第116回 菊池孝彦『まなざさる』『彼の麦束』

雨が降り出す前の暗さに蛍光灯は二、三度力を込めて点きたり
                  菊池孝彦『まなざさる』
 思わず「あるある」と膝を叩きたくなる歌である。おそらく夕方であろう。ふだんならまだ火点し頃ではないが、空は雨を含んでいつもより暗い。蛍光灯はそろそろ寿命らしく、グロー球の一度の放電で点灯しない。2・3度放電してようやく灯る。「力を込めて」はグロー球自身が力んでいるようにも見え、またそれを見ている知覚主体としての〈私〉が思わず力んだようにも取れる。対象と〈私〉とのこの一瞬の交叉がこの歌の眼目であり、作者の注意はそこに注がれている。
 菊池孝彦は2010年に満を持して第一歌集『声霜』を刊行した。その出版記念パーティーの席で、第二歌集と第三歌集を同時刊行すると宣言し出席者を驚かせたという。第二歌集『まなざさる』は自由律・新仮名、第三歌集『彼の麦束』は文語定型・旧仮名の歌集になっている。題名の『まなざさる』は「まなざし」の動詞形「まなざす」の受動態だという。栞文を三井ゆきが書いている。『彼の麦束』の方はヴィクトル・ユゴーの詩「彼の麦束は欲深くもなく、恨み深くもなかった」に由来する。
 栞文を読んで作者と「短歌人」の先輩である高瀬一誌との交流の深さを改めて知った。作者が栞文を三井ゆきに依頼したのはこのような事情による。三井は『まなざさる』のゲラを読んで幾度も高瀬の作品を想起したという。
 特段理由もないのに読む機会を失している歌人がいて、高瀬は私にとってその代表格である。私は高瀬の作品としては、どこかに引用されていた第一歌集『喝采』の数首以外ほとんど知らないのである。
真昼 紅鮭の一片を腹中にしてしばし人を叱りたり  『喝采』
伯父の墓より伸びる蔓は川崎の女の方にのびたり
わがつぶやきを諳んずる鸚鵡の急死をよろこびとせよ
 自由律ではないものの定型から時に大きく外れるその韻律は、高瀬節とも呼ばれていたらしい。このリズムの反照が菊池の第二歌集にも散見される。
まあまあととりなしていたはずがみずから怒れる人となりたり
アマデウスは地を踏まず翔けゆきしがからから笑う声のみのこす
帰らんとする者さまよいはじめる者ありて今が夕暮れ時ぞ
   完全な自由律ではなく、背後に微妙に定型が見え隠れする文体で、その揺らぎの部分をを味わえるかどうかで評価が異なるだろう。全体として抒情よりは理と知とユーモアに傾く内容になっている。こういう自由律は集中の「とどのつまりは行き場を失うことからしか始まらぬ」「この道を行くと決めたからにはこの道を往く さびしくてよし」などのように、ややもすれば人生訓に接近する。下手をすると相田みつをの色紙のようになってしまう。
 この歌集の眼目は次のような歌にあるようだ。
見られているのがわかってから少しずつ見ることがはじまるらしい
人形に見られているにわれはおごそかなるまなざしを返したり
 いずれも「見る / 見られる」の関係性を詠っている。見るのは主体であり、見られるのは客体である。しかし事情はそれほど単純ではない。この歌では見る主体が実は見られている客体でもあるという二重の関係性になっている。「見る」と「見られる」の二重の相互関係から立ち上がるものが歌の主題であろう。
 自由律と定型という形式上の差はあるものの、このことは第三歌集『彼の麦束』にも通底している。今回三井ゆきの栞文を読んで、作者が精神科医であることを知った。そのことによって得心するものがある。
いちにちが終はる夜更けを無意識は侵しゆくなりわれの意識を
防波堤のごとき意識は眠れるに無意識はいよよ脳にむづかる
ゆふぐれにさまよひいづるすべもなき魂と魄とが歌つむぎゆく
木漏れ日のさゐさゐと降る秋の道わが魂と魄ほのわかれゆく
 上の二首は人間を意識と無意識の二元論で捉えたものであり、作者が精神科医であることを思えばなるほどと納得する。二元論は優れてユダヤ・キリスト教的思考スタイルであり、日本人が不得手であることにも留意しておこう。情緒纏綿とした世界を描いていた和歌の世界に、明治の近代とともに主客二元論が流入して近代短歌が成立したと言ってもよいが、それはあくまで〈私〉=主体、〈モノ〉=客体という二元論である。菊池は〈私〉=主体をさらに分割して、意識と無意識の二元論を導入している。しかし歌を統べているのは一貫して意識の側なので、異なる意識の審級に異なる位相の言語を配布する加藤治郎などの試行とは一線を画している。
 おもしろいのは上の三首目・四首目で、魂を意味する「魂魄」という漢語が「魂」と「魄」とに分けられている。本来、「魂」も「魄」も魂を表すのだが、「魄」は中身を落とした形・輪郭の意も有する。ならば「魂」は魂を、「魄」はからっぽの肉体を表すことになり、これは心身二元論ということになる。
 第一歌集『声霜』では「物自体」(choses en soi)への菊池の偏執を指摘したが、本書ではその眼差しは主として「われ」に向いているようだ。
われありとおもふたまゆらわれなしといふ確言の空を降りくる
さびしさの出どころあはれ「われ」といふ部分が我のうちにあること
難解歌 おもへば「われ」の難解さいづれといへど知れることなし
ばうと燃えばうと消えゆく流星のしゆんかんは見ゆわれの持続にうちに
他者の死をわれ繰り返す「われの死」といふ他者の死にわれをはるまで
 一首目はもちろんデカルトの「我思うゆえ我あり」(Cogito ergo sum)を踏まえている。この確言はフロイトの無意識の発見によって大きく揺らいだ。「われ」の地滑りが起こったのである。二首目は「我」のうちに「われ」という部分があると捉えており、ここにも自我の捉え難さが見られる。四首目は少し注意が必要だ。ふつう歌の世界では人生が須臾の間に過ぎることを詠うが、この歌では逆に現象の瞬間性と「われ」の持続性が対置されている。私たちは一瞬一瞬を生きるのだが、〈私〉はそれらの瞬間を架橋する持続の中にしか把握されない。一瞬前の〈私〉との同一性が〈私〉を担保するのである。五首目の「他者の死をわれ繰り返す」は、他人の死に多く立ちあうと解釈する。難しいのは後半の「『われの死』といふ他者の死」である。ここでは、私が死んだときにはもう私はいないのだから、それは他者の死であると解しておく。この歌にも主客の入れ替わりが見られるように思う。
 第一歌集『声霜』について「くぐもった声でつぶやくような歌が多い」と書いた。それは第三歌集『彼の麦束』でも変わらない。分別盛りのはずの人生の途上で当惑し、中年の苦みが滲み出るような歌も多い。
傘さして何防備せむぬかるみの一歩だに死へ近づかぬ無し
風やみて風におくれし花びらはなほとどまれりわが中空なかぞら
レコードの溝欠けてをりそこよりは前に進まぬアパッショナータ
ぼた雪の重き舗道を行くときのつま先さむしもの言はねども
床に就きてのちに見む夢そののちに見むあしたあらむ なべて「む」の中
 ところが「帰雁かへるかりをよめる」という詞書のある巻頭の次の歌を読んで驚いた。詩魂高みに飛翔するがごとき絶唱ではないか。
花を地を見捨てて去ぬるかりがねの飛翔うるわし昏るる地平に
わが視野の夕闇いよよ濃きなかを地平にしづむ雁の列見ゆ
こゑとなりしわれやさすらふかりがねの群れ鳴きかはす夢のはたてに
 おそらく菊池は短歌人会の先輩である小池光と同様に、大きな翼を持っていて飛翔することのできる人なのに、翼を閉じて地上をとぼとぼと歩いている歌人なのだ。なぜ地上を歩くかというと、それは陶酔を忌避する知的冷静と、抒情に身を委ねることへの一抹の含羞のためだろう。それもまた歌人の選択である。