おもしろい本が出た。穂村弘と堀本裕樹の共著『短歌と俳句の五十番勝負』(新潮社 2018年4月)である。堀本裕樹は角川春樹に師事したのち、独立して現在蒼海俳句会主宰の俳人。この本は穂村と堀本が与えられたお題で短歌と俳句を作るという題詠競作で、新潮社のPR雑誌『波』に連載されたものを単行本にまとめたものである。帯に斬り合う二人の忍者の写真があるが、別に優劣を競っているわけではない。短歌と俳句だけでなく、お題にまつわる短いエッセーが添えられていて、韻文と散文を交互に味わう形式になっている。一般の読者にとって韻文は敷居が高いので、散文を交えて近づきやすくしてあるのだろう。
おもしろいのはお題の出し方で、最初は穂村が「椅子」、堀本が「動く」を出しているが、それ以後はいろいろな人が題を出している。中には又𠮷直樹や荒木経惟やビートたけしのような有名人もいるが、大学生や小学生や牧師という人までいる。又𠮷に有季定型俳句の手ほどきをしたのは堀本だそうだから、堀本が「ちょっと出してよ」と頼んだ可能性はあるが、牧師とか書店員や整体師はどこから見つけて来たのだろう。担当編集者の個人的な知り合いだろうか。
出されたお題もおもしろい。荒木経惟の「挿入」はいかにもで、牧師の北村篤生の「罪」は少しストレートすぎるか。朝井リョウの「ゆとり」にはくすっと笑ってしまうし、壇蜜の「安普請」には感心する。その他、北村薫の「謀反」、モデルのリヒトの「逃げる」、西崎憲の「適正」など、作りやすそうなお題もあれば、苦労しそうなものもあり、歌人と俳人がどう頭をひねって句歌を絞り出したかを見るのが、この本のおもしろさである。題詠をするときは、出されたお題につきすぎると広がりがなくおもしろくない。特に俳人は「つきすぎる」のを嫌う。かといってあまりに発想を飛ばし過ぎるとお題から離れすぎてしまう。その加減が難しい。
いくつか拾って見てみよう。まず「まぶた」である。
左目に震える蝶を飼っている飛び立ちそうな夜のまぶたよ 穂村
料峭やかもめと瞼閉づるとき 堀本
身体部位のお題では、「眼」とか「髪」とか「手」などはよく詠まれるため、意味が付着していて類想に陥りやすい。「眉」や「ぼんのくぼ」などはあまり詠まれていないが、そのため発想が難しくなる。「まぶた」はどうだろう。試しに千勝三喜男編『現代短歌分類集成』の「まぶた」の項を見てみると、三首収録されている。二首だけ引く。
撫でおろしやさしくなだめわが強ひて眠らむとするがらすの瞼 斎藤史
睡りつつまぶたのうごくさびしさを君のかたえに寝ながら知りぬ 吉川宏志
これを見ると「まぶた」は睡りと関連して捉えられることが多いようだ。穂村の歌では夜に突然まぶたがピクピク痙攣して止まらないという体験が詠まれている。それを「震える蝶」と詩的に表現したところがこの歌のポイントだ。堀本の句の「料峭」は春の季語で、風がまだ寒く感じられることをいう。堀本は「かもめ」といえば、寺山の「人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ」を思い出すとエッセーで語っている。この歌を遠くに感じて作った句だろう。かもめが瞼を閉じる時に、〈私〉も瞼を閉じているのである。かもめが瞼を閉じるのは単なる生理的反応だが、〈私〉が瞼を閉じるのは何かを想っているからである。その「何か」が明かされていないために、句に奥行きと広がりが生まれている。ちなみに私はこの句を見たとき、「サタン生る汗の片目をつむるとき」という加藤楸邨の句を思い浮かべた。
次は高橋久美子の「カルピス」である。
虫籠にみっしりセミを詰めこんでカルピス凍らせた夏休み 穂村
カルピスの氷ぴしぴし鳴り夕立 堀本
エッセーでは二人とも子供時代の思い出を語っている。昭和の人間にとってカルピスは郷愁アイテムである。お中元に瓶2本入りのカルピスをもらうと子供は狂喜乱舞したものだ。ちなみに堀本の句では季語は「カルピス」ではなく「夕立」。期せずして二人とも氷を詠んでいるが、少しちがうのは堀本の句では水で薄めたカルピスに入れた氷だが、穂村の歌ではカルピス自体を凍らせてカルピスに入れるという点。子供の時遊びに行った友達の家でそうしていて驚いたそうだ。こうすると氷が溶けてもカルピスが薄まらない。読んでいて少し驚いたのは、穂村は意外に実体験に基づいて歌を作っているということてある。
西崎憲(フラワーしげる)が出したお題は「適正」。いやがらせとしか思えない難しい題である。「さあ、詠めるものなら詠んでみろ」という声が聞こえてきそうだ。二人はどう詠んだか。
火星移民選抜適正検査プログラム「杜子春」及び「犍陀多」 穂村
瓜番として適正を見るといふ 堀本
穂村の工夫は「適正」を「適正検査」というより大きな語句の一部として組み込んだところにある。しかしそのために大幅な字余りになっている。火星移民選抜に「杜子春」と「犍陀多」という誰もが学校で読んだ記憶のある小説を取り合わせているのがミソだ。やはり穂村の作歌にはノスタルジーがかなり原動力となっている。一方、堀本の句で「瓜番」は夏の季語だそうだ。畑に出没する瓜盗人を見張る役目である。「瓜番としての」適正ではない。何か別の仕事の適性を見るために、瓜番をさせるのである。そのややとぼけた所に俳味があるのだろう。
穂村が詠んだ歌では冒頭に挙げた「百葉箱の闇に張られし一筋の金なる髪を思うたまゆら」がよいと思った。しかし解説が必要である。昔の小学校にあった百葉箱の中には、毛髪乾湿度計なるものが入っていた。人の毛髪の伸び縮みの度合いで空気の湿度を測定していたのである。穂村によれば、その昔、毛髪乾湿度計には西洋人の女性、とりわけフランス人の金髪の毛が最適だとされていて、わざわざ輸入していたそうである。これには驚いた。私が通っていた小学校にあった百葉箱の中にも、フランス女性の金髪が一本張られていたのだろうか。穂村はこういう意外な事実を拾ってくるのが巧みである。「放射能を表す単位ベクレルの和名すなわち『壊変毎秒』」でも、ベクレルの古い和名が「壊変毎秒」であることを調べ出している。
堀本の句では次のようなものがおもしろいと思った。
秋扇のゆとりや時に海指して (題 ゆとり)
湯ざめして背骨の芯のありどころ (題 背骨)
濡れ衣を着せられしまま秋の蜘蛛 (題 着る)
巻末の二人の対談では、季語や切れなどをめぐって、短歌と俳句の生理のちがいも論じられていて興味深い。穂村が短歌を作るとき、対象をつい異化してしまい、「こうなったらどうなるだろう」と想像するので、じっくり写生をするのが苦手だと語っているのがおもしろかった。