118:2005年8月 第4週 小笠原魔土
または、実験室から生まれる細胞レベルの抒情

「現象」に創りだされた「考え」が
      「現象」のことを考えている

        小笠原魔土『真夜中の鏡像』
 この歌の「現象」とは〈私〉のことである。〈私〉から生まれ出た「考え」が〈私〉のことを考えている。つまりこれは平たく言えば「私が自分のことを考えている」という日常誰でも経験する内省もしくは自省の場面を詠った歌なのだが,ここには〈私〉につきまとう〈内面性〉が決定的に欠落していることに注意しよう。近代短歌が100年以上にわたって醸成してきた〈私〉に慣れ親しんだ人のなかには,この〈内面性〉の欠落を衝撃的と感じる人もいるだろうし,独自の短歌を追求している奥村晃作のように小気味よいと受け取る人もいるだろう。〈私〉とはひとつの「現象」にすぎないという把握は,存在を実体的に把握してきた近代短歌にとって脅威となる言挙げである。作者にはもちろん近代短歌に反旗を翻す意図など毛頭ないのだが。

 歌集の奥付の略歴によれば,小笠原は1967年(昭和42年)生まれで,「個性の会」と「熾」会員。海洋学研究科という大学院を出て,現在は医療機器を開発する会社に勤務しているらしい。「小笠原魔土」という筆名では性別がわからないが女性である。

 理科系の歌人は決して少なくない。医者であった斎藤茂吉や上田三四二や岡井隆は別として,坂井修一や永田和宏は理科系の学者であり,若い歌人では永田紅や早川志織などがいる。しかし理科系の世界と短歌の間の浸透率はさまざまである。よく引用される永田和宏の「スバルしずかに梢を渡りつつありと,はろばろと美し古典力学」ではケプラーやラプラスの宇宙観を背景としつつも,歌に詠まれているのは古典力学の法則に基づいて静かに運行する天体を眺める人間の内面である。背景は理科系でも歌の世界はあくまで人文的なのだ。

 しかし小笠原の歌の世界が特異なのは,理科系の浸透率がより高く,小笠原が世界を分節する方法そのものが理科系的発想によっているという点にある。

 混沌(カオス)から引き上げられた秩序(コスモス)が法則(ロー)と呼ばれて君臨している

 囁きは弱い振動急速に大気の中で減衰していく

 さまざまな海洋物理の法則が船をこんなに揺らしているのだ

 悲しみはあなたの脳から放たれて私の目から流れ落ちてく

 セロトニン強制的に増加させ現実世界に虚像を結ぶ

 一首目・二首目の「カオス」「コスモス」「ロー」「振動」「減衰」などの理科系用語は,本来は歌語としては余りに硬質で観念的であり,抒情を基本とする短歌の文脈には乗りにくい。短歌に詠み込まれた事物は,「藤の花房」にせよ「向日葵」にせよ即物的な事物ではなく,それを通して作者の感情なり情感なりを詠むのが目的であるから,あらかじめ「情的意味」が付与されており,いわば「人文まみれ」の事物なのである。これにたいして「振動」「減衰」などの用語にはそのような「情的意味」がななく,これらを用いた短歌は即物的で非情で乾いたものにならざるをえない。近代短歌は基本的にこの「乾いた」状態を嫌う。このような用語をあえて用いているところに,小笠原の短歌の大きな特徴があると言える。

 三首目は自分が経験する船の揺れを,その原因である海洋物理の法則にまで遡って詠っている。先に挙げた永田和宏の歌でもまた,天空を渡るスバルの運動の原因を古典力学に遡っているので,歌の構造は一見同じに見えるのだが,その相違は隠れようもない。永田の歌では古典力学に思いを馳せて天空のスバルを眺めるという静かな情感が歌意の本質であり,自然を観照する〈私〉の位置は揺るぎない。ところが小笠原の歌では〈私〉の位置は安定からはほど遠く,揺れる船に乗船している〈私〉を自然法則のなかに溶解しようという姿勢が顕著である。〈私〉の消失が作者の密かな願望なのだ。

 四首目も実におもしろい。ふつうならば,「悲しんでいるあなたに共感して私が涙を流す」というように歌にするところだが,あなたの悲しみはあなたの脳が作り出したものであり,それが私に伝わると涙腺を刺激して涙が流れると,あたかも原因と結果を結ぶ自然現象のように記述されており,ここにもまた内面性は徹底的に消去されているのである。これは「細胞レベルの抒情」と呼んでよい。五首目にあるセロトニンは他の脳内物質の作用をコントロールして感情の暴走を抑え平常心を保つ働きがあるとされている。セロトニンを強制的に増加させるということは,より平常心に近づけるということであり,そうして見える現実世界を虚像だと見なす作者の視点が倒錯していることは明らかである。

 先に「〈私〉の消失が作者の密かな願望」だと書いた。このことは〈私〉を詠んだ歌を並べてみるとよくわかる。

 ふわふわのわたゴミとなり消えてゆくこの部屋にいた私の存在

 うっかりと忘れてしまった 四年前の私の演じた私の形

 波のような粒子のような私を捕えてごらん方程式で

 忘れられ廃墟でひとり茶をすする私の姿を鏡は映さぬ

 生物に課された役目を放棄するもう私は増えたくない

 もういいと誰かが許してくらたならさらさらさらと消えられるのに

 人間の張りぼてなんだ私は一皮剥けばただの暗闇

 ゴミとなりまたさらさらと消えて行きたいと繰り返し詠われている。〈私〉は確固とした意志と感情を持った個的存在ではなく,ふわふわとした希薄な存在でしかない。二首目の「四年前の私の演じた私の形」という箇所に内面性の不在があり,七首目の「人間の張りぼてなんだ」という断言にもまた作者のペシミスティックな人間観が現われている。なかなかおもしろいのは三首目で,「波のような粒子のような」というのは,素粒子が粒子としての性質と波動としての性質を併せ持つとする量子力学の物質観に依拠しているのだが,そのような存在形態を持ちながら私についての解を与える方程式はないと断じている。作者のペシミスティックな人間観はまた,「この惑星(ほし)を滅ぼすために送られた生物兵器としての人間」というような歌にも色濃く現われている。

 理科系の非情な眼差しは次のような実験室から醸し出される無機質の抒情を生む。

 透明なコレステロールの結晶がゆらゆら揺れてる生理食塩水(せいしょく)の瓶

 人間が体内に持つ色彩は外側よりもずっときれいだ

 人間は一皮剥けば骨だから都会はどこも骨だらけである

 実験中オゾンのにおいが鼻をつきブラインドごしに初雪を知る

 ゆらゆらと沈んでゆくのはマリンスノー私が結石(いし)を砕いて造った

 即物的な対象把握に湿った感情移入の影はない。最後の歌は腎臓結石を超音波破砕したかけらをマリンスノーに喩えたものだが,短歌のなかで腎臓結石がこのような形で詠まれたのはおそらく初めてではないだろうか。表現領域の拡大という観点から見るならば,確かに拡大されていると認めざるを得ない。

 小笠原のもうひとつの側面はオカルト指向である。これほどのオカルト短歌も珍しい。

 ロンドンは世界屈指の魔都だからドラキュラを呼ぶ 私も呼ばれた

 沈みゆく血の玉に似た太陽がサイレンたちの瞳を染めた

 死の国の王のくちづけ私は吸血鬼へと変化してゆく

 カン高いホムンクルスの嘲笑が居眠り博士をたたきおこした

 刑場へ続いた道をたどるとき残留思念が足にからまる

 吸血鬼,墓場,錬金術,聖杯,占星術,幽霊などが登場する定番のオカルト世界である。理科系の即物主義とオカルト趣味が同居しているのは奇妙に見えるかも知れないが,〈私〉の消失を希求する小笠原が「人間にあらざるもの」と「あちらの世界」に惹かれるのは当然なことだろう。中村幸一の栞文によれば,小笠原は常に黒い服を着ているということだ。まさかゴスロリではないだろうが,オカルト的雰囲気を日常生活でも実践しているというわけだ。

 さて,ここまで書いてきて気になることができてしまった。今まで私がしてきたように小笠原の短歌を読み解こうとしたら,さしたる抵抗もなくすらすらと読み解けてしまう。なぜかというと小笠原の作る短歌の多くが説明的だからである。だから表現の奥に分け入る努力をしなくても,表面を読んだだけで理解できてしまう。これはまずいのではなかろうか。

 短歌が言語による芸術である以上,そこにはかんたんに読み解くことができないような美がなくてはならないのではないか。読み解いても読み解いても何かがまだ残る歌,どこから読み解けばよいか見当もつかないのに不思議な美しさに輝く歌,意味を理解してしまった後でもいつまでも口に残る歌,意味だけ見ればつまらないのに言葉が輝いている歌,定型文学である短歌はこのような美をめざしてきた。小笠原にも腎臓結石のように不思議な光に輝く歌を期待したい。