第84回 石川美南『裏島』『離れ島』

夏の夜のわれらうつくし目の下に隈をたたへてほほ笑みあへば
                          石川美南『裏島』
 練馬区立美術館で開催されている「磯江毅展」を見た。磯江は若くしてスペインに渡って写実絵画を学び、かの地で30年活躍した画家である。惜しくも2007年に57歳の若さで亡くなっている。磯江の画風は、高度な絵画技術に支えられたハイパー・リアリズムを通して、〈存在の神秘〉と〈在ることの尊厳〉へと迫るというものである。その写実力はすさまじい。しかし、「鮭・高橋由一へのオマージュ」と題された作品で、新巻鮭を縛っている荒縄が、正面は絵の具で描いたものなのに、板の側面に食い込んでいる部分は本物の縄であることに気づいた観客がどれくらいいるだろう。磯江は絵画世界(=虚構)と外部世界(=現実)とを、気が付かないほど巧妙に連接し、交錯させているのである。磯江の絵画を見て、改めて写実の迫力をまざまざと実感した。ここ数年見たうちで最も心を動かされた展覧会だった。
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 石川美南の歌集が2冊同時に刊行された。『裏島』と『離れ島』である。第一歌集『砂の降る教室』(2003年)以来だから、8年ぶりとなる。『裏島』は2002年から2011年までの393首、『離れ島』は2004年から2011年までの292首を収録している。どちらの数字も100の位と1の位が同じ数なのは偶然か。装丁は『屋上の人屋上の鳥』の花山周子。銅版画を思わせるTAKORASUの表紙イラストが瀟洒だ。魚の形や帆船の形をして空を飛ぶ街は、細密に描かれながらも現実にはあり得ない存在であり、石川の短歌世界と見事なまでに符合している。『離れ島』には主に単発作品が収録され、『離れ島』には主に連作作品が収められている。2冊同時リリースは、CDにおける両A面のようなものだろうか。多方面で活発に活動している石川ならではの意欲的な試みと言ってよい。
 石川が2冊の歌集の題名にいずれも「島」を用いたのには理由があると思われる。この歌集の扉を開く人は、人跡未踏の絶海の孤島に上陸するのであり、その島の風物は私たちが日頃慣れ親しんでいるものと似てはいるが、どこかちがっている。そのような異世界であり、島に足を踏み入れる人はもはや今までの常識が通用しないと心得なくてはならない。歌集の題名はそう宣言しているのである。だから写実を背骨とし、抒情を血液とする近代短歌の読みに慣れた人、あるいはその読みしかできない人は、この歌集に足を踏み入れると当惑するだろう。次のような歌が並んでいるからである。
壁や床くまなく水びたしにして湯浴みを終ふる夕暮れの王  『離れ島』
窓枠に夜をはめ込む係にしてあなたは凜と目を凝らしたり
憤然と顔を上げたりセキュリティチェックに引つかかる雷神は
暗緑の森から森へ続きゐる点線をつないだらく・ま・ぐ・す
かもめかもめ賢い鳥の近道はショーウィンドウの中を飛ぶこと
飛び魚を容れては吐いて燦々とながれゆくポリ袋の旅路
 歌集題名の『離れ島』とは言い得て妙というべきだろう。ここでは一首一首が離れ島であり、歌と歌をつなぐ通路がないのみならず、歌と外部をつなぐ回路も断ち切られている。歌は一首ごとに異世界を立ち上げて、結句に至って終了する。次の歌が立ち上げる世界はまた異なったものである。だから石川の短歌を読み進む読者は、外宇宙の放浪者となって、その都度、風俗習慣のみならず、住民の身体形態までも異なる星々に、次々と訪れているような気持ちになる。ページをめくるうちに、時として宇宙酔いに似た症状すら呈するほどである(宇宙酔いがどんなものか知らないが)。
 たとえば一首目の「夕暮れの王」とは何者か、何かの暗喩なのか、何か意味しているのだろうかと問うても無駄である。それは何の暗喩でもない。それは夕暮れの王以外の何者でもなく、そのような者が生きている世界がここにあるのだと得心するほかはない。言葉と想像力によって立ち上げられた異世界であり、読者はその発想の妙味と言葉の連接の美しさをただ味わえばよいという仕掛けなのである。
 思えば石川には『砂の降る教室』からすでにそのような傾向があった。
好きな野球の話をしても生返事ばかりの鯨 春になるのか
なにがあったかわからないけど樅茸もみたけがいぢけて傘をつぼめていたよ
風はうすき日かげを流れくさりたるくちなしを食べたがる弟
 本コラムの前身の「今週の短歌」で『砂の降る教室』を取り上げたときは、石川の態度を「世界を異化する意志」と規定した。石川はたぶん幼少時から本を読んで空想に耽るのが好きな少女だったのだろう。歌人のあいだでは有名な石川のキノコ好きもそのような性向と無関係ではない。キノコのなかには確かにこの世のものとは思えない色彩と形状を呈するものがある。石川が空想の延長性として営々と研ぎ澄ましたのが、世界を異化する視線である。その視線の前では寝室は熱帯植物園となり、スターバックス・コーヒー店は荒れ寺と化す。
 今回の『裏島』『離れ島』の二連発では、異化の眼差しがさらにパワーアップしている感がある。しかし、私は読んでいてどこか違和感を感じた。ふだん歌集を読むときには、よいと思った歌には付箋を付ける。しかし、『裏島』『離れ島』を読んでもなかなか付箋が減らないのだ。ひと晩寝てその理由に思い至った。それは次のようなことではないか。
   上に述べたように、石川は基本的には一首ごとに異世界を立ち上げる。それは外部との回路を断たれた孤島である。異世界を訪れる人は、しばらくその世界を歩き回って基本的特性を会得しなくては、その世界を味わうことができない。しかるに石川の歌では一首で世界が終了してしまうので、なかなかその世界に没入することができないのだ。その結果、読者は灯しては消すマッチポンプのような作業を強いられることになる。これが一首の屹立性の弱さとなって現れるのである。その結果として付箋が減らないという訳だ。
 短歌は31音節の短い詩型なので、単独で異世界を立ち上げるには短すぎる。世界が成立するめには外部からの支えがなくてはならない。古典和歌の支えは共同性に基づく美の抽象空間であり、近代短歌の支えはリアリズムに基づく〈私〉である。
 では異世界の持続時間を引き延ばし、短歌詩型の支えとして機能させるにはどうすればよいかというと、すぐに思いつくのが連作である。そして実際に石川は連作において、その実力を遺憾なく発揮しているように思える。
 『裏島』は連作中心の構成で、集中には同人誌『風通し』No.1 (2008)に発表された「大熊猫夜間歩行」が収録されている。この秀作については本コラムの「風通しの歌人たち」ですでに触れたので、ここでは繰り返さない。私が今回いちばん感心したのは、「猛暑とサッカー」だ。この連作は全段二首から成る対で構成されていて、一首目は現在学校の校庭で行われているサッカーの試合を、二首目は戦争のあった昭和を描いている。いくつか抜粋して引く。
サッカーの盛んな町だアスファルトを破って育つ夏のたましい
  警報の響き渡らぬ空の下我は盛んに汗かいてゐる

中村は町の英雄ヒーロー 輝けるアジアカップを僕は見守る
  防空壕通り抜ければ炎天のゴールキーパー手を広げをり

鼻に汗入って走るのが辛い コーナーキックの柴田がとおい
  思ひ出づることにも慣れて蝉の音に時折混じる人の死ぬ音

ディフェンスの弱いところを突破され電光石火の舌打ちをした
  校庭にもののくすぶる匂ひして見る間に燃ゆる孫のゼッケン

爆撃機素通りしをしたこの町で小石蹴りつつ過ごしてた祖父
  遠からず灰となるべき橋桁と思ひ込みにきひたと触れにき

町中のとろけるチーズとけかかりゼロ対ゼロで後半戦へ
  本当はあの日ぴかりと消えたのか我も級友たちも小石も
 石川の工夫は文体とタイポグラフィーにまで及ぶ。対の一首目は新仮名遣いの口語でゴシック体、二首目は旧仮名遣いの文語で明朝体で印刷されている。一首目を続けて読むと、熱中症患者が出るほどの炎天下で繰り広げられるサッカーの試合風景が浮かび上がる。その基調音は若さと汗と明るさである。ところが二首目を拾って読むと、空襲で爆撃されて燃え上がる町と死者の世界がある。その通奏低音は、物が焼ける臭いと死である。そしてこの対が、「昭和というあだ名の生徒会長」や「日陰の席の笑顔の祖父」などを転轍機として、時にメビウスの帯のように時空の捩れを起こすという複雑な造りになっているのである。
 この仕掛けによって石川は、短歌の世界に物語性を巧妙に持ち込むことに成功している。一首ごとに異世界をワープするようなマッチポンプのせわしさはなく、堅牢に構成された世界のなかを読者が歩き回り、その世界の果実を心ゆくまで味わうことができる。平和の平成と戦争の昭和という時間軸を対立させることで、重層的な世界構造と複眼的な視点を生み出して、短歌世界に奥行きを与えていると言えるだろう。
 このような理由で私は単発作品が中心の『離れ島』よりも、連作で構成された『裏島』の方を興味深く読んだ。そして、巻を閉じてあらためて、石川の真骨頂は物語性に富む連作にありとの感想を持ったのである。