第282回 橋場悦子『静電気』

歩道橋越えても踏切渡つてもだれかの家の前に行きつく

橋場悦子『静電気』

 おもしろい歌だ。歩道橋も踏切も人の移動を助けるために作られた設備だから、そこを通る人はやがては誰かの家に行き着く。それは当然のことである。しかし当然のことを頭の中でもう一度ひっくり返して改めて見つめると、なにやら不思議なことのように見えてくる。奥村晃作のただごと歌と似ているのだが、興味深いのは、作者が狙って作っているわけではなさそうだということである。歌集を読んでいると、作者の物の感じ方や立ち位置のベースラインがなんとなく体感されてくるものだ。本歌集を読むと掲出歌のような歌が少なからずあり、作者の物事の捉え方を直接反映しているようなのだ。実にユニークな歌集である。

 巻末のプロフィールによれば、橋場悦子は1980年生まれ。大東文化大学で開かれていた短歌実作入門講座に通った縁で「朔日」に入会し、外塚喬に師事する。『静電気』は2020年5月に刊行された第一歌集である。序文は師の外塚喬。

 文体は旧仮名遣いの文語定型で歌の多くは属目なのだが、読んでいて目に止まるのは次のようなぶっきらぼうで不思議な感触の歌である。

髪型を一昨日をととひ変へた「変はつたんぢやない」と訊かれてもいいやうに

「生きてるのが不思議なくらゐだ人間は」解剖医の声思ひ出す夏

相手からもわたしが見えるのを忘れひとを見つめてしまふときあり

あなたにはこのテストへの適性がないと言はれし適性テスト

マニキュアが男のためでないことは男以外はみな知つてゐる

壇蜜は嫌ひではない壇蜜を好きと言ひ張る女が嫌ひ

 一首目、「髪型を変えたんじゃない?」と訊かれてもいいように髪型を変えるとは、行為とその目的とが捻れているようで頭がくらくらする。二首目には「解剖医」という短歌では珍しい言葉が出て来るが、これについては後述する。「人間の身体は生きているのが不思議なくらい出鱈目だ」ということだろうか。三首目も意味は明らかだが、相手から自分が見えていることを果たして忘れるだろうか。四首目、適性テストを受ける適性がないとはまるでメタ適性みたいで、深い所で否定されたような気になるだろう。五首目、マニキュアが女性用の化粧品であることはある意味自明だ。しかし聞くところによると、ギタリストなど爪の保護が必要な人は男性でもマニキュアを使うらしい。六首目も四首目とちょっと似ていて、偶然かもしれないが「壇蜜が好きな女が嫌い」というメタ的関係になっている。

迷つても平気地球は丸いから 空の青さの沁みる十月

パンダには生きる意欲がないらしいクロレッツにはもう味がない

ボレロつて初めてぜんぶ聞いたけど最後のさいごまでボレロだね

足にまでひとには人差し指がありしかも我のはひときは長し

写真とは常に昔を写すもの鏡ほどにはおそろしくない

 一首目は大らかというか、いい加減というか。迷ったとしても地球は丸いのでぐるっと回って目的地に行き着くというとぼけた味のある歌。二首目、なぜパンダには生きる意欲がないと感じたのかわからないが、しばらく噛んだクロレッツに味がしなくなることとは何の関係もない。関係のないものが並置されることで妙な味わいが出る。三首目はラヴェルのボレロだろう。ボレロが最後までボレロなのは当たり前だ。途中からポロネーズになったりはしない。四首目、確かに足の指で人を差すことはしないので、足に人差し指があるのは不思議である。しかし自分の足の人差し指が長いことなど、取り立てて歌にするほどのことか。五首目、写真は昔なら撮影してから現像・焼き付けするまで時間がかかる。インスタント写真でも少しは待たなくてはならない。今のデジタルカメラでも、撮影してから保存し呼び出すのに少しかかる。だから写真とは常に過去の映像だというのである。言われてみれば確かにそうだと納得する。

 橋場の短歌はこのように生活上の些事を取り上げ拡大鏡で大きく見せて提示するものが多く、当たり前のことをことさら言い立てるとぼけた味わいがあったり、改めて言われるとなるほどと納得したりするものが多いのである。意図がやや違うかも知れないが、奥村晃作のただごと歌と一脈通じるものがあり、とぼけた味わいは相原かろと少し似ている。要するに他にあまり似た作風の歌人がいない、とてもユニークな歌のである。

 その結果と言えるかどうかよくわからないが、秀歌として取り立てる歌があまりない。というかもともと作者が秀歌を狙っていないと言ったほうがよいかもしれない。序文で外塚は、「意識して内容を詩的にするとか、表現をする上で奇を衒うことはしい。自然体で詠んでいる作品が詩的と見られるのは、天性と言ってもよいのかも知れない。(…)多くの人が見逃しているような些事を、的確に掬い取って作品として昇華させているのだ」と書いている。もし作者が自然体で詠んでいてこのような歌が出来上がるのだとしたら、それはおそろしい天賦の才と言わなくてはなるまい。

 そのことは作者の独特の喩にも見て取れる。

閉めきつた部屋にも深くはひり込む切り取り線のやうな虫の音

空つぽの弁当箱を持ち帰るやうだ心臓ことこと揺れて

胃袋は赤きほらあな最後にはどんな魚も溺れるだらう

 虫の音が切り取り線のようだとか、心臓の鼓動が空の弁当箱のようだとか、胃袋が赤い洞窟だというのは実にユニークな喩ではないだろうか。

 歌に詠まれた素材のユニークさには作者の職業から来るところもある。

押送車あふそうしや並んで停まる横を行く湿気の重きけふの東京

真顔より気持ち目元を緩ませて接見室の扉を開けぬ

特段の意味はなからう裁判所地下で圏外になる携帯電話けいたい

ダルメシアンは器物扱ひとなることが開廷前の雑談となる

卓上の鋏は仕舞へ取調修習前に指導されたり

カツ丼は食はせるのかと真顔にて尋ねられたる飲み会ありき

刑事より被疑者の署名の字のうまき供述調書もまれにはありき

 「押送車」なんて言葉は初めて見た。広辞苑を引いて「受刑者、刑事被告人を護送する車両」だと知った。作者の職場は裁判所なのである。裁判所と言ってもたくさんの職種がある。裁判官、事務官、書記官、廷吏などがいて、弁護士も裁判所に行くことがある。しかし「取調修習」という言葉があるので作者はおそらく検事だろう。前に出てきた「解剖医」という言葉もこの文脈に収まる。法曹界の様子が短歌に詠まれるのはとても珍しい。六首目を読んで思わず笑ってしまったが、容疑者の取り調べでカツ丼を食べさせるというのは、ひと昔前の刑事ドラマのクリシェだ。

 外塚の言う「些事を取り上げて詩とする」というのは次のような歌によく現れている。

最後尾の札は立てかけられてゐて誰も並んでゐない店先

動物に細胞壁がないことを満員電車でふと思ひ出す

春にまだ濃淡のあり黒猫がただ寝そべつてゐるごみ置き場

 だから私が付箋を付けた歌を引いておくが、次のような歌が橋場の個性をよく表しているというわけではないのである。こんなもって回った言い方をしなくてはならないのは、ひとえに作者のユニークな個性の故である。

跳びたくてイルカは跳んだと思つてた遠い夏の日の水族館

いかに深き穴にも言へぬことありて空濁る日のベランダに立つ

封印を解かれしごとく夏は来て泡立ち止まぬ雑踏の声

義母の手を握りて塗りしクリームの薔薇の香の残るてのひら

暗闇も熱を帯びゐる路地裏に白粉花の強く匂へり

はつなつの真昼の長き散歩して影の中では影を失ふ

贖(あがな)ひて帰る道みち片方の頬を翳らす竜胆の花

食べ終へた弁当箱に骨のあり魚を食べるといきものになる

ためらひの後ほそき橋渡るとき後ろ姿の華やぎて見ゆ