第317回 山崎聡子『青い舌』

背泳ぎで水の終わりに触れるとき音のない死後といわれる時よ

山崎聡子『青い舌』

 背泳ぎで泳ぐと耳は水の下に隠れる。そのために外の音は聞こえなくなる。水が跳ねる音と、自分のハーハーという息の音がくぐもって聞こえるばかりである。その情景が死後の世界に喩えられている。注目されるのは、作者が思い描く死後の世界が、生命のない世界でも光のない世界でもなく、無音の世界だというところだろう。第一歌集『手のひらの花火』で、「絵の具くさい友のあたまを抱くときわたしにもっとも遠いよ死後は」と詠んだ作者にとって、それから10年の歳月が流れた今、死後の世界はもっと身近なものとなっているようだ。

 山崎聡子は早稲田短歌会出身で、2010年に「死と放埒な君の目と」で短歌研究新人賞を受賞した。2013年に刊行した第一歌集『手のひらの花火』は第14回現代短歌新人賞を受賞している。『青い舌』は今年 (2021年) 上梓された第二歌集である。版元は書肆侃侃房で、現代歌人シリーズの一冊である。装丁は第一歌集に続いて「塔」の花山周子が担当している。歌集題名の「青い舌」は集中の「青い舌みせあいわらう八月の夜コンビニの前 ダイアナ忌」から採られている。

 第一歌集を評した時には、「世界にたいしてロシアン・ルーレットを仕掛けているような危うさ」が魅力だと書いた。また匂いと触覚で世界を捉えるところに特色があるとも書いた。そのような印象は第二歌集にも通奏低音のごとくに響いてはいるものの、山崎の描く短歌の世界は少しく変化しているようだ。その大きな原因は子供が生まれたことにあるだろう。ただ、よくある「子供可愛い」短歌になっていないところが独自である。

 この歌集のベースラインをなすと思われる歌を引いてみよう。

うさぎ当番の夢をみていた血の匂いが水の匂いに流されるまで

非常階段の錆びみしみしと踏み鳴らすいずれは死んでゆく両足で

烏賊の白いからだを食べて立ち上がる食堂奥の小上がり席を

水禽の目をして君は立ち尽くす水いちめんを覆う西日に

魚卵のいのちが真っ赤に灯る食卓でお誕生日の歌をうたった

 一首目は集中の所々で点滅する子供時代の回想で、うさぎ当番は小学校で飼っている兎の世話をする当番だろう。「血の匂い」と「水の匂い」に不穏な雰囲気が漂う。この「生の不穏さ」が第一歌集から変わらぬ山崎の特色である。二首目は死の予感を詠んだ歌で、集中に散見される。1982年生まれの山崎は今年39歳だから、まだ死を想うには早いのだが、そう思うには理由がある。ある程度の年齢になって子供が生まれると、自分はこの子が何歳になるまで見届けられるだろうかと考える。子供が成長することは、自分が死へと進むことに他ならない。そこに痛切な死の自覚が生まれるのである。三首目は飲食の歌で、烏賊の刺身か煮付けを烏賊のからだと表現することによって、生きものの生々しさと生命が喚起される。四首目の君は男性だろう。君が水鳥の目をしているという。それは何を表す目だろうか。「水いちめんを覆う西日」にうっすらと終末感が漂っている。五首目も三首目と似ていて、食卓に並ぶイクラを「魚卵のいのち」と表現したところがポイント。小池光の「夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして」に通じる歌である。

 思うに山崎にとって、この世界と人の世は双手を挙げて肯定するようなものではない。そこには不穏な影があり、人として否応なく経験せねばならないこともある。そのような世界にたいするスタンスから山崎の歌は生まれている。言葉の組み合わせから歌ができるというよりも、自分の中の深い場所から言葉を汲み上げているような印象がある。

 このような山崎のスタンスは子供を詠むときにも変わらない。

生き直すという果てのない労働を思うあなたの髪を梳くとき

子どものあたまを胸の近くに抱いている今のわたしの心臓として

脱がせたら湿原あまく香り立つわたしが生きることない生よ

死後にわたしの小さな点が残ることライターの火を掲げて思う

水たまりを渡してきみと手をつなぐ死が怖いっていつかは泣くの

 一首目、子育てとは生き直しだとは多くの人が抱く感慨である。自分が子供の時もこうだったと回想することで、人は二度人生を生きる。二首目、今の自分の心臓は胸に抱く子供の頭だという愛しさがこみ上げる。三首目、着替えのために子供の服を脱がせている。すると子供の甘い香りが漂う。しかし子供は自分の生をこれから生きるのであり、それは私の生とはちがうという痛切な思いがある。四首目の小さな点とは自分がこの世に残す子供だろう。五首目、自分と子供の間にある水溜まりは、決して越えることができないものの喩だろう。子供の日々の成長は喜ばしいものだが、この子とはいつかは別れるのだという思いが、ライトモチーフのように背後に低く鳴っているのを聴くことができるだろう。

 本歌集を読んでいておやと思ったのは次のような歌である。

夢に見る母は若くてキッチンにバージニアスリムの煙がにおう

どうしてこの人に似てるんだろう夜の手前で暗さが止まって見えてた日暮れ

花柄のワンピース汗で濃くさせた母を追って追って歩いた水路

わたしはあなたにならない意思のなかにある淋しさに火という火をくべる

「この子はしゃべれないの」と言われ笑ってた自分が古い写真のようで

 これらの歌から漂って来るのは、母親との微妙な関係である。何かをはっきりと思わせることは詠われてはいないが、作者と母親との間に共役できないものが横たわっていることが感じられる。「わたしはあなたにならない」というのは作者が心に誓った決意だろう。

 その一方ですでに他界した祖母にたいしては強い思慕の念を抱いていたようだ。次のような歌には、若死にした祖母にたいする追憶の気持ちが、箱にしまわれたセピア色の写真のように懐かしく詠われている。

花の名前の若死にをした祖母よまた私があなたを産む春の雨

なんのまじないだったのだろう石鹸を箪笥のなかに入れていた祖母

アベベって祖母に呼ばれた冷蔵庫の前のへこんだ床に裸足で

あざみ野の果ての暗渠よ夏服の記憶の祖母をそこに立たせる

モノクロが色彩を得る一生を歪んだように笑ってた祖母

 主に歌集の後半から印象に残った歌を引いておこう。

死に向かう わたしたちって言いながらシロップ氷で口を汚して

伏せると影のようにも見える目をもってとおく昼花火聞いていた夏

テールランプのひかり目の奥でブレてゆく見てごらんあれは触れない海

くるう、って喉の奥から言ってみるゼラニウム咲きほこる冬の庭

ぶらさげるほかない腕をぶらさげて湯気立つような商店街ゆく

花柄の服の模様が燃えだしてわたしを焦がす夏盛りあり

菜の花を摘めばこの世にあるほうの腕があなたを抱きたいという

 私が軽い衝撃を受けたのは最後の歌の「この世にあるほうの腕」だ。作者がこのように感じているということは、もう一本の腕はもうこの世にないという感覚があるということだろう。ここに引いた歌から立ち上って来るのは、生と向き合うときに私たちが心のどこかの暗い隅に走る戦慄である。それは日常のふとした瞬間にやって来る。山崎の歌はそのような感覚を掬い上げて、独自の世界を作っていると言えるだろう。