きりんは動物園でおなじみの首の長い動物で、短歌の表記では「きりん」「キリン」「麒麟」のいずれも見られる。漢字表記の麒麟は、本来は古代中国の想像上の動物で、オスが麟メスか麒なのだそうだ。徳の高い王や聖人が世に出たときに姿を見せると伝承されている。キリンビールのラベルに印刷されているのがこれである。
『岩波現代短歌辞典』の「きりん」の項には、次の二首が引用されている。
秋風(しゅうふう)に思ひ屈することあれど天(あめ)なるや若き麒麟の面(つら) 塚本邦雄 (追悼)
春の日の麒麟のような山のかげに僕の生まれた村が見える 中野嘉一
二首ともにジラフの姿形を示しながら、その背後に想像上の麒麟を想起させると解説がある。塚本の歌は天を仰ぐジラフの姿を通して、思い屈して面を伏せる〈私〉と天空をめざす麒麟との対比が詠われている。しかし中野の歌には麒麟の影はなく、動物園のジラフのような山の姿が詠われているだけではないかとも思う。
日本に最初にキリンが来たのはいつのことなのだろうか。象は江戸時代にやって来ているが、キリンはもっと遅いような気がする。いずれにせよ短歌に登場するのは明治以降の近代短歌においてであることはまちがいない。だとすると歌語・歌枕としては比較的歴史が浅く、歌の共同主観的世界においてそれほど決まった象徴的意味が付与されていないことになる。ならば歌人はそれぞれの見方に基づいて、独自の象徴性をキリンに付与すればよいのだが、おもしろいことに現代短歌においては一定の偏りが見られる。
掲出歌では〈私〉は秋風の吹く動物園でキリンを見ているのだが、対象に注ぐ眼差しはいつか反転して、〈私〉を「暗きかたまり」と感じている。夜の歌人である高野の歌の世界のなかでは、キリンが〈私〉の存在様態を把握する契機として捉えられている。このように〈私〉のほの暗い側面を意識させるキリンは、その存在の悲劇性において描かれていると考えてよい。
昔からそこにあるのが夕闇か キリンは四肢を折り畳みつつ 吉川宏志
若き日の苦しからむかびしびしと首打ちかはす麒麟を見れば 小池光
サファリパークは淋しい冬になるだらういつか麒麟が滅びしのちは 松原未知子
吉川の歌でもキリンは、春の日の射すのどかな動物園ではなく、迫り来る夕闇と並べられて描かれている。キリンはふつう立ったまま眠るらしいが、熟睡するときには座って首を後ろ足に載せるという。「四肢を折り畳む」動作は眠りに入ることを予感させると同時に、戦線を離脱し挫折することとにも通じ、夕闇に四肢を折り畳むキリンには、どこか沈み行く世界を思わせるところがある。
オスのキリンが互いに首を打ち合わす動作はネッキングと呼ばれていて、オス同士の勢力争いの行動らしい。小池の歌ではネッキングをするキリンを見ている〈私〉が、「若き日の苦しからむか」という思いを抱くのだが、それは生殖年齢という若さゆえのキリンの苦しさを思うと同時に、若さに由来する人間の苦しさに思いを馳せることにもつながっている。
松原の歌ではキリンが絶滅した未来を思い、キリンのいない世界の淋しさを思っているのだが、ここでもまたキリンは絶滅の可能性を感じさせる悲劇性において描かれている。
熱たかき夜半に想へばかの日見し麒麟の舌は何か黒かりき 中城ふみ子
あみめきりん茫洋とせるまなざしの霜月檻のうちより暮れて 中津昌子
膝を折るきりんの檻に背をつけて雨より深いくちづけをして ひぐらしひなつ
中城の歌では、病気で熱を出している夜中のことを詠っているが、熱のある夜は思考が混乱するのが常であり、高熱のときには幻覚を見ることもある。そんなときに昔見たキリンのことを思い出している。思い出すのはキリンの黒い舌である。キリンの全身ではなく舌だけが思い出されているところにこの歌のポイントがあり、その舌の黒さは過去の生活への作者の悔恨のようにも受け取れる。
中津の歌の「あみめきりん」というのはもともとある言い方ではなく、キリンの皮膚の模様が網目状をしていることを描写したものだろう。キリンは何を考えているのかわからない眼差しをしている。「檻のうちより暮れて」は外よりも檻の中の方が早く暗くなるということだが、取り立てて理由はないものの、全体に寂寥感の漂う歌となっている。
ひぐらしの歌集はその題名が『きりんのうた。』であるが、実はキリンを詠んだ歌はこの一首しかない。この歌では恋人同士がキリンの檻の前でキスをしていて、読みのポイントは「雨より深い」なのだが、恋人たちの背後ではキリンが膝を折っている。健康に暮らしているキリンは膝を折ることがない。水を飲む時でも前肢を伸ばしたまま大きく広げるので膝は折らない。だからキリンが膝を折るという行為には、どうしても負のイメージがつきまとう。そのイメージは檻の前でキスしている恋人たちにもいやおうなく投影されるのである。
首と首互みに鳴らす子きりんの股間きららに風薫る夕 加藤孝男
紙コップ熱きを妻に手渡せりキリンの首は秋風を漕ぐ 吉川宏志
たとうれば留守番電話のやさしさにキリンは立てり秋草を踏み 同
おまえにも麒麟にもない喉ぼとけ曝し歩まんマフラーほどいて 同
梅雨晴れの白き陽のさす柵のなか夢遊病者のキリンがあゆむ 同
加藤の歌のキリンには珍しく悲劇性はない。ネッキングをするキリンと、その長い足のあいだを通り抜ける風との取り合わせにより、むしろ華やかさが感じられる歌である。
吉川宏志はキリンが好きなのか、キリンの歌をたくさん詠んでいる。一首目は第一歌集『夜光』所収の歌なので、恋愛から結婚に至る初々しさという文脈のなかで読むことになる。秋の一日動物園に行き、自動販売機で買ったコーヒーの熱い紙コップを妻に手渡す。背後にいるキリンはしきりに首を動かしている。のどかな光景であり、ここにはキリンの過度な象徴性はない。二首目にはこれとはやや異なる感情移入が認められる。秋の草を踏んで立つキリンを留守番電話のやさしさに喩えているのだが、キリンは攻撃性に乏しく受動的存在として描かれている。三首目、「喉ぼとけのないお前」とは女性なのでたぶん妻のことだろう。自分は男なので喉ぼとけがあるが、冬の寒さのなかでマフラーをあえてほどいて歩こうという決意に富んだ歌である。四首目の舞台は梅雨晴れの日差しの中なのだが、キリンは夢遊病者として描かれている。これらの歌のなかでは強く主張はされていないものの、作者がキリンに自己の姿を投影しているように読むことができるだろう。
短歌にいちばんよく詠まれた動物は何だろうか。調べたわけではないのでわからないが、たぶん「鳥」ではなかろうか。しかし多くは「鳥」と表わされていて、種別までは特定しない場合が多い。そこまで細かく特定すると、逆に不要な象徴性を歌に呼び込むことになるからだろう。それと較べたとき、キリンの帯びている強い象徴性は明らかであり、現代短歌において独自の地位を占めていると言えるかもしれない。
『岩波現代短歌辞典』の「きりん」の項には、次の二首が引用されている。
秋風(しゅうふう)に思ひ屈することあれど天(あめ)なるや若き麒麟の面(つら) 塚本邦雄 (追悼)
春の日の麒麟のような山のかげに僕の生まれた村が見える 中野嘉一
二首ともにジラフの姿形を示しながら、その背後に想像上の麒麟を想起させると解説がある。塚本の歌は天を仰ぐジラフの姿を通して、思い屈して面を伏せる〈私〉と天空をめざす麒麟との対比が詠われている。しかし中野の歌には麒麟の影はなく、動物園のジラフのような山の姿が詠われているだけではないかとも思う。
日本に最初にキリンが来たのはいつのことなのだろうか。象は江戸時代にやって来ているが、キリンはもっと遅いような気がする。いずれにせよ短歌に登場するのは明治以降の近代短歌においてであることはまちがいない。だとすると歌語・歌枕としては比較的歴史が浅く、歌の共同主観的世界においてそれほど決まった象徴的意味が付与されていないことになる。ならば歌人はそれぞれの見方に基づいて、独自の象徴性をキリンに付与すればよいのだが、おもしろいことに現代短歌においては一定の偏りが見られる。
掲出歌では〈私〉は秋風の吹く動物園でキリンを見ているのだが、対象に注ぐ眼差しはいつか反転して、〈私〉を「暗きかたまり」と感じている。夜の歌人である高野の歌の世界のなかでは、キリンが〈私〉の存在様態を把握する契機として捉えられている。このように〈私〉のほの暗い側面を意識させるキリンは、その存在の悲劇性において描かれていると考えてよい。
昔からそこにあるのが夕闇か キリンは四肢を折り畳みつつ 吉川宏志
若き日の苦しからむかびしびしと首打ちかはす麒麟を見れば 小池光
サファリパークは淋しい冬になるだらういつか麒麟が滅びしのちは 松原未知子
吉川の歌でもキリンは、春の日の射すのどかな動物園ではなく、迫り来る夕闇と並べられて描かれている。キリンはふつう立ったまま眠るらしいが、熟睡するときには座って首を後ろ足に載せるという。「四肢を折り畳む」動作は眠りに入ることを予感させると同時に、戦線を離脱し挫折することとにも通じ、夕闇に四肢を折り畳むキリンには、どこか沈み行く世界を思わせるところがある。
オスのキリンが互いに首を打ち合わす動作はネッキングと呼ばれていて、オス同士の勢力争いの行動らしい。小池の歌ではネッキングをするキリンを見ている〈私〉が、「若き日の苦しからむか」という思いを抱くのだが、それは生殖年齢という若さゆえのキリンの苦しさを思うと同時に、若さに由来する人間の苦しさに思いを馳せることにもつながっている。
松原の歌ではキリンが絶滅した未来を思い、キリンのいない世界の淋しさを思っているのだが、ここでもまたキリンは絶滅の可能性を感じさせる悲劇性において描かれている。
熱たかき夜半に想へばかの日見し麒麟の舌は何か黒かりき 中城ふみ子
あみめきりん茫洋とせるまなざしの霜月檻のうちより暮れて 中津昌子
膝を折るきりんの檻に背をつけて雨より深いくちづけをして ひぐらしひなつ
中城の歌では、病気で熱を出している夜中のことを詠っているが、熱のある夜は思考が混乱するのが常であり、高熱のときには幻覚を見ることもある。そんなときに昔見たキリンのことを思い出している。思い出すのはキリンの黒い舌である。キリンの全身ではなく舌だけが思い出されているところにこの歌のポイントがあり、その舌の黒さは過去の生活への作者の悔恨のようにも受け取れる。
中津の歌の「あみめきりん」というのはもともとある言い方ではなく、キリンの皮膚の模様が網目状をしていることを描写したものだろう。キリンは何を考えているのかわからない眼差しをしている。「檻のうちより暮れて」は外よりも檻の中の方が早く暗くなるということだが、取り立てて理由はないものの、全体に寂寥感の漂う歌となっている。
ひぐらしの歌集はその題名が『きりんのうた。』であるが、実はキリンを詠んだ歌はこの一首しかない。この歌では恋人同士がキリンの檻の前でキスをしていて、読みのポイントは「雨より深い」なのだが、恋人たちの背後ではキリンが膝を折っている。健康に暮らしているキリンは膝を折ることがない。水を飲む時でも前肢を伸ばしたまま大きく広げるので膝は折らない。だからキリンが膝を折るという行為には、どうしても負のイメージがつきまとう。そのイメージは檻の前でキスしている恋人たちにもいやおうなく投影されるのである。
首と首互みに鳴らす子きりんの股間きららに風薫る夕 加藤孝男
紙コップ熱きを妻に手渡せりキリンの首は秋風を漕ぐ 吉川宏志
たとうれば留守番電話のやさしさにキリンは立てり秋草を踏み 同
おまえにも麒麟にもない喉ぼとけ曝し歩まんマフラーほどいて 同
梅雨晴れの白き陽のさす柵のなか夢遊病者のキリンがあゆむ 同
加藤の歌のキリンには珍しく悲劇性はない。ネッキングをするキリンと、その長い足のあいだを通り抜ける風との取り合わせにより、むしろ華やかさが感じられる歌である。
吉川宏志はキリンが好きなのか、キリンの歌をたくさん詠んでいる。一首目は第一歌集『夜光』所収の歌なので、恋愛から結婚に至る初々しさという文脈のなかで読むことになる。秋の一日動物園に行き、自動販売機で買ったコーヒーの熱い紙コップを妻に手渡す。背後にいるキリンはしきりに首を動かしている。のどかな光景であり、ここにはキリンの過度な象徴性はない。二首目にはこれとはやや異なる感情移入が認められる。秋の草を踏んで立つキリンを留守番電話のやさしさに喩えているのだが、キリンは攻撃性に乏しく受動的存在として描かれている。三首目、「喉ぼとけのないお前」とは女性なのでたぶん妻のことだろう。自分は男なので喉ぼとけがあるが、冬の寒さのなかでマフラーをあえてほどいて歩こうという決意に富んだ歌である。四首目の舞台は梅雨晴れの日差しの中なのだが、キリンは夢遊病者として描かれている。これらの歌のなかでは強く主張はされていないものの、作者がキリンに自己の姿を投影しているように読むことができるだろう。
短歌にいちばんよく詠まれた動物は何だろうか。調べたわけではないのでわからないが、たぶん「鳥」ではなかろうか。しかし多くは「鳥」と表わされていて、種別までは特定しない場合が多い。そこまで細かく特定すると、逆に不要な象徴性を歌に呼び込むことになるからだろう。それと較べたとき、キリンの帯びている強い象徴性は明らかであり、現代短歌において独自の地位を占めていると言えるかもしれない。