兵たりしものさまよへる風の市(いち)
白きマフラーをまきゐたり哀し
大野誠夫『薔薇祭』
白きマフラーをまきゐたり哀し
大野誠夫『薔薇祭』
冒頭の「兵たりしもの」という表現がすでに哀しい。敗戦で日本は武装解除され、兵隊は「兵たりしもの」、つまりなれの果てと化した。当時白いマフラーをまいていたのは航空兵で、兵隊のなかのエリートだった。それだけに自失した幽鬼のようになって闇市をさまよう姿は痛々しく、敗戦直後の日本の世相の一断面を活写して記憶に残る歌となっている。下句が8・8音と増音となっているのも、結句の「哀し」という短い主情表現にたどり着くまでを引き延ばすことで強調する効果が感じられる。
私が何もわからず短歌を読み始めたとき、戦後歌人を大勢収録したアンソロジーのなかで特に惹かれたのが大野誠夫 (おおの のぶお) であった。次のような歌が特に印象に残った。
クリスマス・ツリーを飾る灯の窓を旅びとのごとく見てとほるなり
絶望に生きしアントン・チェホフの晩年をおもふ胡桃割りつつ
ジヤズ寒く湧きたつゆふべ墜ち果てしかの天使らも踊りつつあらむ
北向きのホテルの窓に青き卓レモンを積みて宵のひかりよ
音しづかにジープとまりぬいのち脆き金魚を買ひて坂下りゆく
宵々をピアノをたたく未亡人何か罪深く草に零(こぼ)る灯
これらの歌を収録した第一歌集『薔薇祭』は昭和26年 (1951年) に出版された。塚本邦雄は「焦土にひらいた短歌の花の小さな祝祭であった」と評し、「彼のリアルとひきかえに獲得した美が、朔太郎のパロディ臭をもつ、大正末期的な甘い頽廃に彩られたものであるにしても、敗戦直後の、現代短歌生誕混迷期の、かけがえのないフェスティバルであった」と総括している。
大野に関してよく指摘されるのがその「物語性」「ドラマ性」であり、その傾向は上に引用した歌にも濃厚に感じられる。一首目の「クリスマス・ツリーを飾る灯の窓」が象徴する豊かさと幸福を横目に見ながら、「旅びとのごとく見てとほる」〈私〉には、自らを世間的幸福とは無縁な存在と規定する自己演出がある。「汚れたるヴイヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく」という山崎方代の歌に通じる自己演出である。二首目を代表歌として『現代百歌園』で引用した塚本邦雄は、「ロマネスクと呼ぶべき短歌が、この人の手によって生まれ出たのだ」と述べている。もっともその直後に、「たとえ風俗小説的世界に止まったとは言え」と続けているが。三首目に登場するジャズは、進駐軍と共に日本に持ち込まれた戦後風俗である。しかしジャズは「熱く湧きたつ」のではなく、逆に「寒く湧きたつゆふべ」と詠まれているところに、大野の戦後風景を見つめる目の苦さがある。四首目は逆に暗さのなかに明るさを感じさせる歌であり、言うまでもなくレモンという小道具は青春性とロマンチシズムの象徴であるが、このあたりに大野の「甘さ」を見る人もいるのだろう。五首目はまるでショート・フィルムのような映像を感じさせる歌。もともと画家を志したことのある大野は、短歌における視覚的美に敏感であった。若い人のために言っておくと、当時ジープといえぱそれは進駐軍のGIのことである。六首目あたりに塚本は「風俗小説的世界」を感じるのだろう。「未亡人」は戦後珍しくはなかったが、「罪深く」と並べて用いられると、とたんにドラマ性が生まれる。大野はこのような短歌の作り方に巧みであった。
大野は加藤克巳、近藤芳美、宮柊二、前田透らとともに、終戦直後に結成された「新歌人集団」に属しており、合同歌集『新選五人』(昭和26年)に参加している。「新歌人集団」そのものには、特に全員に共通する明確な主張はなかったと言われているが、大野は「美の飢渇 – ひとつの批評基準」(『人民短歌』昭和22年6月)という文章のなかで次のように述べている。
「現代短歌の乏しさも存在の薄弱さも、美感の喪失からきている。このはげしい美の飢渇に気づいているものが、案外少いというのも、時代の混乱のためであろう。美を失った真実の探求 – 糞リアリズムと呼ばれた、あの乾燥した現象描写の卑俗さも、そこからくる (…) 」
昭和22年と言えば、近藤芳美が「新しき短歌の規定」を世に問う一方で、小野十三郎が「短歌的抒情に抗して」を発表して、短歌否定論を展開した年である。翌年には戦後リアリズム短歌を代表する近藤の『埃吹く街』が出版されている。こんな時代のなかで、「糞リアリズム」をこきおろし、「美の復権」を吹聴する大野は傍流の位置を免れることはできなかったろう。篠弘などは『現代短歌史 I 戦後短歌の運動』(短歌研究社)の中で、大野の短歌のリアリズム的側面を取り上げて評価するという的外れなことをしているほどである。
初期の歌を収録した『花筏』(1966年)には、25歳で地主であった生家を出奔し、新聞記者となって文学を志すという、ある意味でオーソドックスな上京物語が歌にされている。
何か言ひたき父なりしならむわれに向けし眉おもおもと曇りてありき
海峡をわたれる時し何ゆゑか胸つきあぐるものがありたり
エレベーターの箱の隅に息鎮めをり新聞記者われは事件を襲ふいま
大野の生家は茨城県にあり、上京するのに海峡を渡ることはない。ここにすでに虚構があり自己劇化がある。その短歌に濃厚な「物語性」といい、故郷を捨てて文学に志す姿といい、後年の寺山修司を思わせるものが感じられる。また次のような歌などは、まるで映画のワンシーンのようであり、大野の絵画的手法は最初からあったことがわかる。
息喘ぎ荷馬車の馬が倒れをりながながと市電が停れるさきに
鶏(とり)の香の沁みつきにけむ石畳男と語る眼の鋭しも
『薔薇祭』には次のような、戦後を濃厚に感じさせる風俗描写があり、からっと広がる空に漂う虚無感が特徴的である。敗戦直後という時代背景と、大野が志向するロマネスクとが、ぴったりと寄り添うことで生まれた歌である。
神さへも見失ひつつ何もなき裸形をつつむぼろぼろの衣(きぬ)
すべもなくけふは売らなと携へし弦(いと)切れし楽器・仏蘭西革命史など
西欧のあたらしき思潮説くをとめ煙草は染まるその唇紅に
煙草火を借ると寄りきし少年の髭伸びて丸め持つ妖婦伝
今回は『行春館雑唱』(1954年)、『胡桃の枝の下』(1956年)、『山鴫』 (1965年)、『象形文字』 (1965年)までの抜粋を収録した自選歌集『羈鳥歌』を読んだので、そこまでしか追いかけていないが、印象に残った歌をあげておく。
忘られて銀髪ひかる俳優がひとりシートに寝てゐる夜汽車 『行春館雑唱』
淡あはとみづきの花の散るあたり孔雀は啼けり埃の奥に
酒場にて働く少女を妻として露地裏に蝶の絵を描き暮らす
花曇る空に灰色の扉ありいづこの国の呪文をつづる 『胡桃の枝の下』
数知れぬ爬虫の背(せな)は濡れながら薔薇腐れゆく垣をめぐりぬ
蒼白の娼婦歩めり裾原の真昼の道に物音は死す
砲声のとどろく夜に繃帯を白くして無人の街来たるわれ 『山鴫』
人知れず脱皮を終へてしばらくは光のなかにうづくまりをり
あたらしき怒りの花の種子微塵わが手を放れ光りつつ散る
蝶追ひて見知らぬ森の路ゆきぬ子の背を隠す夏草の花 『象形文字』
段丘に人ゐて石の壁を打つ虚しき秋のひかりみなぎる
厨芥(ちゅうかい)の凍らむとするひとところ人のいとなみのはや襤褸めく
『薔薇祭』を特徴づける自己劇化とドラマ性は、『行春館雑唱』ではまだ見られるものの、次第に薄れてゆく。それに代わって目立つようになるのは、五首目「数知れぬ」に代表される、幻想と写実とがないまぜになったような対象の立ち上げ方をした歌である。無数の爬虫類と腐る薔薇という取り合わせはリアリズムであるはずがなく、かといって作者の純粋な心象風景と割り切ることもできない。六首目「蒼白の」でも山裾の道の真昼の静けさは現実のものであっても、その風景のなかに娼婦を配することで、光景は一気に幻影色を強めることになる。これは大野が最初から持っていた虚構的傾向がさらに深化したものと言えるだろう。七首目「砲声の」あたりになるとさらに幻想味が増して、まるでキリコの絵でも見ているようである。『象形文字』にはこのような傾向の歌が多くあり、「段丘に」の歌などその不思議な味わいのせいで一読したら忘れられない。
大野には「風俗派」「浪漫派」「虚構派」「芸術派」など、さまざまなレッテルが貼られてきたらしい。『現代短歌大事典』(三省堂)に記事を執筆した弟子の松平修文は、大野の本質は「虚構派」「芸術派」だと断定している。しかし、弟子は自分が継承した傾向を師匠に見るものである。松平の「水の辺にからくれなゐの自動車(くるま)来て烟のような少女を降ろす」のような歌は、大野の「虚構派」「芸術派」の傾向をさらに押し進めたものとして位置づけられるのだろう。
塚本邦雄は次のような大野の歌を引いて、「前衛短歌作歌群の何人かは、このあたりに激励されて、ひそかに翼を収めていたはずである」と述べている。
紫蘇の葉の低むらがりに光差しみづからを恃む心ぞ熱き 『薔薇祭』
幾千の花かがやかす椿の木風なき午後を渇きに堪へず
写実一辺倒のリアリズムを批判して「美の復権」を訴えた大野の短歌は、芸術性と反写実を旗印とした前衛短歌運動に影響を与えたということだろう。しかし実際に歌集を読んでみると、大野の作歌態度はどっちつかずのところがある。『象形文字』のなかにすら、次のような身辺雑記的な歌が見られる。
ものごころつきしより限りなく甘え来し父病みしかば寂しかりけむ
とはいえ大野の体質のなかに存在するロマネスク志向は、塚本邦雄や寺山修司によって吸収されていったのだろう。この傾向は形を変えて、藤原龍一郎の言う「ギミック」へと連なるように思うのだがどうだろうか。
私が何もわからず短歌を読み始めたとき、戦後歌人を大勢収録したアンソロジーのなかで特に惹かれたのが大野誠夫 (おおの のぶお) であった。次のような歌が特に印象に残った。
クリスマス・ツリーを飾る灯の窓を旅びとのごとく見てとほるなり
絶望に生きしアントン・チェホフの晩年をおもふ胡桃割りつつ
ジヤズ寒く湧きたつゆふべ墜ち果てしかの天使らも踊りつつあらむ
北向きのホテルの窓に青き卓レモンを積みて宵のひかりよ
音しづかにジープとまりぬいのち脆き金魚を買ひて坂下りゆく
宵々をピアノをたたく未亡人何か罪深く草に零(こぼ)る灯
これらの歌を収録した第一歌集『薔薇祭』は昭和26年 (1951年) に出版された。塚本邦雄は「焦土にひらいた短歌の花の小さな祝祭であった」と評し、「彼のリアルとひきかえに獲得した美が、朔太郎のパロディ臭をもつ、大正末期的な甘い頽廃に彩られたものであるにしても、敗戦直後の、現代短歌生誕混迷期の、かけがえのないフェスティバルであった」と総括している。
大野に関してよく指摘されるのがその「物語性」「ドラマ性」であり、その傾向は上に引用した歌にも濃厚に感じられる。一首目の「クリスマス・ツリーを飾る灯の窓」が象徴する豊かさと幸福を横目に見ながら、「旅びとのごとく見てとほる」〈私〉には、自らを世間的幸福とは無縁な存在と規定する自己演出がある。「汚れたるヴイヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく」という山崎方代の歌に通じる自己演出である。二首目を代表歌として『現代百歌園』で引用した塚本邦雄は、「ロマネスクと呼ぶべき短歌が、この人の手によって生まれ出たのだ」と述べている。もっともその直後に、「たとえ風俗小説的世界に止まったとは言え」と続けているが。三首目に登場するジャズは、進駐軍と共に日本に持ち込まれた戦後風俗である。しかしジャズは「熱く湧きたつ」のではなく、逆に「寒く湧きたつゆふべ」と詠まれているところに、大野の戦後風景を見つめる目の苦さがある。四首目は逆に暗さのなかに明るさを感じさせる歌であり、言うまでもなくレモンという小道具は青春性とロマンチシズムの象徴であるが、このあたりに大野の「甘さ」を見る人もいるのだろう。五首目はまるでショート・フィルムのような映像を感じさせる歌。もともと画家を志したことのある大野は、短歌における視覚的美に敏感であった。若い人のために言っておくと、当時ジープといえぱそれは進駐軍のGIのことである。六首目あたりに塚本は「風俗小説的世界」を感じるのだろう。「未亡人」は戦後珍しくはなかったが、「罪深く」と並べて用いられると、とたんにドラマ性が生まれる。大野はこのような短歌の作り方に巧みであった。
大野は加藤克巳、近藤芳美、宮柊二、前田透らとともに、終戦直後に結成された「新歌人集団」に属しており、合同歌集『新選五人』(昭和26年)に参加している。「新歌人集団」そのものには、特に全員に共通する明確な主張はなかったと言われているが、大野は「美の飢渇 – ひとつの批評基準」(『人民短歌』昭和22年6月)という文章のなかで次のように述べている。
「現代短歌の乏しさも存在の薄弱さも、美感の喪失からきている。このはげしい美の飢渇に気づいているものが、案外少いというのも、時代の混乱のためであろう。美を失った真実の探求 – 糞リアリズムと呼ばれた、あの乾燥した現象描写の卑俗さも、そこからくる (…) 」
昭和22年と言えば、近藤芳美が「新しき短歌の規定」を世に問う一方で、小野十三郎が「短歌的抒情に抗して」を発表して、短歌否定論を展開した年である。翌年には戦後リアリズム短歌を代表する近藤の『埃吹く街』が出版されている。こんな時代のなかで、「糞リアリズム」をこきおろし、「美の復権」を吹聴する大野は傍流の位置を免れることはできなかったろう。篠弘などは『現代短歌史 I 戦後短歌の運動』(短歌研究社)の中で、大野の短歌のリアリズム的側面を取り上げて評価するという的外れなことをしているほどである。
初期の歌を収録した『花筏』(1966年)には、25歳で地主であった生家を出奔し、新聞記者となって文学を志すという、ある意味でオーソドックスな上京物語が歌にされている。
何か言ひたき父なりしならむわれに向けし眉おもおもと曇りてありき
海峡をわたれる時し何ゆゑか胸つきあぐるものがありたり
エレベーターの箱の隅に息鎮めをり新聞記者われは事件を襲ふいま
大野の生家は茨城県にあり、上京するのに海峡を渡ることはない。ここにすでに虚構があり自己劇化がある。その短歌に濃厚な「物語性」といい、故郷を捨てて文学に志す姿といい、後年の寺山修司を思わせるものが感じられる。また次のような歌などは、まるで映画のワンシーンのようであり、大野の絵画的手法は最初からあったことがわかる。
息喘ぎ荷馬車の馬が倒れをりながながと市電が停れるさきに
鶏(とり)の香の沁みつきにけむ石畳男と語る眼の鋭しも
『薔薇祭』には次のような、戦後を濃厚に感じさせる風俗描写があり、からっと広がる空に漂う虚無感が特徴的である。敗戦直後という時代背景と、大野が志向するロマネスクとが、ぴったりと寄り添うことで生まれた歌である。
神さへも見失ひつつ何もなき裸形をつつむぼろぼろの衣(きぬ)
すべもなくけふは売らなと携へし弦(いと)切れし楽器・仏蘭西革命史など
西欧のあたらしき思潮説くをとめ煙草は染まるその唇紅に
煙草火を借ると寄りきし少年の髭伸びて丸め持つ妖婦伝
今回は『行春館雑唱』(1954年)、『胡桃の枝の下』(1956年)、『山鴫』 (1965年)、『象形文字』 (1965年)までの抜粋を収録した自選歌集『羈鳥歌』を読んだので、そこまでしか追いかけていないが、印象に残った歌をあげておく。
忘られて銀髪ひかる俳優がひとりシートに寝てゐる夜汽車 『行春館雑唱』
淡あはとみづきの花の散るあたり孔雀は啼けり埃の奥に
酒場にて働く少女を妻として露地裏に蝶の絵を描き暮らす
花曇る空に灰色の扉ありいづこの国の呪文をつづる 『胡桃の枝の下』
数知れぬ爬虫の背(せな)は濡れながら薔薇腐れゆく垣をめぐりぬ
蒼白の娼婦歩めり裾原の真昼の道に物音は死す
砲声のとどろく夜に繃帯を白くして無人の街来たるわれ 『山鴫』
人知れず脱皮を終へてしばらくは光のなかにうづくまりをり
あたらしき怒りの花の種子微塵わが手を放れ光りつつ散る
蝶追ひて見知らぬ森の路ゆきぬ子の背を隠す夏草の花 『象形文字』
段丘に人ゐて石の壁を打つ虚しき秋のひかりみなぎる
厨芥(ちゅうかい)の凍らむとするひとところ人のいとなみのはや襤褸めく
『薔薇祭』を特徴づける自己劇化とドラマ性は、『行春館雑唱』ではまだ見られるものの、次第に薄れてゆく。それに代わって目立つようになるのは、五首目「数知れぬ」に代表される、幻想と写実とがないまぜになったような対象の立ち上げ方をした歌である。無数の爬虫類と腐る薔薇という取り合わせはリアリズムであるはずがなく、かといって作者の純粋な心象風景と割り切ることもできない。六首目「蒼白の」でも山裾の道の真昼の静けさは現実のものであっても、その風景のなかに娼婦を配することで、光景は一気に幻影色を強めることになる。これは大野が最初から持っていた虚構的傾向がさらに深化したものと言えるだろう。七首目「砲声の」あたりになるとさらに幻想味が増して、まるでキリコの絵でも見ているようである。『象形文字』にはこのような傾向の歌が多くあり、「段丘に」の歌などその不思議な味わいのせいで一読したら忘れられない。
大野には「風俗派」「浪漫派」「虚構派」「芸術派」など、さまざまなレッテルが貼られてきたらしい。『現代短歌大事典』(三省堂)に記事を執筆した弟子の松平修文は、大野の本質は「虚構派」「芸術派」だと断定している。しかし、弟子は自分が継承した傾向を師匠に見るものである。松平の「水の辺にからくれなゐの自動車(くるま)来て烟のような少女を降ろす」のような歌は、大野の「虚構派」「芸術派」の傾向をさらに押し進めたものとして位置づけられるのだろう。
塚本邦雄は次のような大野の歌を引いて、「前衛短歌作歌群の何人かは、このあたりに激励されて、ひそかに翼を収めていたはずである」と述べている。
紫蘇の葉の低むらがりに光差しみづからを恃む心ぞ熱き 『薔薇祭』
幾千の花かがやかす椿の木風なき午後を渇きに堪へず
写実一辺倒のリアリズムを批判して「美の復権」を訴えた大野の短歌は、芸術性と反写実を旗印とした前衛短歌運動に影響を与えたということだろう。しかし実際に歌集を読んでみると、大野の作歌態度はどっちつかずのところがある。『象形文字』のなかにすら、次のような身辺雑記的な歌が見られる。
ものごころつきしより限りなく甘え来し父病みしかば寂しかりけむ
とはいえ大野の体質のなかに存在するロマネスク志向は、塚本邦雄や寺山修司によって吸収されていったのだろう。この傾向は形を変えて、藤原龍一郎の言う「ギミック」へと連なるように思うのだがどうだろうか。