147:2006年3月 第2週 小高 賢
または、壮年を詠う近代主義者

ポール・ニザンなんていうから笑われる
    娘のペディキュアはしろがねの星

            小高賢『本所両国』
 私の愛唱歌のひとつである。若い人のために解説すると、ポール・ニザン (1905-1940)はフランスの作家で、共産党で活動するが独ソ不可侵条約に反対して離党し、党から裏切り者の中傷を浴び、後に戦死している。『アデン・アラビア』などの著作は1960年代後半に翻訳紹介され、全共闘世代によく読まれた。当時の長髪の若者の憧れの星だったわけだ。小高は1944年(昭和19年)生まれだから、全共闘世代の中核を構成する団塊の世代に属しており、多感な青春を政治の季節に送った一人である。娘はもちろん「ポール・ニザンって、誰?」世代に属するわけだから、父親の時代錯誤を笑っている。「しろがねの星」はかつての政治的理想を連想させるが、それが今では娘のペディキュアの模様と化している。この落差を見つめる視線がおかしみとなっている。世代間の断絶と同時に小高のテーマのひとつである「家族」につながる歌と言えよう。

 歌人としての小高の経歴はいささか特異である。第一歌集『耳の伝説』(1984年)のあとがきに詳しく書かれているが、講談社の編集者として馬場あき子に出会って意気投合し、その縁で岩田正・三枝昂之と知り合う。「歌だけはやりたくない」と言っていた小高が馬場の勧めで「かりん」創刊に参加し、短歌を作り始めたのが1978年頃である。34歳の出発は歌人としては遅いが、このことが小高の短歌の性質を規定した。社会人としての分別を備えた年齢になってから短歌に手を染めたため、ややもすれば自我の肥大と自己陶酔に陥りがちな青春短歌という階梯を飛ばして歌の世界に参入したのである。このため小高の歌は最初から、社会と自己を見つめる大人の冷静な視線に貫かれている。

 労働の傍注のごと夕映えの舗道の桝目かぞえて帰る     『耳の伝説』

 一族がレンズにならぶ墓石のかたわらに立つ母を囲みて

 的大き兄のミットに投げこみし健康印の軟球(ボール)はいずこ

 娶らざるグリム兄弟兄のこと草のいきれに咽びていたる

 夜のそこいに沈みゆくごと風聞けば父の巨きな耳の伝説

 青き葉を卓に並べるさびしきかな子はあきないを知りはじめたり

 小高の短歌の発想の場は、職場と家族と歴史上の人物との想像上の対話だが、それは第一歌集においてすでに明らかである。大きな福耳を持ちながら小さな死を死んだ父はすでに不在の存在として影を落としている。家族写真に写っているのは母のみと詠う二首目に漂う視線は大人のそれである。兄とのキャッボールに戦後の昭和を回想し、グリム兄弟の兄の運命に思いを馳せ、知恵をつける子供に社会人としての父の眼差しを注ぐ。どこにも青春の陶酔と錯誤はない。過度の思い入れを排して対象を見つめる視線が、健全な生活者であり、丸山真男に私淑する戦後の近代主義者である小高の特質である。

 小高の短歌は抽象的な観念に傾斜せず、歌に詠込まれた地名などの具体性がその手触りを保証している。

 壮年の本郷菊坂炭団坂夏に埋めおくことばさがせり  『耳の伝説』

 なまぐさき銀杏を踏む力こめて夕焼け前の行人坂よ

 よりそいて弁慶橋に繋がるる薄日を積みし秋のボートは

 みず溝によどむ真昼間向島の鍍金工場(めっきこうば)のくれないの旗

 東京の下町である本所生まれの小高が詠込むのはやはり親しんだ下町の地名が多い。また『耳の伝説』には東京の坂が多く登場する。森まゆみの『鴎外の坂』は森鴎外が住んだ場所にある坂と鴎外の文学者としての歩みを関係づけて論じた佳作だが、坂が人生の暗喩であることは言を待たない。『耳の伝説』の底を流れているのは「壮年の歩み」の自覚であり、人生を坂と観ずるのもまた青年期には絶えてないことである。

 投企(アンガージュ)わが語彙を去りいくばくやいよよ尖りし月見上ぐれば

 わが言葉待ち迎えいる狡猾な顔あり憎む午後の会議に

 壮年の超ゆべき暗部にたまりつつ麦の匂いす夏の小雨は

 小高が父親や祖父に思いを馳せ、歴史上の人物と想像上の対話を試みるとき、そこには歴史的連続の意識が強く働いている。

 透谷の享年二十五歳風塵の春の生活(たつき)をわれは抱けり   『耳の伝説』

 父の眼の背向(そがい)にせまりくるごとき秋壮年の眼(まなこ)もてみる

 夜半に読む「仰臥漫録」さむしさむし足あり手あり生きつづくるは

 夕暮れがアジアのはてに降りそそぎ妻を娶らぬ賢治思ほゆ

 中里介山死せる戦中十九年生をうけたりわれは本所に  『家長』

 家族論――その父の座に漱石もわれもすわりぬ日日不機嫌に

 鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき

 祖父があり父があって私がいるという家族における歴史的連続性、漱石がなろうとした一家の長として自分もまた同じ悩みを抱くという共感がここにある。

 せいねんのぬけがらのごとひとがたはぷーるさいどにぬれのこりたり 『家長』

 珍しく青年を詠ったこの歌で小高は平仮名で「せいねん」と書く。村木道彦は甘やかに「せいねん」の歌を詠い、小池光もまた「ひとり聴く潮騒さみし春の湯に泡たてあらふせいねんの髪」と青春の感傷を詠んだ。このようなニュアンスをこめて平仮名で「せいねん」と書くことは今ではもうできない。それは、少年から思春期を経て青年になり、やがて壮年を迎えるという、社会的に共有された年齢区分が崩れてしまったからである。モラトリアムという用語もすでに懐かしくなった現代においては、青年期と壮年期の境界は限りなく曖昧になり、青年期は引き延ばされ、その終端は灰色の領域に沈んでいる。夏目漱石は49歳で没しているが、人口に膾炙した口ひげをたくわえた写真の顔は、とても今の同年齢の人物のそれではない。明確な年齢区分が消失すると同時に、壮年になって甘酸っぱく回顧する青年期もまた消滅した。私たちはただだらだらと歳をとる時代に生きているのである。

 年齢区分の消失というこの現代的現象が、歴史という縦糸の連続性の自覚を蒸発させたことに注意すべきである。祖父がいて父がいて、自分もまた父の年齢を迎え一家の長となり、昔父が座っていた居間の指定席に座る。この連続性が壊れるということは、自らも歴史の流れのなかにいるという内的実感が消失するということである。小高の短歌を読んでいて痛切に感じるのは、〈自分は歴史的存在である〉という小高の自覚であり、それは小高の世代の人間が持つことができるものであった。小高の近代主義的人間観はそこに由来する。同時に痛切に感じるのは、このような連続性の意識は、加藤治郎や穂村弘らのニューウェーブ短歌の旗手らが遂に持つことができないものだということである。彼らに非があるわけではない。生まれ落ちた時代がそうさせるのである。「僕たちはつるつるのゴーフルだ」とつぶやく穂村が「せいねん」と書くことを想像することができない。この意味で小高の第一歌集『耳の伝説』、第二歌集『家長』を現在読み返すと、どこか懐かしさすら覚えて懐古的気分に捉えられるのである。

 小高の最新歌集『液状化』(2004年)を一読しての正直な感想は、残念ながらネガティヴなものであった。歌が平板化している。

 としふればふりむくたびに増ゆる死者夏の木の間の影と連れ立ち

 東京の雨たっぷりと注がれて蟇(ひき)三匹の路地の横断

 ほしいときかならず消えて見つからぬ糊のゆくえを追う夫婦にて

 辞めること前提なれば抵抗のかたちとしてのながき沈黙

 エレベーター今朝は各停香水のつよきおみなのうしろに立てり

 明日からの閉店セール妻と娘は他人の不幸なれではなやぐ

 年老いた母親の介護と死、長年勤務した出版社の退職がこの歌集の背景となる大きな事件である。小高の短歌はもともと生活に眼差しを注ぐもので、難解なところはまったくない。しかし『液状化』に収録された歌は、実人生における事件の大きさに見合う修辞を獲得していない。どうしてこうなったのだろうか。

 山田富士郎は「夢のありか」(『現代短歌雁』27号)という文章のなかで、同世代の歌人と比較しての小高の特徴として、前衛短歌の影響の不在と、韻律や短歌定型への関心の薄さを指摘している。同じ世代の永田和宏や三枝昂之が執拗なまでに短歌定型への考察を展開しているのにくらべて、小高は文学形式としての短歌という形式そのものを論じることがない。それはおそらく小高の拠る近代主義的人間観と生活者としての健全さのなせる業である。小高には短歌定型という魔に魅入られたというところがまったくない。小高にとって短歌は「意味を盛る器」であり、意味の含有量をゼロに近くしても鳴り響く器ではない。だから定型の可能性を探る実験や修辞の試みによって定型を革新しようという姿勢はもともと薄い。

 『耳の伝説』や『家長』で小高が代表歌となる良質の歌を作ることができたのは、歌を作る場である職場・家族・社会と作者とが緊張関係をはらみ、それが作歌の圧力となってプラスに働いたためである。職場・家族・社会から逆照射されて浮上する〈私〉は、明確な像を結び修辞の基点として歌の核となる。ところが、歌を作る場である職場・家族・社会からの圧力が下がった時、場から逆照射される〈私〉の像も同時にぼやけてしまう。〈私〉と場の力学はおおよそそのような位相にあると考えられる。

 ぼやけた〈私〉を再び明確に結像するには、修辞の力による他はない。加藤治郎の近作が『短歌レトリック入門』(風媒社)であるのは象徴的以上の意味がある。現代においては修辞の力によってしか〈私〉を浮上させることはできないと加藤は考えているのである。小高の近作が平板になっているのには、このような事情が働いているのではないだろうか。それはまた「近代」の賞味期限が切れたということでもあるのだ。