071:2004年9月 第5週 沢田英史
または、古語を駆使して現代に短歌の浮上を希求する歌

ビル抱く暗き淵よりせりあがり
   観覧車いま光都(くわうと)を領(し)れり

           沢田英史『異客』
 ちょっとした観覧車ブームで、ロンドンのテムズ河畔に世界最大の観覧車ができたと話題を集めたのはつい先日のことである。郊外の遊園地だけでなく、都会の真ん中にも観覧車が作られている。掲載歌はそんな夜の観覧車を詠んだものである。「ビル抱く暗き淵」は、コラールの名曲「我深き淵より御名を呼びぬ」Deprofundisを思い起こさせ、単なるビルの谷間の暗がりという以上の意味を暗示する。そんな暗がりから光輝く観覧車が姿を現し、夜のネオンと照明に輝く大都会に君臨するがごとくに、夜空を背景に回転するという光景を詠んだものである。単なる都市詠の叙景と読むこともできるが、短歌特有の二重の意味作用の働きによって、私たちは歌の言語の直示的意味の向こう側に、もうひとつの意味を読みとってしまう。それは現代の都市に生きる人間が置かれた状況をなべて「深き淵」と捉え、その淵から光輝きながら浮上することを幻視する人々の希求の深さというもうひとつの意味である。

 作者の沢田英史は1950年(昭和25年)生まれ。略歴によると兵庫県の高校を卒業後、京都大学文学部を卒業して、現在は高校の教員をしている。短歌を作り始めたのはずいぶん遅く、友人の訃報に接しふいに歌が口をついて出たという。「歌が降って来た」系の歌人で、こういうタイプの人はけっこういるようだ。時に沢田39歳のことであり、歌人としては遅い出発である。ポトナムに所属し上野晴夫の指導を受けて、1997年「異客」50首で第43回角川短歌賞を受賞。1999年に第一歌集『異客』を上梓、第25回現代歌人集会賞を受賞している。歌集は『異客』一冊のみだが、「セレクション歌人」(邑書林)には『異客』以後の歌も収録されている。

 沢田は年齢的には山田富士郎や藤原龍一郎や島田修三とほとんど同じ世代である。しかし歌人としての出発が遅いので、もう少し若い人かと勘違いしてしまう。そんな勘違いを持ったまま『異客』をひもとくとびっくりする。山田や藤原よりもずっと古語を多用する完全文語定型旧かな遣い派だからである。

 あはれとは人のことはり薄ら氷の液晶画面に出でし月かも

 とどめおく心やはあるいなづまの閃く隙(ひま)にうつろふものを

 たまかぎるゆふべの雨の水たまり秘話のごとくに草蔭を占む

 あかねさすテールランプの流れゆきかつは堰(せ)かるる滾(たぎ)ちの絶えね

 「あはれ」という古歌に多用された言葉、「たまかぎる」「あかねさす」といった枕詞、係り結びなど、現代短歌ではほぼ絶滅した言葉を復活させている。明治時代に短歌革新運動が起きたとき、近代的自我を詠う短歌には無用なものとして追放されたはずの言葉たちである。沢田はことさらにこういった言葉や語法を多用するので、まるで近代短歌がすっ飛ばされて、現代がいきなり明治以前の和歌に接続されたかのような奇異な感じを受ける。

 また沢田は古歌からの本歌取りの技法も好んでいるようだ。上の一首目は安倍仲麿の「三笠山に出でし月かも」を踏まえているし、次のような歌もある。

 ゆく車(カー)の流れは絶えずあかねさすテールランプを海渡しゆく

車を「カー」と読ませて、「行く川の流れは絶えずして」と掛けているのである。

 このような語法を多用する沢田の意図がどのあたりにあるのかは定かではないが、沢田のテーマのひとつである現代都市詠をこの古典語法で作ると、ミスマッチのためか一種独特の味わいが出ることは確かである。上にあげた一首目、「あはれとは人のことはり」と冷たく切って捨て、「薄ら氷の液晶画面に出でし月かも」と続けると、液晶画面に代表される現代のデジタル性と、「出でし月かも」の悠長な調子とがあいまって、現代都市の非情な貌が浮かんで来る。同じ趣向の歌をもう少しあげてみよう。

 摩天楼に住むといふなる隼の眼下夜ごとに銀河流れむ

 ふり仰ぐ高層ビルの水族館(アカリウム)地上はるかに満満たる水

 入りつ日の輻(や)の射し来れば街ながら硝子細工の脆さを帯びぬ

 『異客』には現代社会に住む人の身内に住まう空虚感を詠んだ歌が多くある。

 わが胃の腑透けてただよふ青といふいろのみ満つるなにもなき空

 朝ごとにくだる坂道昨(きぞ)の日の澱のよどみのかすかに臭ふ

 列なりて駅への道をくだりゆく背中せなかのそののっぺらぼう

 さういへば思ひつづけてゐたつけなどこへ行つても客でしかない

 胃袋を透過する青、坂道に澱む臭い、無個性な人の列は、現代の都市風景である。このような世界を生きて、作者は自分を客と感じるのだが、このような感覚は目新しいものではなく、他の現代歌人もまた多く詠んできた感覚である。例えば谷岡亜紀などには、現代への違和感を背景として、もっと毒と攻撃性を含んだ歌がある。

 毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり 『臨界』

 新宿は薬物テロを飾りおり危機に冷たく接吻(ベーゼ)する街 『アジア・バザール』

 しかし沢田の個性はと言えば、谷岡のような外に向かう攻撃性ではなく、現代に生きる自己と社会とを静かな眼差しで見つめる、どちらかと言えば内向きの視線であろう。次のような何気ない日常の光景を詠んだ歌に、その個性は生きているように思う。

 堀端の舗石はつかに間遠にて我の歩みを微妙にくづす

 小径にはゆきやなぎのはな散り敷けり避(よ)けて通れる足跡のあり

 ありふれた一本の樹がおごそかに光を放つゆうぐれがある

 操車場の線路に根づく雑草(あらくさ)の生ひて茂りて枯れてゆきけり

 また集中には次のような瑞々しい相聞歌があることにも注目すべきだろう。

 路地まがり悲しみの街さまよへばいづくのかどにも君の佇ちたる

 踏み分けて朽葉ひそけくわが腕に冷えたるからだ預け来たりつ

 あえかなる「夜間飛行」のつつむ背を抱けばともにくづほる 宙(そら)へ

 三首目の「夜間飛行」はゲラン社の香水 Vol de nuit のことで、彼女の体から香水の香りがかすかに匂うと詠んでいるのだが、それがいつの間にかふたり抱き合いながら夜空を飛んでいるイメージに転化しており、なかなか美しい。

 『異客』の巻頭歌と巻末歌とは、次のように見事に呼応していて、作者沢田の依って立つ視座を表わしている。それは広大無辺のこの宇宙に孤立して生きる私たちの孤独であり、今ここに生きているという不思議である。

 この空に数かぎりない星がありその星ごとにまた空がある

 われらみな宇宙の闇に飛び散りし星のかけらの夢のつづきか

 セレクション歌人シリーズ『沢田英史集』(邑書林)のあとがきに、沢田は「大げさでなく、いま短歌によって生かされている、と思っている」と書いている。びっくりするほど率直な告白である。また『現代短歌100人20首』(邑書林)の歌人の信条欄には、「歌によってひとすじのこの世につながる思いを持つ」と、同じ趣旨のことを述べている。思うに沢田には、文語定型短歌という形式に対する信頼感があるのだろう。言葉の虚しさがたまさか心をよぎることはあれ、全体として見れば短歌形式を自らが依ることのできるものとして信頼している。だからあまり定型を苛めることをしていない。

 話は飛ぶが、小笠原賢二は『終焉からの問い』のなかで、現代歌人は「魂の救済という潜在的な、しかし意外に強い衝動」を持っているとし、その証左のひとつとして現代短歌に頻出する「青」に注目してたくさんの例歌をあげている。

 未知の手に触れてうなじの燃え立つを淋しみ青いスカーフを巻く 太田美和

 ふかぶかとつきさせばまた吸われつつ夏おほぞらにひたと青旗 池田はるみ

 蒼穹は深き青もてみちたらふかなしき夢の仮睡ののちを 山田富士郎

 小笠原はこれら現代短歌に歌われた「青」が、不安・不充足のイメージを背景として、それらと背中合わせの形で救済の喩として憧憬されるといういびつな構造を持つ、と指摘している。つまり「青」から遙かに隔てられているからこそ、屈折した形で「青」を憧憬するというわけである。

 沢田の短歌にも「青」はよく登場するのである。沢田においては「青」は空の色として捉えられていることが多い。下にあげるのはごく一部で、これ以外にも「青」の歌はたくさんある。

 わが胃の腑透けてただよふ青といふいろのみ満つるなにもなき空

 ああぼくはこの青をみるためにだけけふまで生きてきたやうな空

 駆け出せば今なら間に合ふかも知れない青い空へと昇る歩道橋

 ゆふぐれの電車の窓をひたひたと青きエーテルの宵が打ち寄す

 鯖雲の蒼き輝きすべらせて硝子のビルの壁面の空

 二首目からも明らかなように、沢田にとっても青空は遙かに見上げるものであり、憧憬の対象として手の届かないものの表象であることがわかる。

 試しに小池光の歌集『バルサの翼』にどれくらい「青」が登場するか、数えてみた。「青」はわずかに以下の5首に見られるのみである。

 ひと夜さをわれと覚めゐし青き蛾といとほしむころ空はかたむく

 ガス蒼く燃ゆるたまゆらそのかみにさくらを焚けば胸を照らしき

 眼つむりし秋の青天 祭日の旗あざやかに狂院かかぐ

 青蛇の巣を探しゆくすこやかなズック海軍工廠あとへ

 われらが粗野にふるまひ遂げしのちのことはるかに夜の青空を見き

 注目すべきは、沢田の歌であれほど登場する青空が、小池においてはわずか二例しかなく、しかもそのうちひとつは狂院の空で、とてもピュアな憧憬の対象とは思われない。またもう一例も夜の青空であり、そこには憧れの対象となる輝く青色はないのである。残りは蛾と蛇とガスの色として表象されているに過ぎない。小池の歌には青空がない。小池の振り仰ぐ空は曇天か、さもなくば「溶血の空隈なくてさくら降る日やむざむざと子は生まれむとす」のように、不吉な血の色の空である。

 『バルサの翼』は1978年小池が31歳の時の歌集である。70年代の短歌よりも90年代の短歌の方により多く「青」が登場するのはどういう訳か。小笠原の言うように、「青」の形象化する境地から遠く隔てられているからこそ、手の届かないものとして「青」を詠うということがほんとうだとすれば、70年代の歌人よりも90年代の歌人のほうが、より「青」から遠く隔てられているということになる。確かに小池の『バルサの翼』を通読して、傷つきやすい青年の抒情という印象は受けるが、痛ましいという印象はない。ところが最近の若い歌人の歌を読むと、痛ましいという印象を受けることがよくある。頻出する「青」の象徴する魂の救済が、絶望的なほど遠ざかっているからかもしれない。

 その点、上にも書いたように、沢田は短歌定型に対して信頼感を抱いている分だけ痛ましさは少なく、沢田の詠む「青空」は本来の憧れの輝きを保ち続けるのである。沢田にとってもおそらく、短歌は祈りなのだろう。