東直子・佐藤弓生・千葉聡編著『短歌タイムカプセル』(書肆侃侃房)が出版された。近現代歌人115人のアンソロジーである。歌人はあいうえお順に配列されており、最初は安藤美保で最後が渡辺松男。物故者も含めて戦後から2015年までに歌集を出した人という基準で選ばれている。各人自選20首の歌と三人の編者の手による一首鑑賞が見開き2頁にコンパクトに収められている。1970年以降に生まれた若手に限った山田航編『桜前線開架宣言』(左右社、2015年)と並んで、常に机上に置いておきたいアンソロジーの好著が出たことはまことに喜ばしい。
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今回取り上げる伊波真人は1984年生まれ。学生時代は早稲田短歌会に所属し、その後「かばん」に入会。2013年に「冬の星図」により第59回角川短歌賞を受賞している。同時受賞は吉田隼人の「忘却のための試論」。ちなみに「伊波」は沖縄の名字で、民俗学者の伊波普猷が有名だ。伊波真人も遡れば沖縄にルーツを持つのだろうが、生まれは群馬県高崎となっている。第59回角川短歌賞が発表された角川「短歌」の2013年11月号を見ると、受賞者二人の「受賞のことば」が並んで掲載されている。右ページが吉田、左が伊波で、「わせたん」出身の二人が同時受賞だ。さすがは大学短歌会の名門「わせたん」である。『ナイトフライト』は受賞作「冬の星図」を含む第一歌集で、書肆侃侃房の新鋭歌人シリーズの一巻として、昨年(2017年)のクリスマス・イブに上梓された。
一読した印象は「鮮明な映像に切り取られた清新な青春歌集」というところだろうか。最近出版された歌集のなかでは最も青春性が色濃く、かつ露悪的でも自虐的でもない。これは昨今珍しいことと言わねばなるまい。略歴によると伊波の職業は映像ディレクター、デザイナー、フォトグラファーとなっており、映像・画像を扱うのが仕事である。そのためか短歌も映像鮮明なものが多い。歌集のあとがきにも「短歌を作るのは、カメラで世界を切り取るようだった」と書かれている。
夜の底映したような静けさをたたえて冬のプールは眠る
踊り場に落ちた窓枠の影を踏む平均台をゆく足取りで
日陰から日陰に移る束の間に君のからだは日時計になる
真夜中のカーディーラーの展示車は何の罪だかその身をさらし
もう君に会うことはない ゴダールのフィルムのなかの遠い街角
一首目は夜の学校のプールの光景である。冬だがプールの水は抜かれずにある。だからプールの中は一層暗い。夜なので無人で照明もなく、わずかに届く光に照らされている。水の暗さがまるで夜の底のようだという歌である。二首目、階段の踊り場に窓枠の影が落ちている。窓から差し込む光と床の影のコントラストが鮮明だ。三首目は逆で、建物と建物の間か、木と木の間を通るとき、君の体が光に包まれる。ここにも鋭角に切り取られた光と影がある。四首目は深夜の都会の光景で、自動車の販売店のショーウィンドウに最新の車が展示されている。照明は落とされているが、通り過ぎる車のヘッドライトに照らされて、意味もなく磨き上げられた新車の姿が浮き上がる。五首目は恋人との別れだろうか。決別宣言に続くのは、戦後フランスのヌーベルヴァーグの旗手ゴダールの映画の光景である。きっと白黒映画にちがいない。さらに掲出歌「傘の柄のかたちの街灯つらねては雨の気配に満ちる国道」を見ると、「傘の柄のかたち」という映像的な喩が秀逸だ。この歌に詠まれた光景もまた、映画のカメラか写真機のファインダーで切り取られたかのようにピントが合っている。
僕たちはパズルのピース面積の半分ほどがベッドの部屋で
電線がひかりを弾き朝はきて天才たちはいつも早死に
この夏の予定をすべてあきらめて海のにおいの暗室にいる
海岸に借りた車を停まらせてポップソングになれない僕ら
恋人の夢のほとりに触れぬようベッドの際に浅く腰掛け
青春性を色濃くまとう歌を拾ってみた。一首目は狭い部屋で雑魚寝をしている光景だろう。若者たちがジクソーパズルのピースのように床に寝ているのだ。二首目はその翌朝か。天才と夭折に憧れるのは青春の特権である。三首目は写真部の部活動か卒業制作のためにひと夏を暗室に過ごす青春のひとコマ。四首目、友人に借りた車を走らせて海岸に向かっても、ポップスの中のカッコいい主人公のようにはなれない。
一読してわかるように、語法は平易で歌意にブレもなく、過不足なく言葉が使われている。「かばん」は自由な歌人集団なので、結社のように師事する歌の師がいるわけではない。伊波はどんな歌人から影響を受けたのだろうか。
てのひらのカーブに卵当てるとき月の公転軌道を思う
六月のやさしい雨よ恋人のいる人が持つ雨傘の赤
あかつきの郵便受けの暗がりは祈りのようなしずけさを持つ
空の目はそこにあるのか愛眼のメガネの看板中空にあり
橋の名の駅をいくつもつなげては水を夢見る東京メトロ
スプーンがカップの底に当たるときカプチーノにも音階がある
伊波の歌の魅力は言葉に過度の負荷をかけない表現の素直さにあると思う。前衛短歌の影響を受けた人は多かれ少なかれ言葉に負荷をかける。それが言葉の詩的強度となって現れることもあるのだが、伊波の歌にはそのような傾向が希薄である。今回伊波の歌と吉田隼人の歌を改めて読み比べてみると、言葉に向かう姿勢のちがいが鮮明だ。審査員に「表現のデパート」と評されたほど吉田の言葉は過剰である。それもそのはずで、仏文学徒でジョルジュ・バタイユの研究者である吉田は、「素直な表現」など薬にしたくもないにちがいない。谷崎潤一郎や三島由紀夫のように、人倫を超えた地点に美を見いだそうとするのだから、勢い言葉が過剰になるのだ。そのパワーに較べれば伊波の歌はずっとおとなしく見える。そのために損をすることもあり、角川短歌賞の選考座談会では、「一連全体に前に出てくるインパクトがなかった」とか、「強いパワーがない」などという感想をくらっている。しかしながらこれもまたひとつの個性にはちがいない。
上に引いた歌で注目したのはまず一首目、月の軌道は円ではなく楕円であり、月は地球に近づいたり遠くなったりしている。最も近づいたときがスーパー・ムーンである。この歌では月の軌道を卵の形状に重ねている。卵の歌はずいぶん収集しているが、月の軌道に喩えた歌は初めてだ。次に二首目、男が赤い傘を持っているのは、恋人の傘を借りたせいだという内容もさることながら、薄暗い六月の雨の中に一本だけ赤い傘があるのは色彩が鮮やかだ。季節はちがうが、先頃東京で展覧会があった写真家ソール・ライターの雪道を行く赤い傘の写真を思い浮かべた。また六首目、カップにカプチーノを注いだときはまだカップが冷えているので、スプーンで叩いたときの音程が低い。しかし徐々にカップが暖まってくると音程が上がる。そういう微細な現象を捉えたところが秀逸である。
表紙の装画は永井博、帯文はKIRINJIの堀米高樹という豪華な顔ぶれだ。伊波はデザイナーでもあるので、セルフ・プロデュースだろう。キリンジの音楽は私も昔から愛聴していて、伊波がキリンジの音楽をずっと聴いてきたということに、歌集の世界観と相通じるものを見つけたような気がして、妙に納得するのである。