サリン吸い堕胎を決めたるひとのこと
そのはらごのことうたえ風花
鈴木英子『油月』
そのはらごのことうたえ風花
鈴木英子『油月』
一読してハッと息を呑む歌というものがあるとすれば,それは掲出歌である。私は大阪での研究会に行く阪急電車の中でこの歌に出会い息を呑んだ。1995年の地下鉄サリン事件に遭遇し,そのとき妊娠していた女性のことを詠った歌である。鈴木の眼差しは事件に遭って亡くなった人や後遺症に苦しむ人たちに注がれるのみならず,その時お腹にいた胎児にも注がれている。もし堕胎された胎児まで勘定に入れるならば,地下鉄サリン事件の死亡者の数は公式発表よりも増えることになる。慄然とするとはこういうことを言うのだろう。恥ずかしいことだが,私はこの歌に出会うまで考えてみたこともなかった。腹の中の子にまで注がれるほどに人間に対して浸透する深いまなざし,これが鈴木の感受性の核であり,短歌を作る際の鈴木の一貫した視座を代表するものである。花鳥風月我ガコトニ非ズと言えば言い過ぎだろうか。
2005年8月に刊行された邑書林セレクション歌人シリーズの『鈴木英子集』は特異な構成になっている。第一歌集『水薫る家族』 (1985年)と第二歌集『淘汰の川』(1992年)はごく僅かの抄出歌のみで,大部分は本シリーズのために書き下ろされた第三歌集『油月』が占めている。同シリーズの佐々木六戈のように,歌集も句集もこのシリーズがデビューという特異な人もいるが,そもそも書き下ろし歌集というのはあまり聞いたことがない。過去を振り返らず,現在を重視する鈴木の姿勢の現われと受け取りたい。
鈴木は東京の月島の生まれである。『鈴木英子集』に解説を書いた藤原龍一郎も東京の下町の育ちであり,次のような鈴木の歌に体験共有的な共感を示している。鈴木の短歌を近くから見てきた人ならではの周到な解説である。
水無月にかなしき水を湛えおり家族をつつむ東京の水
築かれし佃・月島・晴海町わが濃きこの血を築きし町よ
路地裏のちいさき窓より空仰ぐ星なきこともわれは知りつつ
「街」ではなく「町」と書かれる風土を語るとき藤原は雄弁で,その風土を共有しない私としてはただ聴き入る他はない。文学研究に自然科学的決定論を持ち込んだイポリット・テーヌならば,「風土が人を作る」という公式の有効性を改めて誇るところだろう。これら鈴木の初期短歌では,自分を作り上げた風土が抑制された抒情とともに詠われているのだが,鈴木の歌が鈴木らしさを持ち始めるのは,次のような歌を作り始めた頃からかと思われる。
「級友を殺した僕たち」と君は亡き友よりもみずからを泣く
小学期,われも多数の側にいき独り立ちいるあの子を囲む
「死ぬ」と言い屋上の網に手をかけたあの子のスカート嘲(わら)って引いた
1986年に「お葬式ごっこ」遊びが引き金となり中学生が自殺した事件があった。その中学生の級友がたまたま鈴木が講師をしていた塾の生徒であったという偶然をきっかけに,鈴木は人間の背後に横たわるものに引きつけられるようになったらしい。遊びがきっかけとなって級友を殺してしまったことへの罪責感よりも,そんな立場に置かれてしまった自分たちを嘆く少年に批判的眼差しを投げかけるかと思えば,自らも幼い頃にイジメの多数派に与していたことを回想して,いったんは外に向けた刃を内に向けるという態度がここにある。それは人間を裁断することへのためらいの態度である。だから鈴木の眼差しはいつも柔らかい。
国内を出ずれば優しくなることに気づき私も日本もあわれ
ラワン材積みたる車と擦れ違うあれは私の国へ行く木々
一首目は海外に出た人ならば誰しも感じたことのある感覚を掬い上げて「私も日本もあわれ」と閉じているところに鈴木の態度がある。二首目も熱帯林の過剰伐採を批判する気持ちより,あわれと感じる気持ちの方が勝っている歌である。
第三歌集『油月』に至って鈴木が世界に注ぐ眼差しは限りなく低くなり,人や物の背後に回り込み内部に浸透するがごとき透過力を示すようになる。そこには結婚して生まれた娘さんが自閉傾向と診断されたという事情も与っているだろう。
川の上(へ)のプラットホームに朝々を笑みいる彼は智恵遅れの子
この子悲しや悲しやこの子朝なさな走る電車の中に自慰せり
かりそめの賑わいやあるボンベイに売られしほそき少女らあふれ
足場組むはいずれも異国のおとこにて挨拶だけを日本語にせり
まだ近き過去のことではあるけれど〈タイ米〉と呼ばれ死にし子ありき
そこでなき場へと渡りてゆく母子〈公園ジプシー〉と名づけて終わり
極北のバローから君は流氷の悲しさに都市へたどりつきしか
桃の子が駆ければここもうるわしき野となるほらほら兎も来たり
一首目と二首目は駅で見かけた知的障害児を詠っている。短歌では詠みにくいテーマを扱いながら,正面から見つめる目を逸らさずしかも眼差しが柔らかい。この「目を逸らさず,かつ柔らかい」という点に,鈴木の短歌の最も大きな特徴があるように思う。鈴木の視線は海外に出かけても身売りされ売春する少女たちや,日本で建設労働に従事している外国人労働者に注がれる。五首目ではやはり自殺した少年が,六首目では母親たちの輪に入れてもらえず公園を転々とする母子が取り上げられていて,〈公園ジプシー〉と名づけて終わりとするマスコミをやんわり批判している。七首目は伝統的生活を破壊され誇りを失ったイヌイットの人たちのあわれが詠われている。八首目の桃の子とは自閉傾向のある娘さんのこと。この歌では娘さんを童話的世界に遊ばせて詩的昇華を遂げさせている。
もう少し大きな短歌史的文脈で考えると,古典和歌の雅の世界から韻律的変化を遂げて俗のリズム (都々逸調) に近づいた歌を,今一度雅の世界へと引き戻す要請が近代短歌には課せられていたはずである。明治の短歌革新は写生という方法論を軸とすることでこれを実現しようとしたと見なすことができる。近代的〈私〉の真実がその担保と考えられていた。戦後の短歌史も軸こそ写生から変化し多様化はしたものの,基本的には同じ流れの中で捉えることができるだろう。
ところが鈴木の短歌,特に第三歌集『油月』を読んでいると,雅から身を引き剥がすようにしてむしろ俗に接近する姿勢が見える。たとえば次のような歌である。
若き日はおおかた一度は死にたくて。死ななきゃならない日がくるまでは
煮出しすぎの麦茶に麦のくさみしてわたしを煮出せるおとこが欲しい
夜空を歩いていたら一番会いたいひとがいてはやれる首をやさしく撫でた
川下に流れつきたるなりゆきの若ききわみの裸体グラビア
これは口語の多用といった文体的要因から生じる印象ではなく,おそらく歌の元となる発想を汲み上げる場所の問題である。鈴木の目線の低さはすでに指摘したところだが,これを徹底させると限りなく俗に接近することになる。もちろん俗を詠って歌とするにはそれなりの膂力が必要であり,それを実現している鈴木の歌はむしろ奇貨とすべきなのかもしれない。
最後に話題は変わるが、巻末に「二十三年目の詠み人しらず」という鈴木の文章が収録されている。1981年7月11日に内ゲバにより殺害された國學院大學学生の高橋秀直を追悼して大学の正門に立てられた看板に書かれていた「青年死して七月かがやけり軍靴の中の汝が運動靴」という歌をめぐるエピソードである。岡野弘彦がこの歌について大学新聞で言及し,また『短歌』(角川書店) 平成16年の8月号「101人が厳選する現代秀歌」特集でこの歌を選んでいる。私もこの号を読んでいて,大学のタテ看に書かれた作者不明の歌を現代秀歌として推すことに驚くとともに,この歌そのものに強い印象を受けた。國學院大學短歌研究会のメンバーであった鈴木は高橋と友人であり,そんなことからこの歌の作者とまちがえられたことがあるという話である。ほんとうの作者は短歌研究会4年生の安藤正という人だそうだ。鈴木の文章に出会い、知りたいとずっと思っていた謎が解けたような気がした。長い年月が経過しても人の記憶に残る歌の力を物語るエピソードである。青春の痛ましさを感じさせるこの歌とともに高橋秀直の名を記憶しておきたい。
2005年8月に刊行された邑書林セレクション歌人シリーズの『鈴木英子集』は特異な構成になっている。第一歌集『水薫る家族』 (1985年)と第二歌集『淘汰の川』(1992年)はごく僅かの抄出歌のみで,大部分は本シリーズのために書き下ろされた第三歌集『油月』が占めている。同シリーズの佐々木六戈のように,歌集も句集もこのシリーズがデビューという特異な人もいるが,そもそも書き下ろし歌集というのはあまり聞いたことがない。過去を振り返らず,現在を重視する鈴木の姿勢の現われと受け取りたい。
鈴木は東京の月島の生まれである。『鈴木英子集』に解説を書いた藤原龍一郎も東京の下町の育ちであり,次のような鈴木の歌に体験共有的な共感を示している。鈴木の短歌を近くから見てきた人ならではの周到な解説である。
水無月にかなしき水を湛えおり家族をつつむ東京の水
築かれし佃・月島・晴海町わが濃きこの血を築きし町よ
路地裏のちいさき窓より空仰ぐ星なきこともわれは知りつつ
「街」ではなく「町」と書かれる風土を語るとき藤原は雄弁で,その風土を共有しない私としてはただ聴き入る他はない。文学研究に自然科学的決定論を持ち込んだイポリット・テーヌならば,「風土が人を作る」という公式の有効性を改めて誇るところだろう。これら鈴木の初期短歌では,自分を作り上げた風土が抑制された抒情とともに詠われているのだが,鈴木の歌が鈴木らしさを持ち始めるのは,次のような歌を作り始めた頃からかと思われる。
「級友を殺した僕たち」と君は亡き友よりもみずからを泣く
小学期,われも多数の側にいき独り立ちいるあの子を囲む
「死ぬ」と言い屋上の網に手をかけたあの子のスカート嘲(わら)って引いた
1986年に「お葬式ごっこ」遊びが引き金となり中学生が自殺した事件があった。その中学生の級友がたまたま鈴木が講師をしていた塾の生徒であったという偶然をきっかけに,鈴木は人間の背後に横たわるものに引きつけられるようになったらしい。遊びがきっかけとなって級友を殺してしまったことへの罪責感よりも,そんな立場に置かれてしまった自分たちを嘆く少年に批判的眼差しを投げかけるかと思えば,自らも幼い頃にイジメの多数派に与していたことを回想して,いったんは外に向けた刃を内に向けるという態度がここにある。それは人間を裁断することへのためらいの態度である。だから鈴木の眼差しはいつも柔らかい。
国内を出ずれば優しくなることに気づき私も日本もあわれ
ラワン材積みたる車と擦れ違うあれは私の国へ行く木々
一首目は海外に出た人ならば誰しも感じたことのある感覚を掬い上げて「私も日本もあわれ」と閉じているところに鈴木の態度がある。二首目も熱帯林の過剰伐採を批判する気持ちより,あわれと感じる気持ちの方が勝っている歌である。
第三歌集『油月』に至って鈴木が世界に注ぐ眼差しは限りなく低くなり,人や物の背後に回り込み内部に浸透するがごとき透過力を示すようになる。そこには結婚して生まれた娘さんが自閉傾向と診断されたという事情も与っているだろう。
川の上(へ)のプラットホームに朝々を笑みいる彼は智恵遅れの子
この子悲しや悲しやこの子朝なさな走る電車の中に自慰せり
かりそめの賑わいやあるボンベイに売られしほそき少女らあふれ
足場組むはいずれも異国のおとこにて挨拶だけを日本語にせり
まだ近き過去のことではあるけれど〈タイ米〉と呼ばれ死にし子ありき
そこでなき場へと渡りてゆく母子〈公園ジプシー〉と名づけて終わり
極北のバローから君は流氷の悲しさに都市へたどりつきしか
桃の子が駆ければここもうるわしき野となるほらほら兎も来たり
一首目と二首目は駅で見かけた知的障害児を詠っている。短歌では詠みにくいテーマを扱いながら,正面から見つめる目を逸らさずしかも眼差しが柔らかい。この「目を逸らさず,かつ柔らかい」という点に,鈴木の短歌の最も大きな特徴があるように思う。鈴木の視線は海外に出かけても身売りされ売春する少女たちや,日本で建設労働に従事している外国人労働者に注がれる。五首目ではやはり自殺した少年が,六首目では母親たちの輪に入れてもらえず公園を転々とする母子が取り上げられていて,〈公園ジプシー〉と名づけて終わりとするマスコミをやんわり批判している。七首目は伝統的生活を破壊され誇りを失ったイヌイットの人たちのあわれが詠われている。八首目の桃の子とは自閉傾向のある娘さんのこと。この歌では娘さんを童話的世界に遊ばせて詩的昇華を遂げさせている。
もう少し大きな短歌史的文脈で考えると,古典和歌の雅の世界から韻律的変化を遂げて俗のリズム (都々逸調) に近づいた歌を,今一度雅の世界へと引き戻す要請が近代短歌には課せられていたはずである。明治の短歌革新は写生という方法論を軸とすることでこれを実現しようとしたと見なすことができる。近代的〈私〉の真実がその担保と考えられていた。戦後の短歌史も軸こそ写生から変化し多様化はしたものの,基本的には同じ流れの中で捉えることができるだろう。
ところが鈴木の短歌,特に第三歌集『油月』を読んでいると,雅から身を引き剥がすようにしてむしろ俗に接近する姿勢が見える。たとえば次のような歌である。
若き日はおおかた一度は死にたくて。死ななきゃならない日がくるまでは
煮出しすぎの麦茶に麦のくさみしてわたしを煮出せるおとこが欲しい
夜空を歩いていたら一番会いたいひとがいてはやれる首をやさしく撫でた
川下に流れつきたるなりゆきの若ききわみの裸体グラビア
これは口語の多用といった文体的要因から生じる印象ではなく,おそらく歌の元となる発想を汲み上げる場所の問題である。鈴木の目線の低さはすでに指摘したところだが,これを徹底させると限りなく俗に接近することになる。もちろん俗を詠って歌とするにはそれなりの膂力が必要であり,それを実現している鈴木の歌はむしろ奇貨とすべきなのかもしれない。
最後に話題は変わるが、巻末に「二十三年目の詠み人しらず」という鈴木の文章が収録されている。1981年7月11日に内ゲバにより殺害された國學院大學学生の高橋秀直を追悼して大学の正門に立てられた看板に書かれていた「青年死して七月かがやけり軍靴の中の汝が運動靴」という歌をめぐるエピソードである。岡野弘彦がこの歌について大学新聞で言及し,また『短歌』(角川書店) 平成16年の8月号「101人が厳選する現代秀歌」特集でこの歌を選んでいる。私もこの号を読んでいて,大学のタテ看に書かれた作者不明の歌を現代秀歌として推すことに驚くとともに,この歌そのものに強い印象を受けた。國學院大學短歌研究会のメンバーであった鈴木は高橋と友人であり,そんなことからこの歌の作者とまちがえられたことがあるという話である。ほんとうの作者は短歌研究会4年生の安藤正という人だそうだ。鈴木の文章に出会い、知りたいとずっと思っていた謎が解けたような気がした。長い年月が経過しても人の記憶に残る歌の力を物語るエピソードである。青春の痛ましさを感じさせるこの歌とともに高橋秀直の名を記憶しておきたい。