ガソリンはタンク内部にさざなみをつくり僕らは海を知らない
山田航『水に沈む羊』
山田航『水に沈む羊』
『さよならバグ・チルドレン』に続く山田の第二歌集が出版された (2016年2月)。不思議なタイトルだが、これについては後で触れる。版元は港の人。光森裕樹が第一歌集『鈴を産むひばり』を出してから歌集に縁ができた出版社である。光森はふつうにインターネットで探して見つけたところに出版を依頼したという。帯を付けないのが方針だそうで、本歌集にも帯がない。薄い水色の表紙にタイトルが印刷されている文字は、ドット数の少ないデジタル表示のように輪郭線がぎざぎざしている。デジタルだからこうなるのだが、アナログ感が漂うのが不思議だ。装丁も簡便で小体な歌集になっている。
さて、第一歌集の批評では「抒情プラスニューウェーブ」「歌風の振り幅の大きさ」「プロデュース感覚の必要性」というようなことを書いた。第二歌集を通読して感じたのは「郊外育ちの子供」の感受性である。山田はプロフィールに「札幌生まれ札幌育ち」と書いているので現実には違うのかもしれないが、少なくともこの歌集は1970年代後半から80年代に生まれたあるボリュームゾーンを代弁している気がする(山田自身は1983年生)。
昔、東京都の周辺都市や神奈川県などの隣接県に生まれた子供たちは、東京に出てゆくことを熱望していた。地元はダサい地方都市で東京には何でもあるからだ。しかしある頃から若者たちは地元で幼なじみの友人たちとまったり暮らすことを好むようになったという。いわゆる「マイルドヤンキー化」である。たとえば音楽グループ「いきものがかり」は厚木や海老名への地元愛を公言していて、小田急線が大好きだという。奇しくもボーカルの吉岡は1984年生まれで、水野と山下は1982年生まれである。山田とほぼ同世代に当たる。
山田の歌集を読んでいると、整然として明るいのだが、どこかがらんとしていて空間に陰影がない郊外やニュータウンの感覚を感じるのである。ただし大きなちがいもある。マイルドヤンキーは地元愛に溢れていて地元を離れないが、山田は地元を憎悪している。ブログで「この歌集は地元と学校を憎んでいる人のために作った」と書いていることからわかる。
なぜ地元と学校を憎悪するのか。それは山田が感じている不全感に由来する。
不全感のもうひとつの源は「ふたりぼっちの明日へ」という連作に見える。
巻末に置かれた「水に沈む羊」は歌集のタイトルともなったタイトルチューンで、「短歌研究」誌に発表されたものである。なぜ水に沈む羊なのか。
さて歌集を通読した感想はどうかというと、前歌集にはたくさんあった寺山修司的、西田政史的短歌がずいぶん減っている。たとえば次のような叙情的な歌である。
山田は本歌集と前後して2015年末に『桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』(左右社)を上梓している。こちらは1970年以後に生まれた歌人を取り上げ、歌人論とアンソロジーを取り合わせたものである。若い歌人のアンソロジーとしては、『太陽の舟』(北溟社 2007年)、『現代短歌最前線 新響十人』(北溟社 2007年)があるが、「トナカイ語研究日誌」で文体を鍛えた手練れの山田のことである。鋭く斬り込む歌人評とアンソロジーは短歌に興味のある人たちにとって格好の導入となるだろう。短歌実作と評論の両面で活躍する山田ならではである。
さて、第一歌集の批評では「抒情プラスニューウェーブ」「歌風の振り幅の大きさ」「プロデュース感覚の必要性」というようなことを書いた。第二歌集を通読して感じたのは「郊外育ちの子供」の感受性である。山田はプロフィールに「札幌生まれ札幌育ち」と書いているので現実には違うのかもしれないが、少なくともこの歌集は1970年代後半から80年代に生まれたあるボリュームゾーンを代弁している気がする(山田自身は1983年生)。
果てなんてないといふこと何処までも続く車道にガストを臨む一首目の車道は国道でガストは国道沿いによるあるチェーン店である。二首目、駅裏の野原はたぶんこれから造成と建築が予定されている空き地だろう。三首目のフードコートは大型ショッピングモールにある飲食施設で、四首目の公民館は大都市にはない。五首目ははっきりとニュータウンと書かれている。
だだっ広い駅裏の野に立つこともないまま余剰として生きてゆく
スカートならフードコートのゴミ箱にぜーんぶ捨てたなんて言ひ出す
アスファルトに椿ひとひら腐るころ公民館に落語家が来る
ゴルフ打ちっ放しの網に桃色の朝雲がかかるニュータウン6:00
昔、東京都の周辺都市や神奈川県などの隣接県に生まれた子供たちは、東京に出てゆくことを熱望していた。地元はダサい地方都市で東京には何でもあるからだ。しかしある頃から若者たちは地元で幼なじみの友人たちとまったり暮らすことを好むようになったという。いわゆる「マイルドヤンキー化」である。たとえば音楽グループ「いきものがかり」は厚木や海老名への地元愛を公言していて、小田急線が大好きだという。奇しくもボーカルの吉岡は1984年生まれで、水野と山下は1982年生まれである。山田とほぼ同世代に当たる。
山田の歌集を読んでいると、整然として明るいのだが、どこかがらんとしていて空間に陰影がない郊外やニュータウンの感覚を感じるのである。ただし大きなちがいもある。マイルドヤンキーは地元愛に溢れていて地元を離れないが、山田は地元を憎悪している。ブログで「この歌集は地元と学校を憎んでいる人のために作った」と書いていることからわかる。
なぜ地元と学校を憎悪するのか。それは山田が感じている不全感に由来する。
鉄塔の見える草原ぼくたちは始められないから終はれない「始められないから終はれない」とは、人生の第一歩を踏み出すことすらできていないという意味である。「いつかは羽撃く」は淡い希望だが、いつまでも羽撃けないことをうすうす感じているだろう。「揺らされすぎて吐きそうになる」は揺籃の地への憎悪に他ならない。読んで気づくのは、山田の短歌の一人称は「僕」や「吾」ではなく、必ずと言ってよいほど「僕たち」「僕ら」だということだ。ということは少なくとも短歌の場においては、山田は自分を特殊な人間と捉えているのではなく、ある世代、ある集団の一員とみなしているのである。
剥き出しの肩がかすかに上下するリズムいつかは羽撃くための
濾過されてゆくんだ僕ら目に見えぬ弾に全身撃抜かれながら
ふるさとがゆりかごならばぼくらみな揺らされすぎて吐きそうになる
不全感のもうひとつの源は「ふたりぼっちの明日へ」という連作に見える。
「生めない」と「生ませられない」天秤の傾ぎばかりを観測されてこの連作のカップルは不妊で子供を作れないのだ。ここにも強い不全感の理由が見てとれよう。
葡萄色の産科医院へ告げに行くずつとふたりで生きてゆくこと
無精卵といふ語が責めてゐるものは君なのか俺なのか夕映え
巻末に置かれた「水に沈む羊」は歌集のタイトルともなったタイトルチューンで、「短歌研究」誌に発表されたものである。なぜ水に沈む羊なのか。
水に沈む羊のあをきまなざしよ散るな まだ、まだ水面ぢやないこの二首を読むと、学校がプールに喩えられており、「水に沈む羊」とは学校の中で溺れそうになっている生徒(自分)の喩であることがわかる。なぜ羊かというと、北海道はジンギスカンが盛んだからではなく、童話では羊は狼に襲われるからである。
屋上から臨む夕映え学校は青いばかりの底なしプール
便器の底の水の向かうにしらじらと顔を蹴られてゐる僕がゐた学校での集団的いじめの光景である。山田が実際に学校でいじめに遭ったかどうかを詮索するのはどうでもよく、山田の目には学校がこのように映っているという点が重要だ。この連作だけ歌の末尾が頁のいちばん下に来るように配置されていて、いきおい歌の初めの位置は上がったり下がったりする。それが学校というプールの中で浮き沈みする羊のレイアウト的喩となっている。上に引いた歌では「コカ・コーラゼロ」のディテールが上手い。
溺れても死なないみづだ幼さが凶器に変はる空間もある
沈みゆく僕の身体をさする根はやさしいやさしいにせものの指
べたついた悪意とともにつむじから垂らされてゆくコカ・コーラゼロ
さて歌集を通読した感想はどうかというと、前歌集にはたくさんあった寺山修司的、西田政史的短歌がずいぶん減っている。たとえば次のような叙情的な歌である。
角砂糖ふくめば涼しさらさらと夏の崩れてゆく喫茶店本歌集で探すと次のような歌は見つかるが数は少なくとても残念だ。
『さよならバグ・チルドレン』
自転車は波にさらはれ走り去るものみな君に届かぬ真夏
祈りではないんだらうな目を閉ぢて午後のベンチに凭れることも
水張田の面を輝きはなだれゆき快速列車は空港へ向かふそれから山田は旧仮名遣いを採用しているのだが、旧仮名は文語脈と旧字がセットになって初めて生きるものだ。まあ旧字は無理として、山田のように口語脈で旧仮名を使うととても違和感がある。口語脈ならば新仮名でよいのではないか。
花と舟と重なりあひてみづうみを同じ速度で流れゆく見ゆ
昭和製のコイン入れれば震へ出す真夏を回りつくすさざなみ
山田は本歌集と前後して2015年末に『桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』(左右社)を上梓している。こちらは1970年以後に生まれた歌人を取り上げ、歌人論とアンソロジーを取り合わせたものである。若い歌人のアンソロジーとしては、『太陽の舟』(北溟社 2007年)、『現代短歌最前線 新響十人』(北溟社 2007年)があるが、「トナカイ語研究日誌」で文体を鍛えた手練れの山田のことである。鋭く斬り込む歌人評とアンソロジーは短歌に興味のある人たちにとって格好の導入となるだろう。短歌実作と評論の両面で活躍する山田ならではである。