第95回 渡辺実『日本語と和歌』

年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり佐夜の中山
                       西行法師
 今回の「橄欖追放」は歌集ではなく歌論でもなく、国語学の論文を取り上げたい。渡辺実の「日本語と和歌」である(『国語意味論』所収、塙書房、2002年、初出は『和歌文学講座 1』勉誠社、1993年)。渡辺は大正15年(1926年)生まれ。京都大学文学部を卒業、長く京都大学教養部で国語学を講じ、1985年に上智大学文学部に転じている。計算してみると、私は教養部で渡辺と同僚だった期間が5年間あるが、当時駆け出しの私には残念ながら記憶がない。
 京都大学教養部の一般教養科目には「言学」という科目があった。奇妙な名称で他のどこにも見あたらない。ふつうは「言語学」という。この「言学」という科目名には長い歴史と学問的背景がある。近代言語学の父として知られるソシュールの著書は、日本でいちはやく小林英夫によって翻訳され『言語学原論』(岡書院)として世に出た。1928年のことである。同書はのちに岩波書店から出版され(1940年)、1972年に『一般言語学講義』として改訳出版されて現在に至っている。ソシュールは構造としての言語をラング (langue)と呼び、その具体的使用であるパロール (parole)と区別して、言語学はラングを研究対象とすると規定した。小林英夫は翻訳にあたって「ラング」を「言語」、パロールを「言」と訳した。ならばこそ『言語学原論』という書名に意味がある。
 これに敢然と立ち向かったのが国語学者時枝誠記ときえだ もとき (1900 – 1967)である。時枝は「言語過程説」という独自の理論を提唱し、パロールこそが研究対象であるべきだとした。そして『言語学原論』の向こうを張って『国語学原論』(1941年)を世に問うた。京都大学教養部の国語学教室は時枝の流れを汲むがゆえに、小林の翻訳を踏まえて、ラングの学としての「言語学」ではなく、パロールの学として「言学」を看板に掲げていたのである。
 もちろん大学に入学したばかりの自意識過剰の若造に、この科目名に込められた深い意味と含蓄がわかるはずもない。ただ「ヘンな名前やな」と感じたのみである。思い返せば当時の教養部には、阪倉篤義さかくらあつよし、渡辺実、川端善明らそうそうたる国語学者がひしめいていた。「エラい先生だ」と気が付いたのはずっと後のことで、その学問の深さを理解するにはさらに何十年も要した。あの頃もっと講義を聴いていればと悔やんでも後の祭りである。
 渡辺の「日本語と和歌」は15頁程度の小論だが、その射程は鋭く深い。国語学の専門家だけでなく、短歌を初めとして広く言葉に関わる人に、あらためて日本語の特質について考える材料を提示してくれる。渡辺の年来の主張は次のように要約できる。
 日本語は言語主体の側に属する意義に対して温かく、対して西洋諸語は対象の側に属する意義にエネルギーを注ぎ込もうとする言語である。
 渡辺は言語主体(話し手)に属する意義を主体的意義または「わがこと」と呼び、対象の側に属する意義を対象的意義または「ひとごと」と呼んでいる。日本語は「わがこと」と「ひとごと」を鋭く区別し、「わがこと」に温かい言語だということになる。
 具体例を挙げて説明しよう。「うれしい」「悲しい」のように感情を表す表現は、「私はうれしい」「私は悲しい」のように1人称(話し手)には使うことができるが、「×彼はうれしい」「×あなたは悲しい」のように話し手以外には使うことができない。他人については「彼はうれしそうだ」とか「花子は悲しがっている」のように、「そうだ」や「がる」などを付けて感情を客体化しなくてはならない。「うれしい」「悲しい」のような感情は、それを感じている当人にしかわからず、ましてや表現できないからである。一方、英語では I am happy / sad.と並んで He is happy / sad. は何の問題もない。日本語は私しか感じることのできない「わがこと」領域を言語的に厳しく区別する。それにたいして英語は「わがこと」と「ひとごと」の区別に無関心であるということである。
 「わがこと」とは話し手が自分について語る領域であり、その最深部は感覚・感情によって構成されている。「ひとごと」は「あの人は背が高い」や「この川は流れが速い」のように、〈私〉以外の対象、すなわち〈世界〉について語る領域である。もし渡辺の説が正しいとするならば、英語などの西洋語は〈私〉ですらも〈世界〉を構成する一部として客観的に表現する言語であり、翻って日本語は〈私〉語りと〈世界〉語りとを区別する。いや、渡辺はさらに論を進めて、日本語では〈世界〉について語ってもそれは畢竟〈私〉語りとならざるを得ない言語だと言うのである。
 このことは日常の言葉の使い方にも看て取れる。他出しようと玄関を出たところで近所の顔見知りに出会ったとする。私たちは挨拶を交わして「今日はいい天気ですね」などと言う。しかしこの文から終助詞の「ね」を取り去って、「今日はいい天気です」とすると非常におかしい。このおかしさは「今日はいい天気です」という文の文法性に関わるものではない。これはこれで立派な日本語の文である。しかし、私たちは前述したような状況ではそのようには言わない。ここはどうしても確認・同意を表す「ね」が必要だ。だからこの文のおかしさは、〈私〉と〈あなた〉に関わる伝達の場への適合性の問題である。一方、英語ではと考えてみると、同じ状況でIt’s fine today.という発話は何の問題もない。日本語では「今日はいい天気です」という伝達すべき情報内容(「世界」語り) に、〈私〉と〈あなた〉の織り成す伝達の場が否応なく付随するのである。終助詞の「ね」を付すことで、「〈私〉は〈あなた〉に次のことを述べますから、それを受け取って確認・同意してください」という伝達の位相が加わるのである。
 渡辺の論に戻ろう。渡辺は日本の和歌が古くは相聞・贈答にあり、和歌の言語が特定の人物を相手とする伝達の言語の水準にあったとする。もちん古代の和歌にも叙景歌は存在する。では叙景歌は自然などの対象を詠むものだから、「ひとごと」に属するかというとどうもそうではないようだ。渡辺は次のように続ける。
実は、目の前の実景を詠ずるというそのことが、伝達向きに出来ている日本語の場合、対象的意義に徹することの出来ない原因として作用するようなのである。伝達の言語の典型的なあり方は、特定の話手が、特定の聞手に対して、特定の時、特定の所において、言表する、という構造を持つ。日本語が伝達の言語としてよく出来ている、ということは、「わたしが、あなたに、いま、ここで」という現場性によく順応し得る性質が、日本語には濃厚に備わっている、ということを意味しよう。(…) 日本語は、たとえ「わたし」と言わず、自然そのものを描くように言ってもなお、それは「わたし」の風景であろうとする。
 渡辺はこのような論を踏まえて、万葉集の「春すぎて夏来るらし白たへの衣ほしたり天の香具山」は、実景を前にしての詠ではあっても決して叙景歌ではなく、「春すぎて夏来るらし」という作者(話し手)の「いま」「ここ」における主体的判断が眼目だとする。すなわちこれを一般化すれば、自然ですら日本語では「わがこと」として主体化されるということであり、山を詠もうと川を詠もうと、畢竟それは〈私〉を詠むことになるということである。
 渡辺はさらに論を進めて、見たて・縁語・掛詞また体言止も同様に、主体的意義の側に資する語法だとしているが、煩雑になるのでこれ以上は触れない。
 もし渡辺の言うように、日本語が「わがこと」的性格を強く内在させ、主体的意義に温かい言語であるとするならば、和歌・短歌・俳句のような短詩型文学が発達したことは納得がいく。日本語に「わがこと」的性格が内在するのならば、どのような短い断句にも〈私〉が揺曳せざるをえないからである。
 折しも吉本隆明の訃報が報じられたところである。吉本の「短歌的喩」という概念を渡辺の論と照らし合わせて再考するのも一興だが、それは私の手に余ることなので、ここまでに留めたい。