第70回 豆本愛、またはアナログれくいえむ

  先日、大阪の中之島にある東洋陶磁器美術館で陶芸家ルーシー・リー展を見た。亡命先のロンドンで活動したリーの繊細な造形と深みのある色彩を十分に堪能した。しかしこの展覧会には思わぬ余録が付いていたのだ。神は時に思わぬ偶然を用意してくれる。美術館の目に付きにくい片隅で、鼻煙壺コレクションが展示されていたのだ。鼻煙壺びえんことは、かぎ煙草を入れるミニボトルで、17世紀末頃から中国で盛んに製作されたという。材質は陶器・ガラス・象牙・金属など多岐にわたり、美しい彩色や彫刻・象眼などが施されている。誰でもひと目見たら魅了されることまちがいない。そして多くの人が「私も集めて並べてみたい」と考えるだろう。私も初代ファミリーマート社長を務めた沖正一郎氏のコレクションを時間を忘れて見入ってしまい、そう思ったのである。
 人は鼻煙壺のようなミニチュアの細工物を見ると、本能的に愛玩し蒐集してみたくなる。ミニカーしかり、電車の模型しかり、人形や箱庭やドールハウスしかりである。なぜだろう。美しい細工が施されていたり、実物が細部まで精巧に再現されているということもあるが、いちばんの理由は「小さい」ということではないだろうか。物の大小は相対的な概念である。ゾウは私たちには大きく見えるが、クジラや絶滅したマンモスに比べれば小さい。私たちは動物園でゾウを眺めて「大きいなあ」と言うとき、無意識のうちに自分の身体を基準にして比較しているのだ。私たちは小さいものに愛情を感じる。リスやハムスターのような小動物は人気があるし、最近はチワワやミニチュアダックスのような小型犬がブームである。だから鼻煙壺もふつうの陶器などよりも小さいというところに魅力の本質があるのだ。もし鼻煙壺が花瓶ほどの大きさになって飾り棚に置かれていたら、私たちはそれほどの魅力を感じないだろう。
 本の世界では豆本というものがある。正確な定義はないが、掌に納まるほどの大きさの本を総称してそう呼ぶ。豆本の世界も奥深いもので、その筋にはちゃんとコレクターがいるようだ。読書にはまったく向かない豆本を作るのも、小さい物への愛情のなせる業にちがいない。
 私の手許には短歌関係の豆本がいくつかある。とても楽しいのは歌人村上きわみと川柳作家なかはられいこの「まめきりん」だ。蛇腹式の豆本で、表紙裏にはマーブル紙の装飾もあり、ビーズの付いた紐でくくるようになっている凝った造本である。内容は二人の散文詩に村上の短歌となかはらの川柳が挿入されたもの。
うずまきをほどけばきんいろの翼 なかはられいこ
さようなら竜王の牙
 (火のように (遠い雷 (お別れします  村上きわみ
 ずっと豆本サイズで出版されているのが、川添英一責任編集の「流氷記」で、すでに54号を数えている。
橋あれば橋渡りゆく安威川に白鷺一羽足浸し佇つ  川添英一
 野口綾子の『トウキョウガーリーシック』は豆本よりはやや大きい掌サイズである。現代を生きる若い女性の奔放な口語短歌。
かみしめる白い歯ばかり削られてひらいた足のあいだにはまた
とどこおるあたしを無視してのびていくつめまるく切り揃えれば
 これも掌サイズなのは石川美南が仕掛け人の『夢、十夜』で、石川に加えて佐藤弓生・謎彦・平井弘・光森裕樹の共作。夏目漱石の初期小説でロマン主義の色濃い『夢十夜』を下敷きに短歌を詠むというなかなかおもしろい趣向だ。
常夜灯つけつぱなしで寝る吾の夢にさぶしきつちふまずあり  光森裕樹
気が散つてならぬ視界の片隅に付箋一枚ふるへてゐたる  石川美南
リア・ディゾンそつくりさんを一夜づつ取つ替へ夏のゑにつきを画く
                              謎彦
額をまたいだけはひの暗がりをははとおもひこんだまでのこと  平井弘
金網のかなたレグホンほのしろくうすくらがりにうかみておりぬ
                            佐藤弓生
 話題を転じるが、昨今の出版界は電子本の話題で持ちきりである。Apple社のiPad発売が引き金となり、各社タブレット型パソコンや電子リーダーをこぞって発売し、電子本の配信サービスも本格的に動き始めた。出版界では電子本の普及は黒船到来か否か、紙版の本は果たして生き残れるのかが焦点となっている。
 本のコンテンツのデジタル化の恩恵は否めない。最大のメリットは迅速な検索を可能にすることだが、視覚面も忘れてはなるまい。弱視などの視覚障害者や老眼に悩む人にとって、本の電子化は福音にちがいない。電子本では画面の選択によって文字の大きさを自由に変えられるからである。
 しかしあらゆる技術の進歩には光と陰が伴う。今でもパソコン画面上で長時間にわたって本や論文を読むことが苦手な私は、紙版の本から電子本に移行することは決してないだろう。また電子本にはいくつか欠点があることも事実である。電子本の最大の欠点は、今自分がどのあたりを読んでいるのかわからなくなることだと、内田樹がどこかで書いていた。紙版の本だとページ数を確認するまでもなく、めくられたページの厚さで最初の方なのか終わりの方なのかは物理的に確認できる。また電子本では画面に表示されている文字の大きさを大きくするとページ数が増え、小さくすると減るという。紙版の本では固定されているページ数が電子本では変幻自在なのだ。これでは自分が現在何ページ目を読んでいるかということが意味を持たなくなる。本のコンテンツが文字データの塊になってしまうのである。
 このことが持つ意味は決して小さくない。私は拙著『新版 文科系必修研究生活術』(ちくま学芸文庫)に読書術の心得のひとつとして、「本はできれば図書館から借りずに自分で買って読みなさい」と書いた。その理由は、借りて読んだ本は記憶に残らないからである。これは体験的事実であり、共感してくれる人も多いと思う。確かに借りて読んだ本は記憶に残りにくい。その理由はいくつかある。ひとつは、自分で買って読んだ本ならば、大事な部分に傍線を引いたり、余白に書き込みをしたりして読むが、借りた本ではこれができないことである。また自分で買った本ならば読んだ後、書架に並べておく。必要に応じてまた手に取ることもできるし、そうしないまでも背表紙は常に目に入る。これが記憶の強化を助けるようだ。つまり自分で買った本は物理的実体として手近に残るということが、内容の定着に必要なのである。電子化された本は文字データの塊なので、物理的実体がない。この点で私たちの記憶への残り方において、紙版の本とは異なるであろうことは、ほぼまちがいないと思われる。
 電子本の世界では豆本が成立しないことは言うまでもない。そもそも造本という概念が消滅するのである。もし私がそのことを嘆いたら、それはグーテンベルク世代、つまり旧世代の単なるノスタルジーにすぎないと言われてしまうだろう。しかしそれはちがう。私たちが豆本に感じるのは、私たちの身体を無意識の基準とする「小さい」という身体的感覚である。それは私たちの感性の奥深い所につながっている。電子本の文字データには私たちの相対的感覚が通用しない。デジタルデータは二進法のゼロと1からなる絶対的世界である。電子本の最大の欠点は、身体感覚の喪失である。私はそう思うのだが、あまりそのことを指摘した人はいないのはなぜだろう。