カーテンのレースは冷えて弟が
はぷすぶるぐ、とくしやみする秋
石川美南『砂の降る教室』
はぷすぶるぐ、とくしやみする秋
石川美南『砂の降る教室』
いやはや大変な才能を持った人が現われたものだ。同人誌『レ・パピエ・シアン』の「今月の一首」で紹介されていた石川美南の数首の短歌を初めて見て「ン?」と思い、歌集を買って一読し感心してしまった。最近の若い人の短歌の例に漏れず、口語と文語の混在した言葉遣いで何気ない日常を詠んでいるので、最近流行のライトでポップな短歌かと思ったらそれはまちがいである。この人にはそこに還元できない何かがある。栞文を書いた水原紫苑はそれを「石川美南の怪しさ」と表現しているが、確かにそうなのである。
どれほど怪しいか、特に怪しそうなのを何首かあげてみよう。
わたしだつたか 天より細く垂れきたる紐を最後に引つぱつたのは
隣の柿はよく客食ふと耳にしてぞろぞろと見にゆくなりみんな
始業ベル背中に浴びて走りにき高野豆腐の湿る廊下を
茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして
噂話は日陰に溜まりひやひやと「花屋は百合の匂ひが嫌ひ」
夕立が世界を襲ふ午後に備へて店先に置く百本の傘
窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ
石川は1980年生まれ。あとがきには短歌を作り始めて7年とあるから、逆算すると16歳の高校生の頃から作歌をしていたことになる。特定の結社には所属していないが、早稲田の水原紫苑の短歌ゼミで学んでいる。2003年に東京外国語大学を卒業していて、ホームページには就職活動に題材を採った歌が掲載されているので、首尾よく就職していれば社会人になりたてという若い人なのである。
もし水原の言うとおり石川の短歌が怪しいとするならば、その原因は理論的にはふた通り考えられる。歌を作る主体としての石川が怪しいヒトだからか、短歌に詠まれた世界が怪しいからかである。怪しさのよって来たる根拠を、〈主体〉の側に求めるか〈客体〉の側に求めるかということだ。歌から読みとる限り、石川本人にはまったく怪しいところがない。極めて健全でまっとうであり、文学青年(少女)にありがちな自虐的なところがなく、自己演出もない。舌にピアスをしたり、カミソリでどこかを切ったりする気配のない人である。
オジサンの目から見れば、青年期の文学がそのエネルギーを汲み出す泉は次のいずれかである。その一〈自我への懐疑〉。適用例:「私は何ものか」「ほんとうの私はどこにいるのか」、よくある結末:インドかネパールに旅立つ。その二〈世界のなかで自己が占める位置に対する不全感〉、適用例:「どこにも自分の居場所がない」「私はこんな世界に生まれて来るはずではなかった」、よくある結末:夜中に学校中の窓ガラスを叩き割る。その三はその二の裏返しで、攻撃性が世界に向けられた場合である。適用例:「オレを正当に扱わなかった世界に復讐してやる」 先週取り上げた〈暗い眸をした歌人〉高島裕の短歌には、この世界憎悪が強く感じられる。その四は恋愛で、これは説明不要だろう。青春期にもっとも魂を揺り動かすのは恋愛体験である。ところが石川の短歌には、上に列挙したどれにも該当するものがない。
それでは理由を客体の側に求めるとして、世界が怪しいかどうかは、一概に決められるものではなく、見る人の視線に依存する。だから石川の短歌の怪しさは、ひとえに石川が世界を怪しく見る視線のなかに存在することになる。その謎を解く鍵は歌集のあとがきにある。深夜、東海道線の列車に乗っていると、ぬるりとした空気が車内に漂い、前に立つ人のうしろには犬の尾のようなものが見え、隣に座っている人の手には鱗のようなものが光っていて、自分にもたれかかって眠る人の顔がいつのまにかトドの顔になっているという文章である。石川はこんな風に世界を見るのが好きなのだ。これはつまり〈世界を異化する感覚〉である。石川の短歌は、作者のまなざしによって異化された世界を描いているのである。石川の短歌が怪しいのはここに理由がある。
上にあげた歌をもう一度見てみよう。一首目の「天より細く垂れきたる紐」とは何だろう。何かはわからないが読者は「やってしまった」感とともに宙ぶらりんに残される。二首目、早口言葉の「隣の客はよく柿食う客だ」を言い間違えると、こんなにシュールな世界になる。石川が好む「異化」による世界の転倒は、この歌に遺憾なく発揮されていると言える。三首目は学校風景を詠んだ歌だが、廊下に高野豆腐とは比喩としても奇抜である。ほんとうに高野豆腐が落ちていたらもっとすごい。四首目は「完全茸狩りマニュアル」と題された連作のなかの一首で、この連作は石川の異化作用がとりわけ強い。茸が月見をしているというのはメルヘン調の童話的でまあいいとして、自分がそこに招かれており、しかも自分に毒があるというのは、完全な主客転倒である。五首目、近所の噂話としても「花屋は百合の匂ひが嫌ひ」というのはどこか変である。ちなみにこの歌は「日陰に」「ひやひや」の語頭の「ひ」の繰り返し、「百合」「匂ひ」「嫌ひ」の語末[i]音の連続が心地よいリズム感を作り出している。六首目、古本屋の店先に百本の傘はどう考えても異様である。七首目は水原も特に好きな歌としてあげているが、このメルヘン風を装った怖さはどうだろう。それにエミールって誰だ?
石川の短歌のもうひとつの特徴として、言葉と擬音語のきわめて意図的な使用がある。これを押し進めると、次のような言葉遊び的短歌になる。
はらからがはらはら泣きて駆け戻るゆめよりさめて歯の奥いたむ
恋人を連れて歩けるひとを見しみしみしと染みてくる空のいろ
にこにこと笑ふばかりの兄上はにまめにまいめお別れにがて
掲載歌もくしゃみの擬音を「はぷすぶるぐ」としたことに面白みがあるのは言うまでもない。こういう歌を見ていると、永井陽子の「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」を思い出してしまう。永井が作るのも見立てとウィットに富む短歌だったが、石川の短歌世界はどことなく永井の歌の与える感覚に通じるところがある。言葉なんかどうでもいいから世界と関わりたいというのではなく、〈世界を見るプリズム〉として言葉を大事にする態度があり、時には見ていたはずの世界の影が薄くなって言葉だけが中空に残るという感覚である。
もちろん集中には、言葉遊びでもなく世界の異化でもなく、次のようないかにも短歌的な短歌もあり、これはこれでなかなか美しい。
いづれ来る悲しみのため胸のまへに暗き画板を抱へていたり
梨花一枝春ノ雨帯ビ ゆふはりと忘れゆきたる人の名ありき
花びらの残骸積もる路地ありて真昼ちひさき古書店に入る
ところでなぜ世界を異化して眺めるのだろうか。動機にはふたつあるように思う。〈遊戯としての異化〉と〈自己防衛としての異化〉である。前者は異化して眺めることによって現われる世界の異相を楽しむ感覚であり、後者は世界をあるがままに見るのが怖いので異化して見ることで自己を防衛する態度である。石川のホームページの「就活を詠む」にある「玉ネギにすこし似てゐる社長にてネギが説明してゐる社風」などを見ると、買手市場の就職戦線での自己防衛という動機も少しはあるのかなとも思うが、基本的には石川は「そう見える」ことを楽しんでいる。それがこの歌集の明るくのびのびとした印象につながっているのだろう。自己の内部に鬱屈して屈み込む歌が一首もない。
人生の猶予期間である学生時代を卒業し、社会人になった石川がこの先どのように世界を異化して眺めるのか、なかなか楽しみなことではある。そう思わせてくれる第一歌集だ。
石川美南のホームページ
どれほど怪しいか、特に怪しそうなのを何首かあげてみよう。
わたしだつたか 天より細く垂れきたる紐を最後に引つぱつたのは
隣の柿はよく客食ふと耳にしてぞろぞろと見にゆくなりみんな
始業ベル背中に浴びて走りにき高野豆腐の湿る廊下を
茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして
噂話は日陰に溜まりひやひやと「花屋は百合の匂ひが嫌ひ」
夕立が世界を襲ふ午後に備へて店先に置く百本の傘
窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ
石川は1980年生まれ。あとがきには短歌を作り始めて7年とあるから、逆算すると16歳の高校生の頃から作歌をしていたことになる。特定の結社には所属していないが、早稲田の水原紫苑の短歌ゼミで学んでいる。2003年に東京外国語大学を卒業していて、ホームページには就職活動に題材を採った歌が掲載されているので、首尾よく就職していれば社会人になりたてという若い人なのである。
もし水原の言うとおり石川の短歌が怪しいとするならば、その原因は理論的にはふた通り考えられる。歌を作る主体としての石川が怪しいヒトだからか、短歌に詠まれた世界が怪しいからかである。怪しさのよって来たる根拠を、〈主体〉の側に求めるか〈客体〉の側に求めるかということだ。歌から読みとる限り、石川本人にはまったく怪しいところがない。極めて健全でまっとうであり、文学青年(少女)にありがちな自虐的なところがなく、自己演出もない。舌にピアスをしたり、カミソリでどこかを切ったりする気配のない人である。
オジサンの目から見れば、青年期の文学がそのエネルギーを汲み出す泉は次のいずれかである。その一〈自我への懐疑〉。適用例:「私は何ものか」「ほんとうの私はどこにいるのか」、よくある結末:インドかネパールに旅立つ。その二〈世界のなかで自己が占める位置に対する不全感〉、適用例:「どこにも自分の居場所がない」「私はこんな世界に生まれて来るはずではなかった」、よくある結末:夜中に学校中の窓ガラスを叩き割る。その三はその二の裏返しで、攻撃性が世界に向けられた場合である。適用例:「オレを正当に扱わなかった世界に復讐してやる」 先週取り上げた〈暗い眸をした歌人〉高島裕の短歌には、この世界憎悪が強く感じられる。その四は恋愛で、これは説明不要だろう。青春期にもっとも魂を揺り動かすのは恋愛体験である。ところが石川の短歌には、上に列挙したどれにも該当するものがない。
それでは理由を客体の側に求めるとして、世界が怪しいかどうかは、一概に決められるものではなく、見る人の視線に依存する。だから石川の短歌の怪しさは、ひとえに石川が世界を怪しく見る視線のなかに存在することになる。その謎を解く鍵は歌集のあとがきにある。深夜、東海道線の列車に乗っていると、ぬるりとした空気が車内に漂い、前に立つ人のうしろには犬の尾のようなものが見え、隣に座っている人の手には鱗のようなものが光っていて、自分にもたれかかって眠る人の顔がいつのまにかトドの顔になっているという文章である。石川はこんな風に世界を見るのが好きなのだ。これはつまり〈世界を異化する感覚〉である。石川の短歌は、作者のまなざしによって異化された世界を描いているのである。石川の短歌が怪しいのはここに理由がある。
上にあげた歌をもう一度見てみよう。一首目の「天より細く垂れきたる紐」とは何だろう。何かはわからないが読者は「やってしまった」感とともに宙ぶらりんに残される。二首目、早口言葉の「隣の客はよく柿食う客だ」を言い間違えると、こんなにシュールな世界になる。石川が好む「異化」による世界の転倒は、この歌に遺憾なく発揮されていると言える。三首目は学校風景を詠んだ歌だが、廊下に高野豆腐とは比喩としても奇抜である。ほんとうに高野豆腐が落ちていたらもっとすごい。四首目は「完全茸狩りマニュアル」と題された連作のなかの一首で、この連作は石川の異化作用がとりわけ強い。茸が月見をしているというのはメルヘン調の童話的でまあいいとして、自分がそこに招かれており、しかも自分に毒があるというのは、完全な主客転倒である。五首目、近所の噂話としても「花屋は百合の匂ひが嫌ひ」というのはどこか変である。ちなみにこの歌は「日陰に」「ひやひや」の語頭の「ひ」の繰り返し、「百合」「匂ひ」「嫌ひ」の語末[i]音の連続が心地よいリズム感を作り出している。六首目、古本屋の店先に百本の傘はどう考えても異様である。七首目は水原も特に好きな歌としてあげているが、このメルヘン風を装った怖さはどうだろう。それにエミールって誰だ?
石川の短歌のもうひとつの特徴として、言葉と擬音語のきわめて意図的な使用がある。これを押し進めると、次のような言葉遊び的短歌になる。
はらからがはらはら泣きて駆け戻るゆめよりさめて歯の奥いたむ
恋人を連れて歩けるひとを見しみしみしと染みてくる空のいろ
にこにこと笑ふばかりの兄上はにまめにまいめお別れにがて
掲載歌もくしゃみの擬音を「はぷすぶるぐ」としたことに面白みがあるのは言うまでもない。こういう歌を見ていると、永井陽子の「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」を思い出してしまう。永井が作るのも見立てとウィットに富む短歌だったが、石川の短歌世界はどことなく永井の歌の与える感覚に通じるところがある。言葉なんかどうでもいいから世界と関わりたいというのではなく、〈世界を見るプリズム〉として言葉を大事にする態度があり、時には見ていたはずの世界の影が薄くなって言葉だけが中空に残るという感覚である。
もちろん集中には、言葉遊びでもなく世界の異化でもなく、次のようないかにも短歌的な短歌もあり、これはこれでなかなか美しい。
いづれ来る悲しみのため胸のまへに暗き画板を抱へていたり
梨花一枝春ノ雨帯ビ ゆふはりと忘れゆきたる人の名ありき
花びらの残骸積もる路地ありて真昼ちひさき古書店に入る
ところでなぜ世界を異化して眺めるのだろうか。動機にはふたつあるように思う。〈遊戯としての異化〉と〈自己防衛としての異化〉である。前者は異化して眺めることによって現われる世界の異相を楽しむ感覚であり、後者は世界をあるがままに見るのが怖いので異化して見ることで自己を防衛する態度である。石川のホームページの「就活を詠む」にある「玉ネギにすこし似てゐる社長にてネギが説明してゐる社風」などを見ると、買手市場の就職戦線での自己防衛という動機も少しはあるのかなとも思うが、基本的には石川は「そう見える」ことを楽しんでいる。それがこの歌集の明るくのびのびとした印象につながっているのだろう。自己の内部に鬱屈して屈み込む歌が一首もない。
人生の猶予期間である学生時代を卒業し、社会人になった石川がこの先どのように世界を異化して眺めるのか、なかなか楽しみなことではある。そう思わせてくれる第一歌集だ。
石川美南のホームページ