第337回 木下こう『体温と雨』

さらさらとさみしき冬日 花の茎ゆはへて水にふかくふかく挿す

木下こう『体温と雨』

 本書は砂子屋書房から2014年に刊行された著者の第一歌集である。プロフィールが添えられていないので、本人の経歴や年齢はわからないのだが、大辻隆弘の解説によれば、木下は2007年頃に大辻が参加していた「三重山桜の会」という集まりに顔を出すようになり、やがて大辻らの同人誌「レ・パビエ・シアン」に参加し、未来に加入して大辻の選を受けるようになったという。2011年には未来年間賞を受賞している。

 なぜ本歌集を取り上げることとなったかというと、『現代詩手帖』2021年10月号の「定型と/ の自由」という短詩型の現在を問う特集のアンケートで、「刺激を受けた歌集・句集」という編集部の問に答えて、H氏賞詩人の高塚謙太郎が本歌集を挙げていたからである。藪内亮輔『海蛇と珊瑚』、平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』、笹井宏之『えーえんとくちから』など話題になった有名な歌集を挙げる人が多いなかで、高塚の挙げた『体温と雨』はひときわ異彩を放っていた。しかも高塚は「絶唱」とまで評しているのである。

 高塚が同アンケートで短歌の特性を述べた次の言葉がおもしろい。

短歌は、言葉(日本語)の、意味の上をいったんは、さっとすべりおちた韻律、その流れてやまない韻律(韻律は流れの最中でしか機能しないのですから)のみを、日本語として書いたものです。もちろん韻律は、調べ、です。

 高塚はブラジル生まれなので、殊更に日本語の韻律を意識するのかもしれない。この言葉の中に『体温と雨』が選ばれた理由がはからずも露呈しているように思われる。何が高塚の詩人の琴線に触れたのだろうか。

樹のかをり満ちくるやうなとひかけに金貨こぼるるごと頷きぬ

窓がみなゆふぐれである片時のアビタシオンに人のぼりゆく

エスパドリューつめたい波に濡らしゆく ちからまかせに引き寄せられて

透けやすき絹にあなたをとぢこめて満ちしほまでの時間を過ごす

木の床になにかけだるきものとして脱ぎ捨てられしままのシャツある

 歌集冒頭付近から引いた。木下の短歌を一首ごとに鑑賞するのはとても難しい。歌の精髄と思われるものが、説明しようとする言葉をひらりとかわしてすり抜けていくからである。それがなぜなのかはおいおい論じるとして、とりあえず歌の表層だけ見てみよう。

 他の人にない木下の短歌の特徴のひとつに喩がある。一首目には直喩がふたつもある。「樹のかをり満ちくるやうな」と「金貨こぼるるごと」である。これはふつうあり得ないことだ。本来、喩の役割は、歌の本旨をくきやかに浮き上がらせることにある。

反響のなき草原に佇つごときかかる明るさを孤独といふや 尾崎左永子

 「孤独」は形のないものである。味も手触りもない。それを「反響のなき草原に佇つごとき」という直喩が支えることによって、孤独の持つ果てしのない空虚感を知覚可能なものに変えている。

 しかるに木下の歌から直喩を取り除くと、「…とひかけに…頷きぬ」しか残らない。誰が発したどのような問い掛けなのかが、おそらくは意図的に隠されている。このため歌の本旨は、大量の蒸留水で希釈された塩酸のように(これは喩である)、限りなく薄くなる。すると歌の本旨と喩の比重が逆転する。読者の脳裏には、「樹のかをり満ちくるやうな」と「金貨こぼるるごと」が残り、朝の森を歩く時に漂ってくるフィトンチットと、きらめく金貨の輝きだけが、まるで白昼の幻のように揺曳する。

 他に集中から印象的な喩を挙げてみよう。

首飾りはづしてのちのくびすぢは昼の硝子のやうにさみしい

べたればかたち失ふものならむ牡鹿の息のやうなる手紙

雨垂れの音飲むやうにふたつぶのあぢさゐ色の錠剤を飲む

 二首目のポイントは、大辻も解説で触れているように「窓がみなゆふぐれである」だろう。アビタシオン (habitation) はフランス語で「住居」のことで、ここでは集合住宅だろう。フランス語にしてあるので、ル・コルビジェが設計したマルセイユのアパートなどが頭に浮かぶ。集合住宅のたくさんの窓のすべてに夕光が差している、あるいは夕焼けが映っていることを、「窓がみなゆふぐれである」と表現する詩的圧縮がある。

 三首目のポイントは「エスパドリュー」だろう。エスパドリーユとも言う。底が麻でできていて上部が木綿などの布製のサンダルをさす。地中海沿岸で広く用いられている履き物で、そのため海とは縁語である。〈私〉を引き寄せたのはもちろん恋人である。四首目は三首目と続きのような歌で、この歌のポイントは「透けやすき」だろう。

 五首目は部屋の床に脱いだシャツがそのままに置かれているというだけの歌だが、「なにかけだるきものとして」という一種の喩の作用によって、その時の作中の〈私〉の心のありようを表象するものとなっている。

 とまあこのようにふつうに歌を読み解いても、木下の短歌の魅力に1ミリも触れたことにならない。それはなぜかというと、上につらつらと書いた鑑賞は歌の「意味」に着目したものだからである。しかるに木下の短歌の精髄は歌の意味にはない。考えてみれば韻文とはなべてそのようなものであり、短詩型文学の俳句や詩も同じはずなのだ。それは散文の言語と韻文の言語の機能のちがいに由来する。

 散文は思考の乗り物であり、その役割は意味の伝達にある。「参議院議員の任期は、これを6年とする」のような法律・条例・規約の文章がその典型であり、曖昧性を排して万人に同一の意味を伝えるのが理想だ。論文や論評や批評の言語も同じである。ヴァレリーが喝破したように、散文の言語は意味の伝達が成立した瞬間にその役割を終えて消滅する。往年のTVドラマ「スパイ大作戦」で、部下のスパイに指令を与えるテープが自動的に燃え上がるごとく(これも喩である)。

 韻文の言語の機能は意味の伝達にはない。ではその機能は何かと正面切って問われると、あたりを見回しても出来合いの答は見当たらない。さしあたり口ごもりながら答えると、言葉の意味と言葉が喚起するイメージと韻律が混じり合い絡み合って、現実とは位相を異にする虚空間に彫琢され、そこを何度も訪れたくなるような形象を彫り上げることとでもなろうか。美術館に展示されている彫像、たとえばルーブル美術館の至宝「サモトラケのニケ」を思い浮かべてもよい。言葉を用いてニケを作り出すことが詩の言語の目指すところである。

 木下はこのことを深く理解しているように思われる。このことをさらに示すために歌を比較してみよう。たいへん申し訳ないが、比較の対象として新聞歌壇から歌を引く。

知らぬ間に減便廃線過疎の足返したくても返せぬ免許

     伊藤次郎(朝日歌壇2022年8月14日、永田和宏選)

きだはしを下りると雨につつまれてもう赤茶けた火のあとの蓮 

                  木下こう『体温と雨』

 伊藤の歌は、高齢者には免許の返納が推奨されているが、バスも鉄道も減便や廃線が続く地方では他に移動の手段がないという現実を描いている。現代の日本の地方都市や郡部ではどこも同じだろう。作者の主張は上手くまとめられていて、ストレートに伝わって来る。しかし、主張がストレートに伝われば伝わるほど、読んだ後に読者の頭の中に残るのはその主張であり、歌の姿は背後に隠れてやがては消えてしまう。それはこの歌が韻文の体裁を取りながら、散文の言葉と隣接しているからである。

 木下の歌の場面は池に下りる短い石段だろうか。池の水面には雨が降っていて、枯れ蓮が無惨な姿を晒している。どうということのない情景であり、特に伝えたい意味はない。しかしながら逆接的なことに、この「意味のなさ」が言葉の物質感を高めて、炉の高熱に溶けた硝子が冷えて形をなすように、歌の姿がひとつの形象となって読む人の脳裏に長く残る。意味を理解した後にも、その韻律に身を委ねてもう一度読みたいと思う。これが高塚の言う「言葉(日本語)の、意味の上をいったんは、さっとすべりおちた韻律」ということだろう。

はなびらの踏まれてあればすきとほり昼ふる雨の柩と思ふよ

梳かれつつわかれゆく髪はつなつの白きそびらを三角州デルタに変へて

火のことであらうか夢のまたたきのまぶしさのなか人の告げしは

ひえゆけば祈りの指も仄白きのかたちせむ雪ふりたまふな

枝を焼く冬のほのほの匂ひしてアルバムひらくは仄ぐらかりき

葉のすみをすこし燃やしてよごれざるままに冷えたるじふやくの白

雨の服脱ぎたるそびらや添ひをればゆふかたまけて夏終はるらむ

 たくさん付いた付箋の中から特に印象に残った歌を引いた。あらためて読み直してみると、隙なく組み上げられた言葉の韻律のため、一首の読字時間が長いことに気づく。さらにひと言付け加えるならば、木下の作る歌には永田和宏の言う「〈問〉と〈答〉の合わせ鏡」構造がほぼ見られず、その意味では近現代短歌というよりはむしろ王朝和歌に近いと言えるかもしれない。

 そういう賢しらな理屈は実はどうでもよいことである。本歌集を味読すれば、散文の言語ではない詩の言語とはどういうものであるかを、読者は十二分に感得することだろう。