第137回 小高賢追悼

ポール・ニザンなんて言うから笑われる娘のペデイキュアはしろがねの星
                      小高賢『本所両国』
 小高賢が2月11日に亡くなった。小高は1944年生まれなので享年69歳になる。毎年「短歌研究」の12月号は巻頭で一年を回顧し、鬼籍に入った歌人を掲載しているが、今年の年末の号には小高の名も載るのだろう。
 小高の短歌についてはすでに書いたことがあり、それ以上付け加えることはないのだが、訃報に接して今回取りあげることにしたのは、その少し前に「短歌研究」2月号に掲載された川野里子の「時間について」という読み応えのある短歌時評を読んでいて、少しく思うところがあったからである。
 川野は角川「短歌年鑑」26年版の座談会「秀歌とは何か」で、参加者の岡井隆、米川千嘉子、永井祐があげた秀歌の条件から筆を起こす。岡井のあげる「展開するイメージ (視覚的なるもの)の美」「一首の韻と律のこころよさ」や、米川の「くきやかな韻律・文体の味わいが渾然となって、豊かに感情や認識が表現されている」といった条件は、微妙な差を除けば地続きと感じられるのにたいして、永井のあげた「面白い」「すごい」「見たことない」と前二者のあいだはふっつりと切れたところがあるとする。永井のあげた条件から公約数を取るとそれは「驚き」であり瞬間的なものである。このように「時間」ではなく「瞬間」に重心が移っていることがふっつりと切れた印象の原因だという。川野はそこから論を広げて、私たちの生活から「時間」という要素が希薄になってきていて、私たちは過去から未来へと向かう「時間」を失いつつ生きているのであり、永井はそうした時代の空気の体現者のイメージがあるとする。さらに川野は過去から未来へと向かう時間軸を夢想するのは共同体であり、今時間が失われつつあるとすれば、それは共同体そのものがなくなっているか、あるいは大幅な再編期を迎えているからだと鋭く指摘している。 
 小高に話を戻すと、小高の歌人としての履歴はいささか変わっている。講談社の編集者として馬場あき子と知り合い、「あなたも短歌を作りなさいよ」と言われて「かりん」創刊に参加したのが1978年、小高34歳の年である。この事実はふたつのことを意味する。ひとつは小高が青春の陶酔に基づく短歌を経験していないということである。短歌と青春は相性が良い。しかし小高が作歌を始めたのはすでに分別のつく大人になってからである。だから第一歌集『耳の伝説』(1984年)刊行時において、小高の歌はすでに大人の歌であった。
いつか超ゆる壁とおもいき幅ひろき父の背中を洗いしときは 
                        『耳の伝説』
的大き兄のミットに投げこみし健康印の軟球ボールはいずこ
壮年の本郷菊坂炭団坂夏に埋めおくことばさがせり
 もうひとつは小高が前衛短歌の毒を浴びていないということである。前衛短歌の時代は昭和20年代末から30年代であり、小高の歌人としての出発はずっと後なので、小高は前衛短歌の衝撃をリアルタイムで体験していない。これが何を意味するか。
 三枝昴之は『岩波現代短歌辞典』の「近代短歌と現代短歌」の項で、近代短歌と現代短歌を分かつ時代的境界線をどこに引くかについて、3つの説を紹介している。前川佐美雄の『植物祭』に現代短歌の起点を見る島津忠夫は昭和5年、合同歌集『新風十人』が前衛短歌技法の出発点だとする菱川善夫は昭和15年、前衛短歌こそが現代短歌の幕開けだとする篠弘は昭和20年代末に境界線を引く。しかしいずれの説も前衛短歌の表現の革新と私性の更新に近代と現代を分かつ道標を見ている。しかし後段になって三枝は短歌百年のマクロな視点に立って、近代短歌と現代短歌の区別を相対化する。このような視座から改めて眺めれば、小高の短歌には表現技法の革新と私性の更新という側面は極めて薄く、現代短歌というよりは近代短歌の名がふさわしいのである。
 また本名鷲尾賢也としての編集者の経歴も看過できない。政治学者丸山真男に私淑し、思想的には左寄りのリベラルであった小高はまぎれもない近代主義者であった。ここで言う近代主義とは、過去の反省と批判を基盤として、民主主義的な市民社会の成熟と自由の保証に価値を置く態度を言う。
〈英雄でわれらなきゆえ〉朝ごとのひげそりあとの痛き「エロイカ」
                           『家長』
 この歌の底に流れているのは英雄になれない自分への慨嘆ではない。小高が信じた戦後民主主義とは、そもそも英雄を生まない社会システムだからである。
 ぐるっと回って冒頭に触れた座談会「秀歌とは何か」に戻ると、岡井・米川と永井の立場がふっつりと切れているように見えるのは、手短に言えば前二者が近代短歌の文脈に位置しているのにたいして、永井はピカピカの現代短歌派だということに尽きる。両者を分かつのは、三枝が重視した表現の革新と私性の更新というよりも、川野が指摘した「時間」かそれとも「瞬間」かという時間意識のちがいであろう。最近、陸続と若手歌人の歌集が刊行されているが、そのいずれを繙いてみても、小高の短歌に見られるような重く沈潜する時間を見いだすことはできない。近代は遠景へと遠ざかり、「時間」は死につつあるのだ。
 小高は在職中に講談社現代新書や選書メチエの編集に携わっている。私の書斎にもどちらもたくさん並んでいるが、小高が編集した本はないかと探してみたら見つかった。鈴木晶『グリム童話』(1991)のあとがきに、「講談社の鷲尾賢也氏に心から感謝の意を表したい。氏の『愛の鞭』がなかったら、本書はできあがらなかった」と記されていた。改めて冥福を祈りたい。


【追記】  2月19日の朝日新聞朝刊に「名編集者 早すぎる別れ」と題して鷲尾賢也の逝去を悼む記事が掲載された (執筆は朝日新聞編集委員の吉村千彰)。鷲尾は講談社の名物編集者として知られていたという。「僕は講談社の中で岩波書店をやってるんだ」という鷲尾の言葉が紹介されていて、なるほどと得心した。選書メチエを立ち上げた鷲尾にしてみれば、新書がどんどん学術から実用へと流れて行くことに危惧を感じていたのだろう。14日に執り行われた葬儀で文芸評論家の加藤典洋が「もう、褒めてもらえず、ここはダメだよとも言ってもらえない」と声を詰まらせたという。作家の信頼篤い編集者だったことがわかる。このコラムには編集者の鷲尾賢也が歌人の小高賢であったことは触れられていない。(2月19日追記)

147:2006年3月 第2週 小高 賢
または、壮年を詠う近代主義者

ポール・ニザンなんていうから笑われる
    娘のペディキュアはしろがねの星

            小高賢『本所両国』
 私の愛唱歌のひとつである。若い人のために解説すると、ポール・ニザン (1905-1940)はフランスの作家で、共産党で活動するが独ソ不可侵条約に反対して離党し、党から裏切り者の中傷を浴び、後に戦死している。『アデン・アラビア』などの著作は1960年代後半に翻訳紹介され、全共闘世代によく読まれた。当時の長髪の若者の憧れの星だったわけだ。小高は1944年(昭和19年)生まれだから、全共闘世代の中核を構成する団塊の世代に属しており、多感な青春を政治の季節に送った一人である。娘はもちろん「ポール・ニザンって、誰?」世代に属するわけだから、父親の時代錯誤を笑っている。「しろがねの星」はかつての政治的理想を連想させるが、それが今では娘のペディキュアの模様と化している。この落差を見つめる視線がおかしみとなっている。世代間の断絶と同時に小高のテーマのひとつである「家族」につながる歌と言えよう。

 歌人としての小高の経歴はいささか特異である。第一歌集『耳の伝説』(1984年)のあとがきに詳しく書かれているが、講談社の編集者として馬場あき子に出会って意気投合し、その縁で岩田正・三枝昂之と知り合う。「歌だけはやりたくない」と言っていた小高が馬場の勧めで「かりん」創刊に参加し、短歌を作り始めたのが1978年頃である。34歳の出発は歌人としては遅いが、このことが小高の短歌の性質を規定した。社会人としての分別を備えた年齢になってから短歌に手を染めたため、ややもすれば自我の肥大と自己陶酔に陥りがちな青春短歌という階梯を飛ばして歌の世界に参入したのである。このため小高の歌は最初から、社会と自己を見つめる大人の冷静な視線に貫かれている。

 労働の傍注のごと夕映えの舗道の桝目かぞえて帰る     『耳の伝説』

 一族がレンズにならぶ墓石のかたわらに立つ母を囲みて

 的大き兄のミットに投げこみし健康印の軟球(ボール)はいずこ

 娶らざるグリム兄弟兄のこと草のいきれに咽びていたる

 夜のそこいに沈みゆくごと風聞けば父の巨きな耳の伝説

 青き葉を卓に並べるさびしきかな子はあきないを知りはじめたり

 小高の短歌の発想の場は、職場と家族と歴史上の人物との想像上の対話だが、それは第一歌集においてすでに明らかである。大きな福耳を持ちながら小さな死を死んだ父はすでに不在の存在として影を落としている。家族写真に写っているのは母のみと詠う二首目に漂う視線は大人のそれである。兄とのキャッボールに戦後の昭和を回想し、グリム兄弟の兄の運命に思いを馳せ、知恵をつける子供に社会人としての父の眼差しを注ぐ。どこにも青春の陶酔と錯誤はない。過度の思い入れを排して対象を見つめる視線が、健全な生活者であり、丸山真男に私淑する戦後の近代主義者である小高の特質である。

 小高の短歌は抽象的な観念に傾斜せず、歌に詠込まれた地名などの具体性がその手触りを保証している。

 壮年の本郷菊坂炭団坂夏に埋めおくことばさがせり  『耳の伝説』

 なまぐさき銀杏を踏む力こめて夕焼け前の行人坂よ

 よりそいて弁慶橋に繋がるる薄日を積みし秋のボートは

 みず溝によどむ真昼間向島の鍍金工場(めっきこうば)のくれないの旗

 東京の下町である本所生まれの小高が詠込むのはやはり親しんだ下町の地名が多い。また『耳の伝説』には東京の坂が多く登場する。森まゆみの『鴎外の坂』は森鴎外が住んだ場所にある坂と鴎外の文学者としての歩みを関係づけて論じた佳作だが、坂が人生の暗喩であることは言を待たない。『耳の伝説』の底を流れているのは「壮年の歩み」の自覚であり、人生を坂と観ずるのもまた青年期には絶えてないことである。

 投企(アンガージュ)わが語彙を去りいくばくやいよよ尖りし月見上ぐれば

 わが言葉待ち迎えいる狡猾な顔あり憎む午後の会議に

 壮年の超ゆべき暗部にたまりつつ麦の匂いす夏の小雨は

 小高が父親や祖父に思いを馳せ、歴史上の人物と想像上の対話を試みるとき、そこには歴史的連続の意識が強く働いている。

 透谷の享年二十五歳風塵の春の生活(たつき)をわれは抱けり   『耳の伝説』

 父の眼の背向(そがい)にせまりくるごとき秋壮年の眼(まなこ)もてみる

 夜半に読む「仰臥漫録」さむしさむし足あり手あり生きつづくるは

 夕暮れがアジアのはてに降りそそぎ妻を娶らぬ賢治思ほゆ

 中里介山死せる戦中十九年生をうけたりわれは本所に  『家長』

 家族論――その父の座に漱石もわれもすわりぬ日日不機嫌に

 鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき

 祖父があり父があって私がいるという家族における歴史的連続性、漱石がなろうとした一家の長として自分もまた同じ悩みを抱くという共感がここにある。

 せいねんのぬけがらのごとひとがたはぷーるさいどにぬれのこりたり 『家長』

 珍しく青年を詠ったこの歌で小高は平仮名で「せいねん」と書く。村木道彦は甘やかに「せいねん」の歌を詠い、小池光もまた「ひとり聴く潮騒さみし春の湯に泡たてあらふせいねんの髪」と青春の感傷を詠んだ。このようなニュアンスをこめて平仮名で「せいねん」と書くことは今ではもうできない。それは、少年から思春期を経て青年になり、やがて壮年を迎えるという、社会的に共有された年齢区分が崩れてしまったからである。モラトリアムという用語もすでに懐かしくなった現代においては、青年期と壮年期の境界は限りなく曖昧になり、青年期は引き延ばされ、その終端は灰色の領域に沈んでいる。夏目漱石は49歳で没しているが、人口に膾炙した口ひげをたくわえた写真の顔は、とても今の同年齢の人物のそれではない。明確な年齢区分が消失すると同時に、壮年になって甘酸っぱく回顧する青年期もまた消滅した。私たちはただだらだらと歳をとる時代に生きているのである。

 年齢区分の消失というこの現代的現象が、歴史という縦糸の連続性の自覚を蒸発させたことに注意すべきである。祖父がいて父がいて、自分もまた父の年齢を迎え一家の長となり、昔父が座っていた居間の指定席に座る。この連続性が壊れるということは、自らも歴史の流れのなかにいるという内的実感が消失するということである。小高の短歌を読んでいて痛切に感じるのは、〈自分は歴史的存在である〉という小高の自覚であり、それは小高の世代の人間が持つことができるものであった。小高の近代主義的人間観はそこに由来する。同時に痛切に感じるのは、このような連続性の意識は、加藤治郎や穂村弘らのニューウェーブ短歌の旗手らが遂に持つことができないものだということである。彼らに非があるわけではない。生まれ落ちた時代がそうさせるのである。「僕たちはつるつるのゴーフルだ」とつぶやく穂村が「せいねん」と書くことを想像することができない。この意味で小高の第一歌集『耳の伝説』、第二歌集『家長』を現在読み返すと、どこか懐かしさすら覚えて懐古的気分に捉えられるのである。

 小高の最新歌集『液状化』(2004年)を一読しての正直な感想は、残念ながらネガティヴなものであった。歌が平板化している。

 としふればふりむくたびに増ゆる死者夏の木の間の影と連れ立ち

 東京の雨たっぷりと注がれて蟇(ひき)三匹の路地の横断

 ほしいときかならず消えて見つからぬ糊のゆくえを追う夫婦にて

 辞めること前提なれば抵抗のかたちとしてのながき沈黙

 エレベーター今朝は各停香水のつよきおみなのうしろに立てり

 明日からの閉店セール妻と娘は他人の不幸なれではなやぐ

 年老いた母親の介護と死、長年勤務した出版社の退職がこの歌集の背景となる大きな事件である。小高の短歌はもともと生活に眼差しを注ぐもので、難解なところはまったくない。しかし『液状化』に収録された歌は、実人生における事件の大きさに見合う修辞を獲得していない。どうしてこうなったのだろうか。

 山田富士郎は「夢のありか」(『現代短歌雁』27号)という文章のなかで、同世代の歌人と比較しての小高の特徴として、前衛短歌の影響の不在と、韻律や短歌定型への関心の薄さを指摘している。同じ世代の永田和宏や三枝昂之が執拗なまでに短歌定型への考察を展開しているのにくらべて、小高は文学形式としての短歌という形式そのものを論じることがない。それはおそらく小高の拠る近代主義的人間観と生活者としての健全さのなせる業である。小高には短歌定型という魔に魅入られたというところがまったくない。小高にとって短歌は「意味を盛る器」であり、意味の含有量をゼロに近くしても鳴り響く器ではない。だから定型の可能性を探る実験や修辞の試みによって定型を革新しようという姿勢はもともと薄い。

 『耳の伝説』や『家長』で小高が代表歌となる良質の歌を作ることができたのは、歌を作る場である職場・家族・社会と作者とが緊張関係をはらみ、それが作歌の圧力となってプラスに働いたためである。職場・家族・社会から逆照射されて浮上する〈私〉は、明確な像を結び修辞の基点として歌の核となる。ところが、歌を作る場である職場・家族・社会からの圧力が下がった時、場から逆照射される〈私〉の像も同時にぼやけてしまう。〈私〉と場の力学はおおよそそのような位相にあると考えられる。

 ぼやけた〈私〉を再び明確に結像するには、修辞の力による他はない。加藤治郎の近作が『短歌レトリック入門』(風媒社)であるのは象徴的以上の意味がある。現代においては修辞の力によってしか〈私〉を浮上させることはできないと加藤は考えているのである。小高の近作が平板になっているのには、このような事情が働いているのではないだろうか。それはまた「近代」の賞味期限が切れたということでもあるのだ。