第350回 小津夜景『花と夜盗』

天秤の雪と釣り合ふ天使かな

小津夜景『花と夜盗』

 『花と夜盗』(2022年、書肆侃侃房)は第一句集『フラワーズ・カンフー』(2017年)に続く小津夜景の第二句集である。『フラワーズ・カンフー』は本コラムにて2016年の年末の回に取り上げた。同句集はそののち田中裕明賞を受賞している。この間に小津は、『カモメの日の読書 — 漢詩と暮らす』(2918年、東京四季出版)『いつかたこぶねになる日 — 漢詩の手帖』(2020年、素粒社)の二冊の本を上梓している。いずれも漢詩の和訳とそれにまつわるエッセーをまとめた本で、一読すると「この人はいったい何者?」と驚嘆すること請け合いである。才人であることは疑いない。

 さて、『花と夜盗』だが、読み終えた感想は前回と同じで申し訳ないが「俳句は自由だなあ」というものだ。これは一見すると矛盾を孕んでいる。短歌には五・七・五・七・七の三十一音節(モーラ)という形式上の決まり事以外に何の制約もない。文語(古語)で詠んでも口語(現代文章語)で詠んでもいいし、漢字だらけだろうとひらがなばかりだろうと、啄木のように分かち書きしてもいい。これに対して有季定型俳句には季語が必要で、季重なりは忌避され、切れ字というよくわからないものまである。短歌に較べて決まり事だらけのように見えるのだが、逆に俳句の方が自由に見えるのがおもしろい。その昔、詩人ポール・ヴァレリーは「制約は精神の自由を生む」と喝破したが、そういうことなのかもしれない。

 『花と夜盗』の何が自由かというと、それは短詩型の形式とそれに対峙する作者のスタンスの両方に認められる。本句集は「一、四季の卵」、「二、昔日の庭」、「三、言葉と渚」という三部構成になっている。第一部はふつうの有季定型俳句だが、第二部では思い切り遊んでいる。

 「陳商に贈る」と題された一連は李賀の「贈陳商」を元にした連句による翻案だという。次のように始まっている。

長安有男児 長安の都にの子ありにけり

二十心巳朽 はやも朽ちたる二十歳の心

 「貝殻集」は武玉川調の俳句だとされている。「武玉川」とは、江戸時代中期に紀逸という人が編纂した俳諧書で、五・七・五の形式と並んで七・七の付句も含まれていたようで、その形式を指しているのだろう。最初は読むのに少しく苦労したが、短歌の下の句と思えば読みやすい。本来付句なのでまちがった読み方ではなかろう。

花降る画布に聴く手風琴

ある晴れた日の水ぬるむ壺

 続く「今はなき少年のための」は白居易の漢詩を短歌で翻案したもの。BLの匂いが香しい。

門前のものさびしくてなほのこと親しみあへり風のまにまに

花かげをかたみにふめば相惜しむ逢瀬にも似てわかものの春

 次の「ACUA ALLEGORIA」は、Paul-Louis Couchoud他によるフランス語の最古の句集 Au fil de l’eauの俳句による翻訳。原題は「水の流れのまにまに」という意味である。

Dans un monde de rêve,          夢の世を

Sur un bateau de passage,        渡る舟にて

Rencontre d’un instant.           ちよつと逢ふ

 「研ぎし日のまま」は原采蘋の「十三夜」の短歌による翻案だという。原采蘋はらさいひんは江戸後期の女性の漢詩人らしい。

蒼茫煙望難分

ぬばたまの霧蒼ざむる夜となり迷子のわけをほの語らひぬ

 続く「サンチョ・パンサの枯野道」は一転して都々逸である。

水に還つた記憶の無地を虹でいろどるフラミンゴ

 また第三部冒頭の「水をわたる夜」は訓読みが長い漢字を選び三つ組み合わせて俳句に仕立てたもの。

璡冬隣 たまににたうつくしいいし/ふゆ/となり

 ひと通り紹介するだけでこれだけ行数を費やすほど、作者はまるで浅い川の飛び石を跳んで渡るかのように、形式の間を自由自在に移動する。何物にも囚われぬこの自在さとフットワークの軽さが小津の持ち味である。それは幼い頃から引越しを繰り返し、長じてはフランス北部の港町ル・アーブルに流れ着いたという一所不住の生き方ともどこか重なる所がある。

 『フラワーズ・カンフー』を読み解くために、「音の導き」と「プレ・テクスト」という二つのキーワードを使ったが、今回は「音の導き」はあまり感じられなかった。一方、「プレ・テクスト」の方は健在で、やはり小津はコトバから俳句を作る人なのだと改めて感じた。短歌とちがって俳句の世界で「コトバ派」と「人生派」という区別はあまりしないようだが、小津は明らかにコトバ派の俳人である。それは次のような句に特に感じられる。

カイロスとクロノス共寝すれば虹

秋は帆も指すなり名指しえぬものを

パサージュの夢かたすみの虫の声

後朝のキリマンジャロの深さかな

ゲニウスロキの眠り薬の初釜よ

恋の泡ごと消えたドルフィン

 一句目のクロノスは時計で計測することができる物理的時間を表す。ではカイロスは何かと調べてみると、驚いたのは『ブリタニカ国際大百科事典』の解説である。それによるとカイロスとは、「クロノスの一様な流れを断つ瞬間時としての質的時間」であり、神学者ティリヒは「永遠が実存に危機をもたらしつつ時間の中に突入してくる卓越した瞬間」としたとある。あまり要領を得ないが、韓国ドラマに「カイロス — 運命を変える一瞬」というタイトルのものがあるところを見ると、日常的な時間の流れを断ち切るような特権的瞬間ということらしい。この句が「クロノス」と「カイロス」という言葉から発想されたのはまちがいなかろう。

 二句目を読むとどうしても、「語り得ぬものについては沈黙しなくてはならない」と言ったウィットゲンシュタインの言葉を思い出し、ついでに哲学者野矢茂樹の『語りえぬものを語る』という本まで連想が働く。三句目を見ると自然にベンヤミンの代表作『パサージュ論』が脳裏に浮かぶ。パサージュとは、19世紀に流行ったアーケード付きの商店街である。今でもいくつか残っていて、往時のパリの姿を偲ぶことができる。四句目のキリマンジャロはアフリカの山ではなくコーヒー豆の種類だろう。「深さ」とはコーヒーの苦みの深さと取ったが、その奥にヘミングウェイの短編の影が揺曳する。五句目のゲニウスロキはラテン語の genius lociで「土地の精霊」「地霊」を意味する。フランスの小説家ミシェル・ビュトールにこの名を冠した評論があり、愛読する鈴木博之の著書『場所に聞く、世界の中の記憶』(王国社)の帯には「世界の地霊ゲニウス・ロキ を見に行く」と謳われている。ここではその土地に宿る歴史的記憶の意味で使われている。六句目を読むとどうしても松任谷(荒井)由実の名曲「海を見ていた午後」を思い出してしまう。この歌の舞台は横浜の山手にあるドルフィンという喫茶店で、「小さなアワも恋のように消えていった」という歌詞があるのだ。

 思いがけず長い文章になってしまった。付箋の付いた句を挙げて締めくくろう。

ものぐさでものさびしくて花いくさ

ギヤマンに息を引きとり昼の翳

とひになる蝶湧く画布を抱きかかへ

とびとびにいとをつまびく秋の蝶

あやとりの終はりはいつも風の墓地

さへづりや森はひかりのすりがらす

夏の岬にオキーフの佇つ

砂に譜を描けば遠き汽笛かな

 三句目は「ルネ・マグリット式」と題された一連の中の句なので、シュルレアリスト的奇想である。いずれの句もはばたく詩想に支えられた句で、こうして書き写してみると小津の句は知が勝っているものの、意外と叙情的だなと感じるのである。

 最後に『カモメの日の読書』を読んでいて思わず「えっ!」と叫んだことを書いておこう。ル・アーブルはカモメの多い町だという書き出しに始まり、杜甫の詩には鳥を詠んだものが多いと続き、やがて「白鳥しらとりかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」という牧水の有名な歌を引いて、この「白鳥」がハクチョウではなくカモメであることを知ったのもこの町に住んでからであると綴られている。この一節を読んで思わず本を取り落としそうになった。ほんとうにそうなのだろうか。調べてみるとそうかんたんな話でもなさそうだ。牧水は当初「白鳥」に「はくてう」とルビを振っていたが、途中から「しらとり」に変更したと説く人もいる。樋口覚『短歌博物誌』(文春新書)では牧水の歌を引き、古代の白鳥伝説やボードレールの「白鳥」という詩に言及しており、ハクチョウであるとの前提で書かれている。「しらとり」は羽毛の白い大きな鳥を指すので、もしそうならばハクチョウでもカモメでもよいことになるのだが、どうなのだろう。ハクチョウとカモメではずいぶん印象が違うように思うのだが。