第299回 高野岬『海に鳴る骨』

もの割るる音してのちに上がるべき悲鳴を聞かず春のゆふぐれ

高野岬『海に鳴る骨』

 自宅のリビングにいると、同じマンションの別の家から「ガチャン」と何かが割れる音が響く。うっかり茶碗か皿を落として割ったのだろう。ふつうなら「アアッー!」というような悲鳴が聞こえて来るはずなのに、なぜか聞こえてこない。聞こえてこないことが不穏な気配を一層強めている。結句はその雰囲気にそぐわないうららかな「春のゆふぐれ」である。この歌は、一見穏やかに暮らしているように映る日常に潜む不穏さを掬い取っている。本歌集にはこのように、波の下に隠れて見えない岩礁のような危うさが立ち籠めているのである。

 先日、送られて来た歌誌「まいだーん」第3号を見ていたら、巻末近くに同人歌評があり、その中で紹介されていた歌に心引かれるものがあった。さっそく取り寄せたのが高野岬『海に鳴る骨』(2018年、角川文化振興財団)である。例によってまったく未知の歌人なのだが、短いプロフィールによると、2011年に「塔」に入会。2017年に第7回塔短歌会新人賞を受賞している。『海に鳴る骨』は塔21世紀叢書の一巻として上梓されているので、結社期待の新人なのだろう。栞文は、加藤治郎、川野里子、三井修。三井の栞文によると、2008年頃に三井が横浜のNHK文化センターで開いていた短歌教室に高野が参加したのが始まりだという。歌歴は10年ほどということになるが、すでに自分の文体と短歌世界を持っている人である。「塔」の優秀欄の常連というのも頷ける。

 本歌集に収録された歌を読んでいると、作者がどのような日常を送っているかがよくわかる。夫婦二人暮らしで子供はおらず、犬を飼っている。以前は東京の都心に住んでいたが、思うところあって夫は会社を辞め、数年前に葉山に引っ越して、目の前に海の見えるマンションの4階に暮らしている。夫はネクタイを締めて出勤する勤め人で、絵を描くのが趣味である。本人は専業主婦のようで仕事はしていない。料理が得意なようだ。

瑠璃色と藍に分かるる湾の水波はありつつ混じらずにをり

対岸の街のガラスの一枚が今のぼりたる朝の日に燃ゆ

ひとり掛けのソファをそれぞれ持ち寄つて海ある町に二人で暮らす

真夜中の海のおもてに満月がひかりの道を我にのばせり

海見つつ我等は日々に物を食む木の椅子ふたつ横に並べて

 本歌集のベースを成すのは、上に引いたような海の見える日常を詠んだ穏やかな歌である。海は暮らしの中で大きな位置を占めていて、ダイニングの椅子を対面に置かず横に並べるのも、二人が平等に海を眺めるためである。二人掛けではなく一人掛けのソファーを持ち寄って暮らしているというところにも、相手を尊重する夫婦の関係性がよく表れている。こうして引いた歌を見ると、何と言うこともない日常詠のように見える。しかしそういうわけではない。それは集中に次のような歌が散見されるからである。

「裏駅」と呼ばるる鎌倉西口で夫待つ我は故郷もなく

春の花抱へて待てば病院のエレベーターが深き口

よその家の味噌汁飲めぬことなども我が眷属のくらさと思ふ

いさなとり浜辺にをれば老人の失踪告ぐる放送流れ来

何に効く錠剤ならむ早朝の道に落ちゐるピンクの一粒

幸福であるんだらうなと思ふとき水平に飛ぶあしたのかもめ

本来は脱落してゆく一羽かも空ゆく鳥の群れから我は

 一首目、勤め帰りの夫との待ち合わせの場面だが、〈私〉は故郷喪失者だという思いが胸の奥深くにある。二首目は入院した父親の見舞いの場面で、エレベーターの入口はどこか地中の深い所に続いている。三首目、よその家の味噌汁が飲めないのは味覚に強いこだわりがあるからか、いずれにせよそれを眷属の暗さと感じている。四首目の浜辺に流れる失踪を告げる放送や、五首目の道に落ちているピンク色の錠剤は、何気ない日常にふと顔を出す闇である。六首目では、自分はたぶん幸福なのだという思いを横切るように鷗が飛ぶ。七首目は自己の孤独を自覚する歌である。どうやら傍目には平穏な日々の暮らしを送っているように見える作者の心の奥底には、ひと筋の暗い水が流れているようだ。それは決して珍しいことではなく、心の闇や毒は文芸にとって必要な原材料でもある。フランスの作家・批評家のモーリス・ブランショはかつて「文学は欠如(manque)から生まれる」と喝破したほどだ。

 それを除いても本歌集を読んだ時の独特の感覚を言い尽くしている気がしない。加藤治郎は栞文で、「何かを喪ってゆく感じの滲む歌集である」と述べ、喪ってゆくのは未来であるとしている。そういう見方も成り立つかもしれないが、私にはちょっとちがう印象もある。堅実に日々を暮らしながらも、ふとこの世から離脱するような感じというか、終焉の日から逆算して今を眺めているような印象すらある。たとえば次のような歌にそれを感じるのである。

珈琲にさらさら砂糖を入れながら幾つの季節が過ぎただらうか

君の亡きあとも浜辺を歩くだらうその日も鷗が飛び立つだらう

遺言を書くつまけ春のうた口ずさみつつ掃除す我は

いづれわれが君を撒くとふ湾は今朝釣り舟多し秋晴れにして

真夜の卓に二人の椅子の向き合ふをごく新しき遺跡と思ふ

オットマンに読みかけの本伏せたままぽろりと死んだりしさうで男は

縁石をつよく打つ雨見つつゐて明日あすには忘るる時を重ぬる

 一首目は単に時の流れの速さを詠んだ歌と取ってもよい。しかし二首目は夫が死んだ後に視点を置いて詠んだものである。作者の夫の年齢は知らないが、遺言を書くほどの高齢ではあるまい。ここにも未来の先取りが見られる。四首目にあるように、夫が死んだら目の前の海に散骨するという約束がある。五首目は二人が暮らすリビングを新しい遺跡と見ているのだから、これも視線を遠く未来に飛ばした歌である。六首目や七首目を見ても、この世は仮初めの宿と観ずる永遠の旅人のようだ。その感覚が本歌集に独特の味わいを与えている。そのような眼で読むと、たとえば「ひとつだけ飛び出たテトラポッドがある その頂にいつも鳥がいる」というような叙景歌も、にわかに新たな意味を帯電するようにも感じられるのである。

地下道に硬貨の落つる音のして行き交ふ人の目の光り合ふ

どの季節のどの時刻にも日の射さぬ床の間の隅にこけしが二躰

照り渡る冬の日のもと我に向く犬の耳殻の赤く透きゐる

烏賊の内臓わたごふつと流しに引き出しぬ墨の袋はみづかねの色

ネクタイは太刀魚のごとひらめきて夫の灼けたる頸に巻きつく

鳶たちが旋回しつつ昇りつつ空の底へと消えてゆくまで

眩むほど水かがやきぬ街を縫ふ細き流れを朝越ゆるとき

あるあした冷えた空気の浜に満つ ずつと叫んでゐたやうな夏

 特に心に残った歌を引いた。日常の些細な光景を掬い取る視線の確かさと、それを歌の言葉に乗せる技量が感じられる。四首目のような厨歌もいくつか収録されていて、この歌では「ごふっ」という擬態語がはまっている。ここには引かなかったが、愛犬を詠んだ歌には深い愛情が感じられる。

 「まいだーん」第3号に歌集評を書いた同人の為永憲司は、「昼下がりの静かな街で、昨日の雨をもう忘れている空を眺めているような、ここちよい空漠」と歌集の読後感を表現したが、なかなかに言い得て妙である。歌集には栞文の一部を引用した半透明の幅広の帯がかけられている。それをめくると表紙に描かれた絵が見えるのだが、描かれているのはオキーフばりの動物の骨である。歌集巻末近くに次のような歌がある。

犬のねむる海がこの夜鳴り止まずベランダに出て「おやすみ」と言ふ

の海に白く筋立て波の寄す いづれ我らの帰りゆく国

 愛犬は寿命を迎え、目の前の海に散骨されたのだろう。そこは時が満ちれば自分も帰って行く場所である。やはり本書はメメント・モリの歌集なのだ。

 「まいだーん」第3号の高野の近作とエッセイを読んで驚いた。どうやら葉山の住まいを引き払って、今度は信濃の山に転居したらしい。次のような歌を寄せている。

朝の日が毛を透かすから枝を走る栗鼠の体のほそさが分かる

山雀がぺこりぺこりと水を飲むどこかにあつたそんな玩具が

 どこかに漂白の想いがあるのか、一所不住と決めているのか。それはわからないが、海に代わって山の歌がたくさんできることはまちがいあるまい。