【文とは何か】
フランス語統語論を論じようと思えば、「文とは何か」という問を避けることはできません。しかし、「言語学者の数だけ文の定義がある」と言われるほど、文を定義するのはむずかしいのです。
佐藤房吉・大木健・佐藤正明『詳解フランス文典』(駿河台出版社1991)は、文を次のように定義しています。
1個の単語、または文法に則して配列された1群の単語が、ある思想や感情や意志などを表明している時、これを文 (phrase) と言う。1個の文は、例えば Oh ! là ! là !(やれやれ、なんてこった)のように間投詞だけから、あるいは Oui(そうだ)のように副詞だけから成る場合もあるが、ふつうは1個または数個の動詞を含んでいる。〔間投詞や副詞だけの文を語句文(mot-phrase)と言う〕(p. 408)
伝統的にはこのように、文とは「ひとつのまとまった思想や感情を表す」ものであり、いくつかの単語からできているが、Oui.のように1つの単語だけでも文となる場合がある、というように定義されることが多いようです。
しかし次の引用はこのような定義のむずかしさを示しています。
En grammaire traditionnelle, la phrase est un assemblage de mots formant un sens complet qui se distingue de la proposition en ce que la phrase peut contenir plusieurs propositions (phrase composée et complexe). Cette définition, qu’on rencontre encore dans certains manuels, s’est heurtée à de grandes difficultés. Pour définir la phrase, on ne peut avancer l’unité de sens, puisque le même contenu pourra s’exprimer en une phrase (Pendant que je lis, maman coud) ou en deux (Je lis. Maman coud.). Si on peut parler de « sens complet », c’est justement parce que la phrase est complète. En outre, on a posé à juste titre le problème de telle phrase poétique, par exemple, dont l’interprétation sera fondée uniquement sur notre culture et notre subjectivité, et de tel « tas de mots » ayant un sens clair et ne formant pas une « phrase » , comme dans Moi y en a pas d’argent.
(Jean Dubois et als. Dictionnaire de linguistique, Larousse, 1973)
伝統文法では、〈文〉とは、全体で1つのまとまった意味をなす語の集まりで、複合的な文や複文ではいくつもの節を含むことがあるという点で、節とは区別される。この定義は、今なお一部の教科書に見られるものだが、大きな難点がある。文を定義するために、意味のまとまりをもちだすことはできないのである。Pendant que je lis, maman coud.「ぼくが本を読んでいる間、ママはお裁縫をしている」と Je lis. Maman coud.「ぼくは本を読んでいる。ママはお裁縫をしている」のように、同じ内容が2つの文でも1つの文でも表現できるからである。《まとまった意味》と言えるのも、文がまとまっているからにほかならない。さらに、例えば、もっぱら我々の教養及び主観に基づいて解釈されるような詩的な文とか、moi y en a pas d’argent「ぼく、お金、ないの」のように、意味ははっきりしているが、《文》を形成しない《語の集積》のごときものとかの問題も、当然のことながら起こってくる。(伊藤晃他訳『ラルース言語学用語辞典』大修館書店)
上の引用で持ち出されている例「ぼくが本を読んでいる間に〜」は、1つの文からなる単文と、主節と従属節からなる複文のちがいを示すためのものです。終わりの方で引用されている Moi y en a pas d’argent.はくだけた話し言葉の言い方で、もう少し文法的に正しく書き直すと、Moi, il n’y en a pas, d’argent.となります。中性代名詞のenは最後のd’argentを受けているので、文法的には余剰で、話し言葉ではよくあることです。「僕、そんなものないよ、お金なんて」くらいの意味でしょうか。しかしだからといって「語の集積」と言うのは言いすぎのような気もします。
これよりもっと過激なものもあります。ムーナン (Georges Mounin 1910-1993) が編集した『言語学事典』には、なんと定義が5つも並べられているのです。
Il existe au moins cinq classes de définitions différentes de ce concept intuitif.
1/ Une phrase est un énoncé complet du point de vue du sens.
2 / C’est une unité mélodique entre deux pauses.
3/ C’est un segment de chaîne parlée indépendant syntaxiquement (… ) Autrement dit, la phrase (…) est la plus grande unité de description grammaticale. (…)
4/ Une phrase est une unité linguistique contenant un sujet et un prédicat.
5/ C’est un énoncé dont tous les éléments se rattachent à un prédicat unique ou à plusieurs coordonnés
(Georges Mounin (ed.) Dictionnaire de la linguistique, PUF, 1974)
「文」というのは直感的な概念であり、少なくとも5つの異なる定義群がある。
1/ 文とは意味の点においてまとまった1つの発話である。
2/ 文とは2つの休止に挟まれた音調単位である。
3/ 文とは統語的に独立した話線の切片である。(…)言い換えれば、文は文法が記述する最大の単位である。
4/ 文とは、主語と述語からなる言語の単位である。
5/ 文とはそれを構成するすべての要素が、1つまたは複数の述語の組み合わせと関係する発話である。
1/は「まとまった意味を表す」という伝統的な定義ですね。2/は音調曲線に着目したものです。イントネーションは文の始まりから上昇し、文の終わりで下降します。3/は文が統語的に最大の単位であることを述べたもので、ここには構造主義や生成文法の考え方が見られます。4/は文が主語と述語からなるとしています。これは上に引用した佐藤他の文法書や、Duboisの辞典にはなかったものです。5/は4/をさらにくわしく述べたものです。定義を5つも並べているのは、どれも満足のいく定義ではないからでしょう。
このようにすべてのケースに当てはまることをめざしたやり方とはちがって、たいへんユニークな考え方が橋本陽介氏の『「文」とは何か ─ 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)に見られます。それは「文とは、必要なことが必要なことだけ表されたものである」という見方です。次の例を見てください。
(1) A : 今日、いつ大学に行くの?
B : 3限目から。
ふつうはBの答の「3限目から」は完全な文ではなく、「今日、僕は3限目から大学に行く」が省略されたものされるでしょう。しかし、「文とは、必要なことが必要なことだけ表されたものである」という見方に立てば、これも立派な文です。これだけで必要にして十分なことを述べているからです。橋本さんはこのような考え方を野間秀樹氏の『言語存在論』(東京大学出版会 2018)から学んだようです。『言語存在論』では、言葉の意味が最初からあるのではなく、意味になるのだとされています。解読者(聞き手、または読み手)が、その言葉を解読する具体的な場において、その都度意味を作り出すのであって、言語は話し手から聞き手への単純な意味の伝達ではないということでしょう。(注1)
私はこのような考え方に賛成です。論理学と隣り合わせの西欧の言語学の伝統では、「完全な文」というものがあり、そこには現実を過不足なく表現するものだという思想が根強くあります。ですからこの基準にそぐわないものは、不完全なもの、省略されたもの、崩れたものと断じがちです。しかし、言葉の意味はあらかじめ文の中にあるものではなく、具体的な場において作り出されるものだと考えるならば、「完全な文」などなくなります。
【文は主語と述語からなる】
ムーナンの『言語学辞典』の文の定義 4/ にあるように、文は主語(仏 sujet / 英 subject)と述語(仏 prédicat / 英 predicate)からなるというのも西欧の言語学の伝統的な考え方です。それはアリストテレスにさかのぼると言われています。主語にあたるsubjectumは、sub-「下へ」と-jectum「投げられた」からなりますが、それは「今からこれについて話しますよ」と相手の前に提示されたものという意味です。ですからそれは話題の中心で、今日の言語学でいう「主題」(仏 thème / 英 topic)に近いものです。〈文 = 主語+述語〉という考え方は、代表的な英文法にも当然見られます。
文は、1語からなるものもあるが、通例は、「ある事柄について、何かを述べる」という形式をもっている。伝統的に、「ある事柄」の部分は主部 (subject)、「何かを述べる」部分は述部 (predicate) と呼ばれている。以下の例で、太字体の箇所が主部、斜字体の箇所が述部である。
(1) Birds sing. (鳥は歌う)
(2) The pupils went to a picnic.(生徒たちはピクニックに行った)
(3) The doors of the bus open automatically.(このバスのドアは自動的に開く)
(安藤貞雄『現代英文法講義』開拓社 2005)
上の引用に挙げられている例では、どれを主語と認定するかは特に問題がありません。しかし主語を「ある事柄について、何かを述べる」の「ある事柄」だとすると、次のような例では問題が生じます。
(2) Il est bien connu que Homo Sapiens est né en Afrique.
ホモ・サピエンスがアフリカで生まれたことはよく知られている。
この文で「ある事柄」は「ホモ・サピエンスがアフリカで生まれたこと」で、それについて「よく知られている」ことが述べられています。しかし (que) Homo Sapiens est né en Afriqueはこの文の主語ではなく、主語は非人称のilです。教室ではこのような場合、ふつうilは何も指さない「見かけ上の主語」(sujet apparent)であり、(que) Homo Sapiens est né en Afriqueが「実主語」または「真主語」(sujet réel) だと説明します。
次のような例も問題となります。
(3) Des touristes américains, on en trouve partout.
アメリカ人の観光客ならどこにでもいる。
この文は「アメリカ人観光客」について何かを述べている文です。しかし、Des touristes américainsは文頭に遊離 (détachement)あるいは転位 (dislocation)されていて、代名詞enで受けられています。代名詞enは文中では直接目的補語になっています。すると「アメリカ人観光客」はこの文の主語とは認められなくなってしまいます。そうなることを避けるために、Des touristes américainsは文法的主語 (sujet grammatical)ではなく、「心理的主語」(sujet psychologique) だとする考え方が生まれました。
主語には伝統的にもうひとつの考え方があります。それは他動的な動詞の動作の主体、つまり「何かをする人・物」を主語とする定義です。言語学では「動作主」(agent) といいます。
(4) Les députés socialistes ont critiqué vivement les politiques du gouvernement.
社会党の議員たちは政府の政策をきびしく批判した。
(5) Les politiques du gouvernement ont été vivement critiquées par les députés socialistes.
政府の政策は社会党の議員たちにきびしく批判された。
能動文の (4)では批判しているのは les députés socialistesですから、それが動作の主体で主語になっています。ところが受動文の (5) ではそうではありません。動詞の活用を支配している文法的主語はLes politiques du gouvernementで、les députés socialistesは動作主補語 (comlément d’agent) になっています。このように動作主が典型的な主語であるという考え方を保持するために、(5)でles députés socialistesは「論理的主語」(sujet logique) であるとする向きもあります。動作主を主語とする考え方は、フランス語は「直接語順」(ordre direct) の言語であるという考え方に基づきます。
しかし、「文法的主語」「見かけ上の主語」「心理的主語」「論理的主語」などのように、主語がまるでウォーリーのように増えるのは好ましいことではありません。現在では、「論理的主語」は意味論における「動作主」で、「心理的主語」は談話文法における「主題」であると整理されています。しかしこのようにいろいろな主語が提案されてきたことは、ヨーロッパの言語において〈文=主語+述語〉という思想の呪縛がいかに強いかを物語っています。
『象は鼻が長い』を書いた日本語学者の三上章はかつて「主語廃止論」を唱え、日本語では「主語という概念は百害あって一利なし」と断じました。またモントリオール大学の金谷武洋氏は『日本語に主語はいらない』(講談社2002)という本を出しています。確かに日本語ではそうかもしれませんが、主語が大きな役割を担っているフランス語ではそういう訳にもいきません。この点に関して、日本語とフランス語は類型論的に別のグループに属しています。何だかんだ言ってもフランス語には主語が必要なのです。 (この稿次回につづく)
(注1)橋本陽介『「文」とは何か ─ 愉しい日本語文法のはなし』には、文についてもうひとつの重要な指摘がある。それは、話し手の主観を表すモダリティこそが、文を成立させるものだという指摘である(p. 53)。モダリティというのは、「今日は暖かい」では「断定」、「洋子さんは元気?」では「疑問」、「柴漬け食べたい」では「願望」などの話し手の判断を指す。これは日本語学特有の「陳述論」に基づく考え方で、ヨーロッパの言語学には見られないものである。「陳述論」はフランス語学にも貢献できる重要な考え方なので、また別の場所で取り上げたい。