063:2004年8月 第1週 魚村晋太郎
または、修辞的技巧のかなたに垣間見える虚無を立ち上げよ

罎の内側から見ると恋人は
    救世主(メシア)のやうに甘く爛れて

        魚村晋太郎『銀耳』(砂子屋書房)
 歌集の題名は「ぎんじ」と読む。中華料理の食材として、また漢方薬として珍重される白木耳を乾燥させたものをいう。銀耳を甘い砂糖液で煮たデザートは、歯ごたえが楽しく、私も愛好する一品だ。「銀耳」という漢字には強いイメージの喚起力があり、中国音「インアル」もまた美しい。集中にある「中華スープの銀耳(しろきくらげ)が生えてゐる場所をある日の憧れとして」から採られたものである。作者魚村はこの銀耳30首で2001年に第44回短歌研究新人賞次席に入選している。イメージの喚起力の強い漢字へのこだわりと、掲載歌の初句・二句の大胆な句跨りから容易に推測されるように、魚村は塚本邦雄の主宰する「玲瓏」会員である。

 「罎の内側から見る」というあり得ない仮想の視点への想像力による移動、メシアというキリスト教用語の喚起する世紀末の匂い、そして「恋人が甘く爛れている」という終末的快楽の暗示。魚村の構築する短歌の世界は、このように選ばれた言葉が織りなす交響曲のようなイメージの世界であり、その鍵は抜群の修辞の力だと言ってよい。

 包丁に獣脂の曇り しなかつた事を咎めに隣人が来る

 ゆつくりと人を裏切る 芽キャベツのポトフで遅い昼をすませて

 人間の壊れやすさ、と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる

 核心に触れない 服を脱ぐやうに洋梨(ペアー)をむいてゐるひとの指

 パエーリヤに口開く貝 物分りのいい恋人の舌がつめたい

 いささか恣意的に集中より何首かあげたが、ここには魚村の作歌技法の特徴がよく出ている。その第一は二句切れが多いことである。三枝昴之『現代短歌の修辞学』(ながらみ書房)所収の討論において、塚本邦雄は自分の短歌の特徴として、「二句切れが多い」「第五句が一音足りない」「初句に字余りが多い」の三点をあげている。実例を見てみよう。 

 日常にわれら死す 夏ひばり火の囀り耳の底に封じて (二句切れ)

 あたらしき墓立つは家建つよりもはれやかにわがこころの夏至 (第五句一音欠落)

 聴きつつ睡るラジオの底の夏祭りそこ曲がり紫陽花を傷むるな (初句字余り)

 だから魚村に二句切れが多いのは、塚本の修辞を綿密に研究した結果なのである。

 上にあげた魚村の短歌のもうひとつの特徴は、「叙景表現」と「情意表現」の切断である。一首目、「包丁に獣脂の曇り」は肉を切った脂の曇りが包丁に残るという叙景で、残りの「しなかつた事を咎めに隣人が来る」は出来事の叙述ではあるが、一首の意味の重心はこちらにあり、濡れ衣を着せられた〈私〉の困惑が当然想像される。ところが、「包丁に獣脂の曇り」という叙景表現と三句以下は、一字あけによって切断されており、ここには期待される短歌的喩の関係が不在である。しかし、この不在は読みの多様性を生む。包丁に残る獣脂の曇りは、実は私が犯した犯罪の痕跡かもしれない。また時系列を逆転し、濡れ衣を着せられたことで、私に殺意が芽生え、それを受けて包丁が曇ったのかもしれない。このように、二句切れによる宙吊り感に加えて、「叙景表現」と「情意表現」を意図的に切断することによって、作者はその切断面に新たな意味が生成されることをめざしているのではないかと思える。

 二首目でもやはり、「ゆつくりと人を裏切る」という前半と、「芽キャベツのポトフで遅い昼をすませて」のあいだは一字あけで切断されて、しかもごていねいに倒置されている。三首目「人間の壊れやすさ」は内心の思いであり情意表現であるが、三句以下の「と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる」は、その思いを受け止める常識的な喩とはなっていない。つまり、短歌の韻文としての基本構造を、「問」と「答え」による「合わせ鏡の構造」に求めた永田和宏の定理をいかにずらした地点で短歌を成立させるかという試みが、魚村の作歌の中核を成しているのではないかと推察される。

 これに比べれば、四首目と五首目はもう少しわかりやすい。「服を脱ぐやうに洋梨(ペアー)をむいてゐるひとの指」は叙景表現でありながら、「核心に触れない」という相手 (女性であろう) の蛇の生殺しのような態度の喩として成立している。また、「パエーリヤに口開く貝」は叙景としても読めるが、三句以下を導く単なる修辞的喩としても読める。

 韻律の点でも魚村の修辞力は発揮されている。

 夜明け 林檎の歯型みるみる鮮やかになりて恋敵の秘密知る

 子らは父を仕留めにでかけ薄ら陽の路上にランドセルが置きざり

 一首目は三音初句切れと見るとあんまりなので、ここは一字あけによる視覚的効果と、韻律的切れをずらしていると見るべきだろう。二首目でも、初句「子らは父を」は一音増、「路上にランド / セルが置きざり」という句跨りがあり、前衛短歌の修辞を十分に自家薬籠中のものとしていることがわかる。

 さて、では魚村がこのような抜群の修辞力を駆使して作る短歌が描こうとする世界とはどのようなものか。これがいまひとつはっきりと結像しないうらみが残るのである。

 「蠅はみんな同じ夢を見る」といふ静けき真昼 ひとを待ちをり

 どれが私の欲望なのか傘立てに並ぶビニールの傘の白い柄

 冥途の土産なき身の丈を夜行バスの座席に預けつつ冬の旅

 ぼくたちは失敗のあとを生きてゐるポットにティーの葉ををどらせて

 注文した通りのピッツァが届くだろう悪役が死をたまはる頃に

 一首目に漂っているのは、並列化された世界にたいする漠然とした倦怠感のようだ。この感覚は二首目にも顕著で、傘立てに並ぶビニール傘がどれも似ているように、自分の欲望すらも並列化されている。三首目は自分には冥途の土産がないという達成感の欠落。四首目はもっとはっきりしたペシミスムと終末感が漂う。五首目、TVドラマで悪役が定石通りに死ぬまでのわずかな時間のあいだに、注文通りの宅配ピザが届くというのは、意外な展開のないシステム化された日常を詠っているようだ。

 1965年生まれで、バブル経済の最盛期に成人を迎え、今年で39歳になる魚村にとって、撃つべき相手とは何か。これはむずかしい課題である。荻原裕幸と穂村弘はともに1962年生まれだから、世代的には魚村もニューウェーヴ短歌に与してもよい世代なのだ。魚村の抜群の修辞力の陰に隠れてしまっているが、魚村も「ぼくたちはつるつるのゴーフルだ」と書いた穂村と、世界観の点ではそれほど違わない地点にいるのかも知れないと感じてしまうのである。

 歌人は短歌によって世界の認識を語る。そのなかに否応なく認識する主体としての〈私〉が浮上する。魚村の短歌には、まだ滲み出る苦い〈私〉が希薄なようだ。撃つべき相手を認識したとき、魚村の〈私〉も相関的に立ち上がるだろう。

 最後に集中特に印象に残った歌をあげておこう。

 失意にも北限はあり雨中(あまなか)を荷主不明の百合の貨車着く

 かつて天動説 傾ぐオリオンを蹴り上げて少年筋斗切る

 神戸ルミナリエ 鎮魂の灯につながりて彼方に原子炉の火黙せり

 肉挽き器(ミンサー)を溢るる挽肉(ミンチ)かなしみは悲しむひとを容(ゆる)しやすくて

 死ではない終はりを持つてゐるひとがありの実を剥く皮をたらして