しているが、その結果何が起きるだろうか。「5つのWとひとつのH」という媒介変数と相対的に定位されるはずの〈私〉が浮遊し始めるのである。なぜなら〈私〉とは、対他的には関係性の網の目の交点としてのみ定義される存在だからである。しかるに小林の歌には関係性を具体化すべき媒介変数が欠落している。だから歌のなかの〈私〉は、糸の切れた風船のように、読者が捉えようとしてもふわふわと手を逃れてしまうのである。〈私〉がブレない俵の歌と比較すると、そのちがいがよくわかるだろう。

 では短歌における修辞という地平で考えたとき、この〈私〉の浮遊はどのような効果を発揮するのだろうか。歌われた思い、例えば「失恋の悲しみ」は、本来ならば歌のなかに定位された〈私〉に凝縮する形で読者に感得される。ところが〈私〉が定位されず浮遊していると、思いもまた凝縮することなく歌のなかを浮遊することになる。その結果、〈私〉が感じている感情や思いだけが、言葉のかなたからひたひたと伝わって来ることになる。『不思議の国のアリス』でチェシャ猫が消えたあとに、笑いだけが中空に残るようなものである。言語による伝達という点から見れば、これはある意味で高度なテクニックと言うべきだろう。小林はこのような語法において、実に巧みなのである。

 だから小林の短歌には、写生による鋭い現実観察とか、ぴしっと決まった比喩のように、歌の輪郭をくっきりさせるものがない。また心情をそのまま吐露するような激しさもない。ふわふわと漂うような淡い印象の歌が多いのはそのためである。このことは語彙の選択にも反映していて、「そっと」「しずかに」「かそけき」「ひそかに」のような語彙が多く、また降る雪はドカ雪ではなく「あわ雪」で、雨も豪雨ではなく静かな雨なのである。

 もっともなかには輪郭のはっきりした歌もある。

 みずうみのあおいこおりをふみぬいた獣がしずむ角(つの)をほこって

 屠られるのを待つ馬がうつくしい闇へ吐きだす口中の青

 ひっそりと砂浴びをして去りし鳥 砂のくぼみに夕陽溜まれり

 一首目は季刊『短歌Wave』2003年夏号の特集「現代短歌の現在647人の代表歌集成」で、アンケートに答えて小林本人が代表歌3首を選んだ中に含まれているので、本人としても自信作なのだろう。いずれも姿かたちの美しい歌だが、ここにも上に述べた小林の歌の特徴は現われている。

 集中でちょっとおもしろいのは、ポルトガル語の歌と日本語の歌とをならべた連作である。

 あお そある ど しの あんちご ぺそあす ぱさん ふぁぜんど しなう で くるす

 きょうかいの ふるびたかねが なりだすと ひとはよこぎる じゅうじをきって

 小林はブラジルのサンパウロに住んでいたことがあるらしく、ブラジルの風物やインディオの暮しを詠んだ歌もある。日本語の歌もひらがな表記で、会津八一の歌のように分かち書きされており、どことなく童話風の趣があるが、ポルトガル語をひらがな表記すると、芥川龍之介の短編「れげんだ あうれあ」のようにキリシタン伴天連風の歴史性と寓意性を感じさせておもしろいのである。小林の言葉への強いこだわりを示しているように感じられる連作である。

 栞に文章を寄せた大辻隆弘によると、小林は「深い声でゆっくり話す女性」だという。そんな本人の個性が歌集に収められたどの歌にも感じられる。これほど本人の個性で塗り上げられた歌集も珍しいのではないだうか。

もういくつか美しいと思った歌を引いておこう。

 深い河わたるとき手を取ったのはあなたではないと気づき目覚めぬ

 橋の影をくぐり寄る魚うっすらと楕円にのびて陽のなかにでる

 バスが発ちさってしまった夢にさめ泥水が澄むまでを待ちおり

 水死するうつくしい魚そこしれぬほどふかまった愛の不在に

小林久美子のホームページ「直久