第192回 高柳克弘『寒林』

標無く標求めず寒林行く
              高柳克弘『寒林』

 清家雪子せいけゆきこのコミックス『月に吠えらんねえ』が矢鱈おもしろい。今時珍しい文学マンガである。舞台はどことも知れぬ□街という街。「しかくがい」と読む。「しかく」とは「詩歌句」で、詩人・歌人・俳人が住む街である。どうやらここ以外にもっと景気のいい小説街とか政治街などがあるらしい。なかでも□街はとびきりの変人たちの住む街である。主人公はさくくん。『月に吠える』で日本の近代詩を確立した萩原朔太郎である。徐々に明らかになるのだが、□街というのは朔太郎の脳内世界らしい。主な登場人物は朔くんが師と仰ぐはくさん、こと北原白秋は女性にもてまくり。悩んで放浪の旅に出る犀くん、こと室生犀星は朔くんの親友。二人が会話する喫茶店Cafe JUNのマスターは西脇順三郎、朔くんの家に押しかけ書生として通うミヨシくんは三好達治。オートバイに乗りときどき銃をぶっ放す危ないチューヤくんは中原中也という具合で、詩壇・歌壇・俳壇総出演である。中でも笑ったのはアララギ正統派のキョシこと高浜虚子と新傾向俳句のリーダー・ヘキゴトこと河東碧梧桐の対立がボクシングの試合になっている場面だ。互いに自信作を繰りだして相手をノックアウトしようとするのだが、キョシのサポーターはスジューとセイホというあたりでクスリと笑う。外野では短歌でも試合をやろうと提案があり、「アララギ」と「日光」の因縁の対決の出場者は白さんとモッさんこと斎藤茂吉。解説はシキさんこと正岡子規とアッコさんこと与謝野晶子との提案に、「モッさんに恨みはないよ。やるなら島木のレッドだろ」と白さんが返すあたりでもう爆笑。
 折しも詩誌『ユリイカ』8月号が「あたらしい短歌、ここにあります」という特集を組んだ。このタイトルも木下龍也の『つむじ風、ここにあります』のもじりである。穂村弘と最果タヒの対談や、編集部による鳥居のインタビューなど、なかなか読ませる内容だが、真打ちは黒瀬珂瀾による清家雪子のインタビューである。黒瀬も驚いたと述べているが、『月に吠えらんねえ』の巻末には膨大な国文学の参考文献表が付されている。どうやってこれを読みこなしたのかとの黒瀬の質問に、国文学の研究者を目指したことがあるので、資料の収集や読み込みは馴れていると清家は答えている。ああやっぱりと思った。『月に吠えらんねえ』はマンガ家の単なる思いつきで描けるようなものではない。俳句や短歌や近代詩を愛情を持って読み、研究書も読み込んで構想を長い間温めていたはずだ。また『月に吠えらんねえ』では戦争と文学が大きな主題になっているのだが、これも構想段階からあったものだという。多くの詩や短歌や俳句が作中に引用されており、近代詩歌を作り上げた先人たちへのオマージュとなっている。ぜひ一読を勧めたい。
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 さて、俳壇のプリンス高柳克弘も□街の立派な住人であることは疑いない。『寒林』は『未踏』(2009年)に続く第二句集。第一回田中裕明賞を受賞した『未踏』はその清新な作風で注目を集めた。『新撰21』に解説を寄せた高山れおなは、「些末写生や季題趣味が横行する『結社の時代』の黄昏」のなかにあって、高柳は「写生と抒情の相互浸潤による詩的昇華へと一旦立ち帰る」が、その後「融通無碍なる詩精神を獲得」したと評した。

在ることのあやふさ蝶の生まれけり  『未踏』
ストローの向き変はりたる春の風
キューピーの翼小さしみなみかぜ

 さて、『未踏』に続く第二歌集『寒林』であるが、まずそのタイトルに注目したい。第一歌集の『未踏』は俳句において未踏の高みを目指すという青春の宣言であり向日性は疑うべくもない。一方、『寒林』は、字義どおりの意味は冬枯れした林で冬の季語であるが、かつてインドは王舎城近くにあった林で死体を遺棄する場所だったという。転じて寒林は墓地を意味することもある。ただの寒い林ではないのである。掲出句「標無く標求めず寒林行く」の「しるし」は、自他を区別する標識、紋所や旗を指すが墓標の意味もある。この句に揺曳するのは死の影である。したがってこの句は、「紋所や旗など自分の標識となるものを求めることなく孤絶の道を行く」という述志と読めるが、また同時に「俳句の世界に自分が入る墓はなく、安住の墓を求めることなく限りない道を行く」とも読めるのである。
 小川軽舟は『未踏』に寄せた序文の末尾で、「やがて高柳君は、波郷や湘子がそうしたように、青春詠の時代を遠い故郷として捨て去り、見晴るかす荒地に足を踏み出すだろう」と書いたが、師の慧眼恐るべし。『寒林』の世界はまさに見晴るかす荒地と言えよう。
 『未踏』には「風鈴や長き休みの厚き本」、「マフラーのわれの十代捨てにけり」といったいかにも若さを感じる句があったが、作者も三十代を迎えて句境が変化するのは当然である。その変化をひと言で表現するのは難しいが、第一歌集ではキラキラして真っ直ぐだった眼差しが、『寒林』では複雑な陰影を帯びてときにふと曇る感じと言えばよいだろうか。

見る我に気づかぬ彼ら西瓜割
雪投げの母子に我は誰でもなし
片隅にグッピーの死や美食会
踏み入れば我も影なり夜鳴蕎麦
神は死んだプールの底の白い線

 一句目、夏の砂浜で西瓜割に興じている若者たちを少し離れた場所から見ている。若者たちに気づかれていない私はここに存在しないのと同じである。二句目、珍しく都心に雪が積もった冬の朝、雪合戦に興じている母子を見ている私もまた無の存在である。よく似た構造を持つこの二つの句は、やや大仰に言えば作者の心に芽生えた存在論的疑念を表している。このような句に「ふと曇る眼差し」を感じる。三句目、美食に舌鼓を打っているレストランの片隅に置かれた水槽でひっそりとグッピーが死んで行く。一句目と二句目には「今を熱中して生きる現在」と、「今・ここ」から一歩身を引いて眺める冷静な孤心の対比があったが、三句目にも同じ構造を認めることができる。四句目はややちがっていて、深夜の屋台のラーメン屋が舞台である。屋台のラーメン屋にはよく暖簾がかかっていて、横を通り過ぎる時、中に座ってラーメンを食べている客は暖簾越しに影として見える。ところが今度は自分が客となって屋台に座ると、自分が影となるというのである。しかし自分が影として見えるということは、外からそれを見ている視線があるということである。ここにもやはり少し離れて見ている視点が存在する。五句目はまたちがっていて、「神は死んだ」というニーチェの言葉は近代人の実存状況を端的に述べたもので、それが輝く夏のプールの線と取り合わされているところがポイントか。晩年の藤田湘子の薫陶を受けただけあって、季語を中核とする俳味に終わらず抒情詩となっている点が味わいと言える。ちなみに季語は、「西瓜割」夏、「雪投げ」冬、「グッピー」夏、「夜鳴蕎麦」冬、「プール」夏。
 やや気になるのは本句集には次のようなペシミスムの色濃い句が多くある点である。

ぶらんこに置く身世界は棘だらけ
嗚咽なし悲鳴なし世界地図麗らか
この国のをはりに雨のかきつばた
冷房に黒き想念湧きやまず
初茜地を焼く星のいつか降る
この世から消えたく団扇ぱたぱたと

 あとがきに「特に後半の句には厭世の気分が濃い」とあるので、自分でも自覚しているのだろう。特に二句目では、世界地図に嗚咽なし悲鳴なしと述べることで、現実の世界には嗚咽と悲鳴が溢れていることを炙り出していて注目される。また五句目の「初茜」は正月元旦の明け方の空で、本来ならば希望と祝福のシンボルなのだが、地球を焼き尽くす隕石が降るという不吉な幻視をしている。『未踏』には見られなかったテイストの句であり、このような句にも作者の「眼差しの陰り」がある。
 本句集は2009年から2015年までの作を集めたもので、2011年の3.11を跨いでいる。大震災に寄せた句は「災害の地にて」という詞書きを持つ次の二句に留まる。

瓦礫の石抛る瓦礫に当たるのみ
サンダルをさがすたましひ名取川

 二句目の「名取川」は宮城県を流れる川で閖上ゆりあげで太平洋に注ぐ。閖上地区は先の大震災で甚大な被害を受けた場所である。同時に名取川は歌枕でもあり、「陸奥みちのくにありといふなる名取川なき名とりては苦しかりけり」という『古今集』に収録された壬生忠岑みぶのただみねの歌がある。また狂言では、希代坊と不肖坊という二つの名をもらった僧侶が帰国する途中で名取川を渡るときに、転んでその名を忘れ、流れた名を笠ですくって拾おうとするという演目がある。高柳の句はこれらをすべて踏まえているのである。無くした名を探すとサンダルを探すが時空を超えて呼応し、津波で水死した死者がサンダルを探すという悲痛な句となっていて印象深い。
 集中では次の句がとりわけ印象に残った。

夏蝶やたちまち荒るる日の中庭パティオ
皆既日蝕ゼリーふるへてゐたりけり
夜も力抜かぬ鉄路よ去年今年
手毬つく紅唇すこしゆるみをり
蝶わたり文字渡り来し夏の海
夏館画商に犬の吠えかかる
日盛や動物園は死を見せず
絵の少女生者憎める冬館
小説を伏す船窓の寒潮に

 高柳の蝶好みは相変わらずと見える。上に引いた中では六句目や八句目・九句目に物語性が濃厚である。「夏館なつやかた」は夏に涼しいようにしつらえた家を言うが、画商が通うくらいだから庭に木が鬱蒼と茂るひっそり佇む洋館を思わせる。九句目は対をなすような冬館である。絵に描かれた少女はすでにこの世にない、先代の女主人か、若くして川で溺れ死んだ現当主の姪か。少女には生者を憎む理由があるのだ。九句目は冬の船旅で、小説を読んでいるくらいだから一人旅である。小説に倦んで丸窓から寒々とした冬の海を眺める視線に軽い倦怠と鬱屈が感じられる。
 石川美南、川野里子、小島なお、高柳克弘、東直子、平岡直子、平田俊子、三浦しをんによる同人誌『エフーディ』第2巻(2016年5月刊行)は、九州の竹田吟行特集を組んでおり、高柳は黒一点のメンバーとして参加している。なんでも竹田は川野の故郷だという。みんなでエッセー、短歌、俳句を寄稿している。『寒林』に収められた「寒林の空や飛ぶものかがやかす」「寒林を鳥過ぎ続くもののなし」はこの同人誌が初出である。高柳は次のような短歌も寄稿していて達者なものだ。

銭湯が飯屋に化けるその町に黄花コスモス盛りなりけり
空井戸におういおういと声掛けて夜も更けたる骨牌会かな
血の流れ沁みたる土にあをあをと夏の名残のとのさまばつた

 どういう経緯で生まれた同人誌かは知らないが、□街プラス小説街の交流はとても楽しそうで、もはや「島木のレッド」の苛烈さはない。もって瞑すべきか。