直接のきっかけは忘れてしまったが、近現代短歌に興味を持って読み始めたとき、まず手を伸ばしたのはアンソロジーだった。次のような本である。
『新星十人 現代短歌ニューウェーブ』(立風書房 1998年)
小池光・今野寿美・山田富士郎編『現代短歌100人20首』(邑書林 2001年)
『現代短歌最前線 上・下巻』(北溟社 2001年)
篠弘編『現代の短歌 100人の名歌集』(三省堂 2003年)
高野公彦編『現代の短歌』(講談社学術文庫 1991年)
中でも愛読したのは塚本邦雄『現代百歌園 明日にひらく詞華』(花曜社 1990年)だった。同時期に穂村弘・東直子・沢田康彦『短歌はプロに訊け』(本の雑誌社 2000年)を読み、歌の良し悪しの判断基準という点で大いに学ぶところがあった。
短歌に興味を持った人はまずアンソロジーから入るのがよい。手練れのプロが精選した歌を解説までしてくれるのだから敷居が低く入りやすい。アンソロジーのよい所は拾い読みができることで、パラパラめくって目に留まった箇所を読む。読んでいるうちに好きな歌、好きな歌人に出会うものだ。
ところが歌集を初めて買った時、私はどう読めばよいのかまったくわからずとまどった。歌集を一冊丸ごと読むことができないのである。小説ならばストーリーというものがあり、登場人物が出会ったり愛し合ったり殺し合ったりするので、「筋を辿る」という読み方ができる。エッセーや論文ならば、著者の主張や証明が順序立てて展開されているので「論理を辿る」のが読み方である。ところが歌集は小さな章というか節というか、区分に分かれていて小題が付されているものの、ずらりと短歌が並んでいて、どこからどう読めばよいのかわからない。並んでいる短歌同士の関係もわからないのである。
「短歌をどのように鑑賞するか」という本はたくさん書かれている。しかし私の知るかぎり「歌集をどう読むか」を手ほどきする本はない。その理由はおそらく二つある。近代になって歌人は「歌集で勝負」がふつうになったが、出した歌集がどのように読まれるかまでは気が回らない。「読者論の不在」である。おまけに出版した歌集のほとんどは歌人仲間に贈呈され、「作者&読者=歌人」という等式が暗黙のうちに前提されているので、わざわざ読み方まで教える必要はないのである。おそらく大方の歌人には、「歌集をどう読めばよいかわからない」という人種がこの世に存在することすら頭に浮かばないだろう。短歌初心者の私はそのような人種だったので、今回は「歌集をどのように読めばよいのか」を体験を交えて書いてみたい。
【歌集題名】
歌集題名は作者の美意識の発露である。ゆめゆめおろそかにしてはいけない。藤原龍一郎『花束で殴る』のように、いつかタイトルにしようとずっと暖めていたという思い入れのある題名もあるのだ。春日井建『行け帰ることなく』、松平盟子『帆を張る父のように』、苑翠子『ラワンデルの部屋』のように、題名だけで詩になっているものもある。まず題名をじっくり味わおう。近頃味わい深い題名が少ないのが残念だ。
【帯】
歌集には帯があるものもないものもある。帯があると歌集の中身の重要な手がかりとなる。たとえば仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』の帯には、「夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで」という代表歌が大きく印刷されており、裏表紙側には「ここには、バルーンのように吹き上げられた言葉たちの世界がある。かつて短歌形式が、これほどの浮力を持ったことがあっただろうか」という清水哲男の文章が刻まれている。表に推薦文、裏に自選数首という形式も多い。自選の歌を見ればどのような傾向の歌人かがわかる。
【歌集の構成】
書き下ろしの歌集というのはまずない。ふつう歌人は数首または数十首を短歌雑誌や結社誌・同人誌に発表し、それをまとめて歌集を編む。だから一巻の歌集に収められた歌の制作時期は数年にわたることが多い。これも歌集の特徴で、歌集の中には時間の流れが伏在しているのだ。
歌集の構成には編年体・逆編年体と、制作時期とは無関係に構成したものとがある。編年体は歌を制作した順番に並べたものである。「塔」のようにアララギの流れを汲む流派は歌と実生活の繋がりを重視するので、編年体を採ることが多い。女性歌人だと、短歌を作り始めた大学生の頃の歌に始まり、恋愛・失恋から結婚・出産(時には離婚)の歌が年代順に並び、さながら「女の一生絵巻物」を見るようだ。こういう場合は作者の人生に寄り添うような気持ちで読むのがよかろう。歌も日々の生活から生まれたものが多い。
逆編年体は最も新しい歌を最初に置き、昔作った歌は後に置くという、編年体の逆を行く配列である。実例は少ないが資延英樹『抒情装置』がそうだ。編年体だと若書きで下手な歌が最初に来るので、それを嫌って最近作った自信作を巻頭に起きたい時に逆編年体を採るようだ。従って逆編年体を採る歌人は、ありのままの自分よりも最高のパフォーマンスをしている自分を見てもらいたいという人だ。自信家といえよう。
制作年代に関係なく歌集を再構成する歌人は、「日々の歌」「折々の歌」という日常詠を否定し、自分の美学に貫かれた世界を構築したいと望む人である。日々の生活から歌が生まれるタイプではなく、美意識に基づいて作歌する人が多い。
とはいえ実際には編年体を中心にしながら、素材に応じて一部歌の順番を入れ替えたなど、ミックス型の歌集のほうが数は多いかもしれない。
【歌の種類】
歌は詠まれた題材によっていくつかの種類に分かれる。たとえば『角川現代短歌集成』を見ると、第1巻は生活詠、第2巻は人生詠、第3巻は自然詠、第4巻は社会文化詠となっている。第1巻の生活詠の中身は、生老病死・挽歌、日常生活・衣食住・料理・食品など、仕事・家事、人・友・出会い・別れ・感謝・懐旧、旅、都市・街、交通・乗り物、趣味・遊び、家電・機器となっている。挽歌と職場詠は除くとして、まさに生活即短歌(by土屋文明)である。このうち卑近な日常を詠んだものを身辺詠ということもある。ちなみに第2巻の人生詠は、身体、人間、感情、人智・能力、人生、愛、夫婦・親子、家族となっている。このうち人生の来し方行く末に想いを馳せる歌を境涯詠と呼ぶこともある。ここまでを大きく括ると、生活詠、職場詠、境涯詠、挽歌、相聞となり、これに自然詠・社会詠を加えると、ほぼ網羅することになる。
勅撰和歌集の部立ては春・夏・秋・冬・恋・雑で、古典和歌は自然詠と相聞が中心だった。とはいえそれは素材の話で、実際は歌のテクニックを競い合うのが主眼である。これにたいして「自我の詩」である近代短歌は生活詠が中心になる。
さて、歌集を読むときまず問題になるのは、誰かが怪我したとか、どこかに子供が生まれたとか、古家の屋根が雨漏りするとかいう歌を読んで何がおもしろいのかである。ここをクリアできなければ、短歌を読むことはほぼムリと言ってよかろう。
十幾年そのままにして過ぎて来つ外れる雨戸のことのみならず 柴生田稔
包帯で吊ったあなたの右腕がおほきな鳩のやうな春昼 目黒哲朗
白粥にひかる塩ふり掬ひゐつ起きてわが身のあらたまる日に 横山未来子
一首目は「外れる雨戸のことのみならず」に「ああ、作者は雨戸以外にそのままにして来て気にかかることがあるのだな」という想いを読み取るのがポイントだ。「だから何じゃい」と言われると困るが。二首目は骨折してギブスを付けた恋人の右腕を、うららかな春の日の鳩に喩えた優しさが読みのポイントである。三首目は病に伏せった後、少し回復して白粥をすすれるようになった日の感慨を、「身のあらたまる」と表現した歌。いずれも些細なことながら、それが定型に詠まれることによって、アルバムに貼ったスナップ写真が修学旅行の大事な思い出になるように、人がこの世に生きた証となる。捉えられているのは「瞬間の生の輝き」で、これに感動するのが短歌を読むということに他ならない。
【連作】
すでに述べたように、歌集はどこかに発表した数首や十数首のまとまりを編集したものである。元の数首や十数首は連作という形式を取っている。たとえば中部短歌会の結社誌『短歌』2016年6月号には主宰大塚寅彦の次の五首が載っている。
千年時計
樹木より生れたるプラスチックもて組まれし時計ゆつたり廻る
千年の時計は人の絶えしのち時を刻むか何をか待ちて
〈謎〉のめぐるローター想はせてひめやかにあまた歯車動く
囓られし林檎を終の謎として同性愛者アラン逝きにき
iPodのロゴの林檎の欠落を見るなく人ら恋唄を聴く
冒頭の「千年時計」は連作の題名である。さあ、この連作をどう読むか。まず一首目は読者を連作の世界に誘い込む役割がある。特に名前はないが仮に「導入歌」と呼んでおく。題名の「千年時計」を見て、「何じゃこりゃ」と思った読者に、わかりやすく謎解きをして説明している。お手本のような導入歌である。
千年時計とは愛知県のナルセ時計が実際に作った時計で、西暦4999年まで日付の表示が可能だそうだ。それを次の歌が受けて、人類が絶滅した千年後の未来に時を刻む時計に思いを馳せている。三首目では千年時計から第二次大戦中にドイツ軍が用いていたローター式暗号機エニグマを連想している。四首目ではエニグマの解読法を考案したイギリスの数学者アラン・チューリングへと移り、死の床に落ちていた囓られたリンゴに思いを馳せる。チューリングの死は青酸中毒死であったと言われているが、謎のままである。五首目では囓りかけのリンゴから、アップル社のロゴを連想し、iPodでラブソングを聴く現代の若者たちで終わっている。千年時計から人類が死滅した未来へと飛び、また第二次大戦の過去へ遡行し、最後に現在に着地するという見事な構成の連作である。わずか五首の中に、我らが時の囚人であること、先の大戦、未来に待ち受ける核戦争の脅威、春日井建譲りの同性愛というテーマ、そして現代風俗が盛り込まれていて間然とするところがない。
このように連作はそこに集められた全部の歌が同じテーマを扱うものではなく、自由な連想によって他のテーマに飛んだり、メインテーマとはちがう内容の歌が挟み込まれていたりする。単調になることを避けて、主題に膨らみを持たせるためである。だから読む側も、ガイド付きの半日ツアーに参加したつもりで、「おっと、ここでこう来るか」と展開を楽しむのが正しい読み方と言えるだろう。
【秀歌と地歌】
連作には秀歌ばかりが並んでいるということはない。それは当たり前だ。他の歌より優れている歌が秀歌なのだから、秀歌の隣にはつまらぬ歌がなくてはならない。ではつまらぬ歌には存在価値がないのかというとそうではなく、秀歌を秀歌たらしめているのはつまらぬ歌である。だから一冊の歌集には少数の秀歌と大多数のつまらぬ歌があることになる。つまらぬ歌を地歌という。広辞苑にも載っていない用語だが、何人もの人が使っているのを見たので、歌人のあいだでは使われているのだろう。ゲシュタルト心理学でいう「図と地」の「地」に当たる。地あっての図だ。
したがって歌集を一冊読むということは、大量のつまらぬ歌を読むということである。だから歌集を通読するのは根気がいる。登山に喩えてみればよい。足場の悪い登山道を延々と登ったり、藪漕ぎをしている時は楽しくも何ともない。なぜそんな苦労をするかというと、頂上には素晴らしい景色が待っているからである。
これと同じように、つまらぬ歌地帯を抜けているときは実に退屈だが、やがて待望のよい歌に出会う。すると地獄で仏に出会ったようにその歌から後光がさす。かくして秀歌が生まれるのである。
歌集を読み始めた頃の私にはそのことがわからなかった。だからどの歌も同じように力を込めて読んでいたので、そのうち疲れてしまい一冊を読み通すことができなかったのである。歌集を読むときには、集中力を6割くらいに下げて並んだ歌に目を走らせる。秀歌センサーはオンにしてあるので、センサーに引っかかる歌が出て来たときに集中力を一挙に上げて秀歌をしばし味わい付箋を付ける。これが正しい歌集の読み方である。
「大量のつまらぬ歌」と書いたからといって歌人諸氏は落胆するには及ばない。逆転満塁サヨナラホームランは凡打と空振りの山の上に生まれるのである。
【間テクスト性】(上級編)
大きく言えばどんな歌も過去に詠まれた歌を滋養とし下敷きにしている。だからどんな歌にも過去の歌との遠くまた近い関係が潜んでいる。この関係に気づくのも歌集の読み方のひとつである。
生まれ来む君を待ちつつ鶏鳴の霧降る町に蹲りをり 内藤明
この歌では「鶏鳴」に「あかとき」とルビが振られている。「けいめい」とも読み、一番鶏が鳴く明け方を意味する。このルビがどうもくさい。調べてみると万葉集に次の歌があることがわかる。
妹を思ひ眠の寝らえぬに安可等吉の朝霧ごもり雁がねそなく
相聞歌である。本歌の「朝霧ごもり」が内藤の歌では「霧降る町」に変えられている。本歌は恋人か妻を思う歌だが、内藤では生まれて来る子供を思う歌になっている。歌に「鶏鳴」を置くことで、背後に万葉集を浮かび上がらせて歌に奥行きを与えている。プロのテクニックである。
【歌集を入手する】
短歌を読み始めたとき私がいちばん困ったのは、書店で歌集が手に入らないということだった。穂村弘や東直子や河野裕子のような人気歌人の歌集は書店に置いてあるが、それもごく少数である。ながらみ書房の『私の第一歌集 上下巻』の巻末に、収録された歌人に行った「あなたは何歳の時にはじめて歌集を出版したか、発行部数は何部だったか」というアンケートがあり、回答を見ると発行部数はほとんど200部から500部くらいである。その大部分は先輩歌人や歌人仲間や親戚縁者に寄贈されるので、寄贈の輪に入っていないと入手できない。高名な歌人は、国文社の「現代歌人文庫」や砂子屋書房の「現代短歌文庫」に収録されており、また『現代短歌全集』(筑摩書房)もあるが、そこまで有名でない歌人の場合、通常の流通ルートでの入手は難しい。
どうしても入手したいとき、取る手立ては 1) 出版社に直接注文する 2) 歌人に直接連絡する 3) 古書を探す の3つある。
ほとんどの出版社はホームページを開いており、そこから注文することができる。代金は郵便振替などで支払う。ただし在庫がなければ入手できない。それでも歌人の手元には何冊か残っていることもある。歌人の連絡先は『短歌研究』12月号の短歌年鑑、および角川『短歌』の12月号に住所録があるので知ることができる。私も最初のうちは何度か歌人に直接連絡して歌集を譲ってもらったことがある。中山明『愛の挨拶』や横山未来子の『樹下のひとりの眠りのために』などはこうして手に入れた。
歌人の手元にも残っていないときは、古書で探すしかない。最近はネット上での古書販売が充実したので、根気よく検索していればたいていは見つかる。ただしレアものは値が張る。私がネットで買ったいちばん高価な古書は三枝昂之の『水の覇権』か松平修文の『水村』のどちらかだが、2万円くらいした記憶がある。
それでもたとえば黒木三千代『貴妃の脂』(砂子屋書房 1989年)のような「幻本」は見つからない。どうしても読みたければ、持っている人に貸してもらうか、図書館に行くしかない。試みに検索すると、『貴妃の脂』は国会図書館と石川県立図書館と広島市立中央図書館に所蔵されていることがわかる。遠いからとあきらめることはない。近くの公立図書館に出向いて申し込めば、図書館同士の相互貸借制度で借りることができる。私は山崎郁子の『麒麟の休日』をこのやり方で読んだ。
予想以上に長くなったが、短歌に興味を持ち、これから歌集を読もうとしている人の参考になれば幸いである。